第五話 黒い人間
村の面々が狩りの集合場所として選んだのは、切り立つ崖の底に細く開けた場所だった。
こうした断崖の底は〈蛇の道〉とも呼ばれ、ところどころ大きな節を作りながら、曲がりくねった一本道が延々と続く構造となっている。視界は悪いが身を潜めるにはうってつけの地形といえ、万一魔物に狙われた際にも、前後に集中して人手を振り分ければ全周囲からの襲撃に怯えずに済む。
ただしその想定はあくまで最悪の場合を想定してのものであり、何より重要なのはそうなる前の警備体制だ。何事も起こらないなら、起こらないまま終わるのが一番いい。そのため合流地点の前後には何人もの見張りが配され、どんな物影にも警戒が行き届くよう、そこだけは特に剣呑な物々しさに包まれている。
しかし、それが張子の虎でしかない事は誰の目にも疑いようがない事実だった。
何しろそうした歩哨の村人が、一切の武器を身につけていないのだから。
よく見ればほとんどの村人は腕組みをして立っているだけで、槍の一本も持ち合わせていない。これではいざ魔物と相対した時、どれほどの抵抗が出来るかは甚だ疑問である。
だが日々の糧にさえ事欠く彼らに、どれほどの武装が用意出来るのだろう。そして槍を一本用意するのなら、彼らはその分、仕掛ける罠を増やすに違いない。真に迫る脅威は魔物ではなく、飢えである事を誰もが認識しているからだ。
一方で、彼らが武器を携行しない理由には他の合理性もある。
この地に生息する魔物が人間の脅威である事に違いはないが、しかし見境なしにというわけではない。そのほとんどは蛮勇とは程遠い性質の持ち主だという事を人間の側も承知しており、こうして大勢の村人が物々しく辺りを窺っているだけで、大抵の魔物は警戒して近寄ってこない。
それはつまり、この土地に暮らす人間たちが身につけた生活の知恵だった。
双方ともに事を荒立てずに済む、最も安全で効果的な、一つの防衛手段のようなもの。だから中央に大きな篝火を囲んだ彼らは、人間がここにいる証である火だけを絶やさぬよう気を配り、あとはそっと息を潜めていればいい。
無用に闇の住人を刺激する事がないよう。
けれども、目は見開いて。
すでに狩りを終えた大勢の村人は、そんな篝火の周囲で残る仲間たちの到着を待ちわびていた。
「……残りの到着は何人だ?」
「あと少しといったところか。今日はやけに時間がかかるな」
出発はまだだろうか。崖に吹く風が強くなってきている。
夜の侵食が刻々と色を濃くする中、いかに篝火の近くと言えども、悪戯に長居するのはあまり賢い判断とは言えなかった。彼らは口数も少なく、けれど焦れたように、ただ出発の声を待っている。
「あれ……俺たちの影だよな」
「馬鹿を言え。あ、当たり前だろう」
何故なら彼らは、いまや魔物以外のもう一つの存在にも気を配らねばならなかったから。これで何度目か、その存在に怯えた男たちの声が風を切る音に混じって聞こえてきた。
すでに辺りは暗がりに没し、篝火以外にもいくつかの松明が村人らの間に渡されている。だが中央の篝火と、周囲の村人が持つ松明が風に煽られるたび──踊るそれ。彼らを囲む岩壁に映る彼ら自身の影が、不規則な炎の動きに合わせて揺れている。
まるで別の生き物のように蠢く、輪郭だけの黒い人間。
彼らはそんな村人らの周りをぐるぐると回り、でたらめな舞いを捧げていた。
本当に村人たちはそんな動きなどしていただろうか? 風のせいと言われればそれまでだが、その様子に違和感を覚えた村人たちが、何人も壁面を見上げている。
「……まったく、薄気味が悪いぜ」
それは影人による狂気の宴か、あるいは闇の祭典か。
やがて一人の村人が怖気に身を震わせ、その狂信者たちから目を逸らした。
しかし一度心に根付いた不安の種は、そう簡単に消えるものではない。世界を覆う黒の浸食とともに、あらぬ想像が心を蝕んでゆく。たとえ視線を外しても、手招きをするようなあの影人の動きは脳裏に焼きついたまま決して離れようとしなかった。
あたかも光射さぬ閉塞の世界から、篝火の明かりへ懸命にその手を伸ばすように。
それとも──彼らは、悶えているのだろうか?
救われぬ悲しみを嘆いているのだろうか?
もう一度男の目が壁面を向けられた時、ふとそれまでの風が止んでいた。
黒い人間は、一斉に男を見つめていた。
狩りを終えたグレイスらが蛇の道へと到着を果たした頃、村人たちは点呼を経て、ようやく村への帰路に着こうとしていた。
幸いにも合流に漏れた仲間の姿はなく、むしろ帰りは少年が一人増えたという点を除いて、村を出た時と同じ面子は確認された。彼らは互いにひとまずの労をねぎらうと、間隔を開けて松明を掲げ、長い縦列を作って険しい荒地を歩き出した。
長い道程だ。途中、人一人が通れるかどうかの険しい崖や、大小様々な岩が転がる悪路もある。楽な道のりではない。それでも狩りの収穫さえあるなら朝からの疲労も吹き飛ぼうというものだが、誰一人楽しげな会話を口にする者はなく、それらは葬儀の列のように重苦しい沈黙に包まれていた。
「……どうだった、今日の成果は?」
荷車の方を確認しに行ったグレイスが戻ってきたのを確認して、マスタッシュが低い調子で声をかけた。少年の手を引くグレイスの表情を見る限り、聞くまでもない事は明らかだったろう。
「ひどいものだよ。村の男を挙げての成果がこれとは」
しかし長い帰路の気を紛らす話題もほかにない。たとえ現実から目を背けたところでこの事実は変わらず、それはグレイス自身が率先して今日の成果を見に行った事からも、結論を先延ばしにするよりは受け止める方を彼は選んだのだろう。松明に照らされたグレイスの表情には幾つもの皺が深く刻まれており、その声はひどく静かなものだった。
「狐が一匹と、野兎が三匹だ」
「そいつは燻す手間も省けたな。一晩で食いきれる」
冗談めいた口調でおどけながら、マスタッシュは肩をすくめた。
もちろん、笑う人間などいない。言葉を返す人間も。周囲から聞こえてくるのは、ざりざりと砂を蹴る足音だけで、皆が石のように口を噤んでいる。当のマスタッシュでさえ、それは誰かの相槌を期待しての言葉ではなかった。
「狐が一匹に、野兎が三匹……」
だが唐突に彼らの後方からそんな呟きが漏れ、マスタッシュは太い首を捻って声の方を振り向いた。
うわ言のように復唱する男の声。
声は若かったが、まるで夢遊病者が発するような、気力もなく、不明瞭で、低くうなだれるような声だった。
「ウェイン?」
その声にはすぐに思い当たった。グレイスも怪訝な様子で声の主を振り返る。
何人か先の最後列近くで、やはりウェインの頭が覗いていた。
しかし顔を伏せ、乏しい明かりの中で見る彼の表情は驚くほどに暗い。鮮やかな金髪と深い碧眼に彼本来の生気は感じられず、いまやその視線がどこを向いているのかさえグレイスには定かではなかった。
「……どうした。何があった?」
思わず彼に近寄って、今にもよろめきそうな彼の身体を支えてやる。
明らかに普段の彼とは様子が違っていた。
痩身だが若さに溢れ、溌剌と村の仕事をこなすウェインの姿は、常に年少者たちの模範たる存在だった。面倒見もよく、多くの子供たちに兄として慕われ、グレイス以外にはあまり懐かない少年でさえ、そんなウェインには特別の親しみを覚えていた。その人柄はグレイスだけでなく、広く皆の知るところでもある。
「……何があった、だって?」
だがいまや彼の表情から、その純朴な笑顔は完全に失われていた。
今度はグレイスの言葉を復唱し、ウェインは大きくその表情を変える。
卑屈な、口元を歪ませるような嘲笑だ。若者は声もない笑いに肩だけを震わせてグレイスを睨んだ。
「あんたには分からないのか、この有り様が」
一瞬、虚を突かれたように言葉を失うグレイス。次第にウェインは沸々とした笑い声を漏らすようになり、最後にはげらげらと腹を抱えて笑い出していた。
裏返った声を響かせて、ウェインは芋虫のように身を捩る。
わずかばかりの松明の明かりの中、暗がりに浮かぶ彼の輪郭は、不思議とそれを見る者にあの黒い人間の姿を連想させた。
まるであの影人が岸壁を抜け出し、村人の列に混じってこの場に現れたような既視感。ウェインの姿は壁面の狂人と何も変わらない。
「お、おいウェイン、しっかりしろ!」
すると異変を察した村人たちが、徐々にウェインの周りに集まってきた。
彼らにとっても、今のウェインはまさに別人だろう。その変貌ぶりに戸惑いつつも何とか彼を落ち着かせようと努力するが、黒い人間の増長は止まらない。
ウェインは仰け反るほどにその感情を爆発させた。
「聞こえただろう? 大の男らを三十人も動員して、一日中獲物を探し回った挙句が片手で足りる狐に野兎だ。いったい村には何人の人が暮らしていると思う? 俺の頭が馬鹿になったのかッ?」
一気に言葉をまくし立て、暴風の如くその衝動を高めてゆく。
一方で皆の顔色は、それとはあまりに対照的なものだった。
反論する言葉もなく、ただ唇を噛んで伏せられる彼らの表情。どれだけ目を背けようと、その現実は彼ら自身の目の前にある。
いまや無視も困難なほどに、うず高く積み上がって。
「いいや、狂ってるのは俺じゃない。俺だけが真実を見てる」
ウェインはその黒々とした破滅を、もう見るしかなかったのだろう。ゆえに彼が放つ言葉の一つ一つこそが、紛れもない真実だった。
今日の獲物の数では、村の備蓄庫は一日と持たず空になる。そして翌日からはまた何も口にしない生活に戻るだけだ。村の狩り場は獲物の減少に伴い、日に日に遠くなっている。このままでは数日と村を空けるようになるかもしれない。
その間、彼らは何を食べればいい──?
空腹の期間が、少しずつ長くなっている。まるで彼らの命をそっと削ぐように。
もう何年も何年も、元の命が分からなくなるほど命を削がれ続けている。それは痩せ衰えた彼らの足が動けなくなる時まで、恐らくはずっと。
彼らの飢餓は何一つ解決されてはいないのだ。
「どうしてそんな顔をしていられるんだ? 狩りに出るたび獲物が減って! 努力は露ほども実らず! 心の奥底ではいつも誰かの死を受け入れながら、俺たちは雁首揃えて村へと帰るんだ。何人かの死神をこの列の中に引き連れてなッ!」
「……もういい、誰かウェインを取り押さえろ!」
いよいよその言葉に堪りかねた何名かが、そう叫んでいた。
ウェインの言葉は正論だが、しかし破滅の在り様を叫ぶだけでは何も生み出さない。それはただ目にした破滅に、彼自身が魅入られているだけだ。誰かがそれを止めなければ、ウェインは自らの手で自身の破滅さえ求めるだろう。
ウェインの横合いにいた一人が不意をついてその腰へ掴みかかる。
「いい加減にしろ!」
「なんだ……くそッ! 邪魔するな!」
しかしそうして組み伏せられたのはウェインではなく、その村人の方だった。
苛立つウェインの膝蹴りをまともに腹へ受け止めた彼は、軽く宙に身体を浮かせた後、崩れるようにしてその場に倒れこんだ。思いがけぬ反撃に油断していたらしく、哀れな村人の口から漏れる苦悶は言葉になっていない。
その瞬間を境に、場の雰囲気が一変したのが誰の目にも分かった。
一触即発の不穏な空気が、どこからともなく漂い始める。
「と、父さん……!」
ウェインを取り巻く輪の近く、グレイスの下へと駆け寄ってきた少年は、その光景に大きな衝撃を受けていた。ウェインの大声に耳を塞ぐも、激しい鼓動と恐怖の中で、目はしっかりとその喧騒を捕らえている。
けれどもいや──それらはウェインに限っただけの話ではなかった。
ほとんど村を出た事のなかった少年にとって、この狩りの出来事はあまりに衝撃的だった。村で見せる姿とはまるで違う、大人たちのもう一つの顔がここにはある。
突きつけられた飢餓の現実と、疲れと諦めを露わにする人々の背中。日頃自分の目にする世界だけが世界の全てではない。
──光と影。表と裏。偽りと現実。
まだ受け止めるには早すぎる世界の表裏が、幼い少年の心に小さな影を落としてゆく。まるで鋭い刃で切ったような、細くとも深い、じわりと血が滲むような傷の痛みのように。
「お前は見なくていい」
そんな少年を察してか、グレイスはその瞳を手で覆い、そう呟いた。
だが耳は目を補う。視界を閉ざされた事で感度を増した聴覚は、指の隙間から貪欲に外の音を拾い、その光景を少年の網膜へと描き出す。それは少年の意思に関わらず、残酷なほど詳細に事の次第を伝えていた。
「どいつもこいつも人殺しと同じだ! 次は誰を殺すつもりなんだ、ええッ?」
ウェインの怒鳴り声が一つ聞こえる毎に、誰かの苦しげな悲鳴が漏れる。
どうにかウェインを取り押さえようと皆必死になってはいるが、その若い力を止めるのは容易な事ではなく、すでに何人もの犠牲者が出てしまっている。
強引に投げ捨てられた者、あるいは顔面を殴られ、鼻や口からおびただしい血を流している者。しかしその誰一人、彼の荒ぶる感情を抑えられる者がいない。
「……あいつは、いつでも笑ってるんだッ!」
いつしかウェインは泣きそうな顔で叫んでいた。
「やりきれねえな、まったく」
その様子に、遅れて二人の下までやってきたマスタッシュから、重苦しいため息がこぼれた。同時にグレイスも何故こうまでウェインが荒れているのか、その合点を得たのだろう。ともに沈痛な面持ちを浮かべながら、変わり果てた今日のウェインへと目を向けている。
先々月あたりだろうか。
ウェインはまだ幼さの残る愛らしい少女、リィズと契りを交わした。
二人の事はまだ記憶にも新しい。手放しで賞賛出来るいい夫婦だった。村一番の若夫婦だと皆が喜び、一時期とはいえ、村全体が明るい活気に満たされたのをよく覚えている。グレイスもまた、そんな二人に祝福の言葉を述べ、二人の幸せを心から願った一人だった。
だが二人の幸せは、あまり長くは続かなかった。
悪化の一途を辿る食糧難と、生まれつき身体が病弱だったリィズ。
結果その二つがどう結びついたかは言うまでもない。
「俺が手ぶらで帰っても、あいつは何も言わない。ただ笑って俺を迎え入れてくれるんだ」
終わりの見えない貧困への、ぶつよけうのない怒り。
不条理な世の中に対しての、沸き立つやるせなさ。
溢れ出したウェインの感情は黒い牙を剥き出しにし、その矛先は彼を取り押さえようとする村人たち全てに向けられている。
「お前らは知らないだろう、血の気も失せたあの顔を! 震える声をッ!」
ウェインの叫びは絶叫に近い。犠牲者の数は増えてゆくばかりだ。
「仕方ねえ。こうなりゃ力づくででも──」
一向に進展しない状況に痺れを切らし、マスタッシュが一歩前に進み出る。
村で彼の腕力に適う者はいない。彼ならば、あるいはその若き竜巻を取り押さえる事も可能だろう。
「──お、おい!」
しかしそんな巨躯よりも早くに、前へ出た男がいた。
マスタッシュの制止も聞かず、ゆっくりとした歩調でウェインの前まで進み出たグレイス。少年は強引に押しやられたマスタッシュの影から、その光景を固唾を飲んで見守っている。
松明の炎が照らし出す赤黒い世界の中、荒ぶる影ともう一つの影が、音もなくそこに対峙した。
「頭を冷やせ、ウェイン」
そしてグレイスは、そんなウェインの頬を思いきり張った。
乾いた風に、ぱあんと頬を打つ音だけが木霊する。
その音に打たれ、騒がしかった場の空気が一瞬にして静まったのが分かった。しばらくは当のウェインも呆けたように頬を押さえ、呆然とその場に立ちすくんでいる。
普段物静かなグレイスは、村の中で、あまり目立つ存在とはいえない。いつも少し離れた場所から物事の行く末を見守り、普段は村の決定に従うだけの立場だ。誰かの先頭に立って歩こうとする人間ではない。
しかし村の存続に関わる判断、大きな決断が必要になった時、不思議と彼の意見が求められる。グレイスがただの傍観者ではなく、意見ある観察者として皆に認められている証拠だろう。その彼が、こうして意見なく頬を張ったのだ。ウェインが拍子抜けするのも無理はなかった。
「グレイス……ハハ。そうか、あんたもか」
しかしその出鼻は挫けても、それだけで彼の種火を消すには至らなかった。
ウェインの黒い炎はぐらぐらと勢いを取り戻し、前にも増す勢いでグレイスへと向けられる。
「あいつはもう──!」
「辛いのは君だけか」
ウェインの言葉を打ち消すように、グレイスが再び口を開く。
その短い一言に、ウェインの勢いがまた一瞬、止まった。
「皆が同じ状況で生きているんだ。皆それぞれに、耐えているものはある。それは分かるだろう」
淡々と話すグレイスに、完全にウェインの調子は崩されてしまっていた。二の句が口を突いて出ず、かといってグレイスから襲い掛かってくるでもない。次の行動が封じられて、ウェインは歯だけを食い縛って耐えている。
だが負の感情はなおも健在だ。ウェインの奥深くで燻り続けるその炎は行き場を探し、徐々にグレイスを睨むその瞳へと危険な輝きを宿し始める。
「ずいぶん知った風な口を利くじゃないか……!」
研ぎ澄まされた刃物のような、しかし霧がかかったようなくすみとが混濁する、青の瞳。すでに正常な思考は停止ししつつあるようにも思える。
「あんたに俺の何が分かる? あいつの何が分かるって──」
しかしウェインの抑圧がやがて一つの頂点を超えようとしたその瞬間、彼の混濁の瞳は大きく見開かれた。睨み据えるグレイスの先、その肩越しに、激情の中に忘れていた一つの現実が飛び込んでくる。
マスタッシュの影に隠れた少年の、脅えた双眸がそこにあった。
ろくに食料を摂取出来ず、ひどく発育の遅れたその身体。細く伸びた四肢は枝木のようで、その姿はある人物の生き写しのようにウェインの心を打ちのめした。脳裏で微笑む彼女の姿が明滅を繰り返し、そのまっすぐな視線に射抜かれたウェインの思考がぶつりと静止する。
ウェインの中で燻っていた火種は、いまや完全に熱を失っていた。
力なく首を振り、膝から崩れ落ちてゆくウェイン。グレイスは今にも泣きそうなウェインの肩に手を置き、そしてもう一度だけ、短く告げた。
「皆、耐えている」
どうしようもない疲れを滲ませた、悲壮感すら漂わせた彼の言葉。
だがそこには有無を言わさぬ迫力もまた込められている。
「……う、うう……あッ──!」
ウェインは声にならない声を喉の奥から搾り出すと、大きく身体を震わせた。堪え切れずにこぼれた涙は彼の頬を伝い、ひび割れた地面に落ちてゆく。
微かな嗚咽だけを漏らし、ウェインは声を殺して啼いていた。
誰かからともなく、ウェインの下へと村人たちが集まってくる。あれほど大暴れした後だというのに、彼らの対応は温かい。彼らは揃ってウェインに手を差し出すと、そっと彼の身体を引き起こすのだ。
グレイスは一歩身を引きながら、その様子を見守っていた。
ウェインはもう大丈夫だ。思いがけない騒動に直面したものだが、それが解決した以上、もうグレイスの出る幕はない。ウェインもすでに大人しいもので、素直に村人らの指示に従い、彼らへの非礼と暴言を何度も謝罪している。
「大したもんだ」
グレイスの傍らにやってきたマスタッシュが、感心したようにそう呟いた。
顎の無精髭をしゃくりながら、満足そうな笑みを浮かべている。
「いや、私もつい厳しく当たってしまった」
「どこがだ? 俺だったら平手じゃなく、まあ拳が飛んでたな」
ウェインを気にかけるグレイスに、マスタッシュが岩のような拳を作って見せる。
「止めに入ったのが俺じゃなく、グレイスだった事に感謝しろよ。お前を担いで帰る羽目になってたところだ」
その拳のあまりの大きさに、思わずぎょっと目を丸めるウェイン。するとその様子に何人かの村人がぷっと吹きだし、張り詰めていた場の空気が急に和やかな笑い声に包まれてゆく。これがマスタッシュなりの場の治め方というわけだ。
グレイスはそんな彼の気遣いに感謝し、列の進行を促した。
「さあ、早く帰ろう。みんな帰りを待っている」
そして闇の中に点々と松明の列を作りながら、村への旅路は再開された。
もう少し行けば、小さいながらも彼らの村が見えてくるはずだ。そんな長い列の中程で、グレイスと少年は手を取り、ともに歩く。
「怖かったか?」
「……うん。でも、もう平気」
「そうか。偉いな」
二人の間で交わされる、短い会話。松明は全員にまで行き渡らないので、互いの顔までははっきりと確認する事が出来ない。
しかし互いを見ずとも、多くの会話が成されずとも、少年の心に不安はなかった。
この世に存在するありとあらゆる不安、それらを全て忘れさせてくれるような手の温もり。そこにグレイスの手を感じられるだけで、少年の不安は解消された。その確かな存在さえ傍に感じられるなら、他には何も必要なかった。
少年には、それだけで十分だった。
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