第四話 優しさの代償

 地上ではグレイスが苦虫を噛み潰したような表情で立っていた。

 罠を別の場所に仕掛け直し、元いた場所まで帰ってきた。そこまではいい。

 だがそこで待っているはずの少年の姿はなかった。

 忽然と、消えてしまっていた。

 「ここを待っていろ」とは、確かに伝えてあったはずだ。

 何度も脳裏の記憶を手繰り寄せ、現実との相違を探ろうとするが、齟齬の原因は見当たらない。どうして少年が消えたのか──その理由が分からず、グレイスの胸では戸惑いと不安が激しく交錯していた。

 親の言い付けをそうそう破るような子供ではなかった。

 今朝の件はグレイスの不在に端を発するもので、日常的なものとは違う。ああして村を飛び出してきたのも今回が初めての事だったし、こうしてグレイスとの合流を果たせたいま、少年が自分からこの場所を離れる理由もすでになくなっている。

 だが考えようによっては──まさか、とも思う。

 まさにこの場所でも、少年の中で、今朝と同じ衝動が繰り返されたのだとしたら──?

 ふっとグレイスの視界が暗くなる思いだった。

 たった一つの罠を仕掛けてくるだけの孤独さえ、少年にとっては耐え難い時間であったのか? 思わず首を振るグレイスだが、あり得ない話でない事は自分が一番よく分かっていた。でなければこの場所で少年と巡り合うはずなどなかったし、ここは無人の荒野で、村で待つのとはあまりに環境も異なる。それどころか、最悪の場合は魔物に出くわしたという可能性すら否定は出来ないのだ。

 グレイスは、刻々と夜へ姿を変えゆく周囲の景色に焦りを滲ませた。

 もうすぐ、世界の色が変わる。

 暗がりの住人たちが、表の世界へと這い出てくる。

 もしこの場所で少年と魔物が鉢合わせしたのだとしたら、まだ十にも満たない子供が生き残れる確立は皆無にも等しいだろう。いまやグレイスの表情からは血の気が失せ、溢れた焦燥は自責の念へと変わっていた。

(私の過失だ……!)

 何故罠を仕掛けに行く際、少年を連れて行かなかったのか。

 すぐに帰ってこられるという安心感からか。

 それとも、野兎程度の獲物を捕らえて気分が高揚していたからか。

 しかしどんな理由を並べたとしても、少年を見失った事への代償としては、あまりにお粗末だというほかないだろう。少し考えれば十分に予期出来たはずの結果を、こうも見過ごしたのだ。責任の所在は自分にある。

(急がないと手遅れになる。後悔している時間はない)

 しかし何よりいまは、一刻も早く少年を見つけ出す事が先決だった。

 完全な日没が迫っている。まずは行動するよりほかになく、いよいよグレイスがその場を動き出そうとした時、しかしグレイスは、何かしら周囲に対する違和感のようなものを、漠然とその意識に引きずったままでいる事に気が付いた。

(最後に見た景色とは、どこか違う……?)

 もちろん、少年がいない事、それはグレイスにもよく分かっている。

 しかしその事実に拘るあまり、それ以外の重要な何かを見落としてしまっている。そんな過失めいたものがグレイスの胸にあった。

 少年が姿を消した理由。あるいは、消さなければならなかった理由──。

 それら目の前にあるはずの真実を、逸るこの心が曇らせている。

 自らを鎮めるように深く息を吸い込み、瞼を閉じるグレイス。目で見る世界を一度完全に遮断してから、静かに息を抜き、ゆっくりと目を開く。するとそれまで見落とすばかりだった違和感の正体が、こうも自身の周りに点在している事にグレイスは気がついた。

 ──だ。

 地面に散らばる、赤黒い滲み。

 さきほど捕らえた獲物のものだろう。しかし最後に見た時よりも、血痕が乱雑に増えている。そしてそれが一定の方向へ規則的に伸びている事に気付き、グレイスははっと息を呑んだ。今更だが、野兎の姿も見当たらない。

「まさか……」

 グレイスの脳裏に、一つの答えが浮かんでいた。

 そしておそらく、間違ってはいないだろう。グレイスの顔がますます苦みを帯びたものに変わり、その唇は固く薄くに引き締められていた。

(……私の過失、だな。どう考えても)

 間もなく近場の亀裂から、ちらと何者かの頭が覗いたのはその時だった。

 灰色の世界に際立つ艶やかな黒髪。少年だ。しかし半分ほど顔を上げたところでグレイスの姿を認めたのか、少年は驚いたようにまた地面の中へと隠れてしまう。

 まあ、気持ちは分からないではない。その想像が仮に事実だとすれば──いや、もはや疑う余地もないが、グレイスとはさすがに顔を合わせ辛いだろう。

 しかしだからといって、いつまでも隠れていられるわけではない。

 グレイスは様々な問答をその脳裏に描きながら、それでもまずは安心感からか、ゆったりとした足取りで少年へと近づいていった。間もなく、自身の中でその答えを定めたのだろう。グレイスは少年の近くまで来ると、その両脇を掴んで一気に胸の高さまで引き上げ、そして言った。

「どうした? 今度はかくれんぼか?」

 決して怒っているような口ぶりではなかった。

 むしろ癇癪を起こした子供をあやすような、落ち着きのある声色。グレイスは向かい合った少年の瞳を覗き込むようにして問いかける。

 しかし少年の方はといえば、見るからにバツの悪そうな様子だった。グレイスと目を合わせようとはせず、きつく口を噤んだまま言葉もない。

 いや、正確にはどんな言葉も発せられないでいた。

 あの野兎がどれほどの価値を持っていたのか、それは今日一日グレイスの狩りに付き合って少年も十分に理解している事だった。それだけに全てを見透かすようなその瞳を正視する事が出来ない。

「獲物が見当たらないんだ。何か知らないか?」

 グレイスからの核心を突いた問いに、少年の身がびくりと震える。

 やはり、返す言葉は出てこなかった。何か言えば、すぐさまそれが嘘になる事が少年にも分かっていたから。グレイスへと語るべきは何なのか、少年はきっとそれを分かっていて、だからこそその胸に葛藤を禁じ得ずにいるのかもしれない。

「もし知っているのなら、教えて欲しい」

 少年の回答をじっと待つグレイス。

 少年の身を、とても嫌な沈黙が包んていた。

 時間は全ての人間に対して平等である。しかしこんな時に限ってはまるで、それが自分に対してだけ、不思議と人の何倍も多く与えられているような感覚を抱くのは何故だろう。そしてそんな時に抱く感情はと言えば、決まって快いものではない。

 やがてそうした沈黙に耐え切れなくなった少年は、意を決し、けれど俯いたままの表情で重く口を開いた。

「ごめん……なさい……」

 その一言が何を物語るかは、もはや言うまでもなかった。グレイスは一度だけ頷くと、ふっと優しい笑顔を浮かべ、静かに少年を地面へと降ろした。

 いま自らの非を告白したこの少年に罪はない。少年はグレイスが望んだままの答えを返してくれたし、その素直さと勇気は称賛にも価するだろう。

 グレイスは少年の頭を撫でると、それを慈しむように声をかけた。

「そうか。よく正直に話してくれたな」

 だが驚いたのは少年だった。

 少年は黒い瞳を丸々と見開き、グレイスを仰ぎ見る。それは少年が予想もしていなかったグレイスの反応だった。さっきまでの出来事が全てお見通しというのもさることながら、グレイスはその行為を責めようともせず、少年へと語りかけるのだ。

 何故グレイスは自分を叱らないのか──少年は呆気に取られたような表情で父の顔を見上げ、そして彼の口より語られるその言葉に、自然と耳を傾けていた。

「お前は本当に優しいな」

 グレイスはそんな少年の瞳を見つめ、そうはじめの言葉を綴った。

「優しさは大切だ。優しさは差し伸べる手であり、差し伸べられる手でもある。その温かみを託された人は、また同じだけの温かみを次の人へと託すだろう。それは人として生きる上で、最も失くしてはならない財産の一つだ」

 まるで神託に打たれたかのように、無心でその言葉を飲み込んでゆく少年。

 柔らかな調子で語られるその言葉一つ一つ、そして彼の表情までもが、忘れ難い記憶となって少年の心に広がってゆく。それは天から舞い落ちた綿毛の種子が、音もなく彼の森の土へと吸い込まれゆくように。

 瞬きさえ忘れて、少年は大樹を見上げていた。

「だが優しさは──」

 しかし静謐の時は、突如として破られた。

「──おおーいッ!」

 ごう、という森全体を揺らす突風。

 吹き上げられたいくつかの種子は、芽吹きの時を迎える事なく彼方へと消え去り、代わりにどこか遠くの方から雷鳴にも似た野太い声が飛び込んでくる。

 距離をものともしない呆れた声量だ。

「ここだ、ここ! こんな所で奇遇だな!」

 そう叫ぶのは村一番の大男であり、グレイスの旧友でもあるマスタッシュその人だった。

 彼もまた罠を仕掛けている最中、この場所でグレイスを見つけたのだろう。遠方に覗く亀裂から顔を出したマスタッシュはひとしきり手を振ったあと、重そうな身体を引き上げて、にこにことグレイスのところまで駆けてきた。

「お前もこの辺りに罠を?」

「マスタッシュもか?」

「お互いの狩り場が被ってちゃ世話ねえな、グレイス」

 挨拶代わりに互いの拳を軽く合わせ、やれやれと禿げ上がった頭を掻くマスタッシュ。その様子につられ、思わずグレイスの顔にも微笑みが浮かんだ。

「罠の前で鉢合わせするのだけは勘弁してくれよ」

「それは私も同感だ、マスタッシュ」

 今度は二人で苦笑する。

 ただでさえ獲物の少ない環境だ。罠の設置場所同士が被っても意味はなく、当然地区割りでもある程度の担当は決めてあるのだが、彼もまた消えた獲物の姿を追って狩りの範囲を広げた口だろう。本来ならあまり笑い事にもならない出会いと言えるが、二人の間からは気心の知れた談笑がこぼれただけだった。

「おッ……おい、どういう事だ?」

 ところがマスタッシュは、急に驚いた顔で目を剥いた。ふと視線を落とした瞬間、グレイスの影に隠れていた少年に気がついたらしい。ぎょっとしたように少年へ目を向け、それから心配そうにグレイスへと問いかける。

「ここに坊主までいるぞ。大丈夫なのか?」

「どうやら後を付いて来てしまったらしい」

 少年の肩に手を置きながら、グレイスは呆れたといった顔で言う。

 するとマスタッシュはそれを咎めるではなく、弾かれたように笑い出した。

「こいつは驚いた! コイツも一丁前の悪餓鬼になったもんじゃねえか。こうなりゃうちのと変わりゃしねえな!」

 山のような肩を上下に揺らして、心底愉快そうに笑い上げる。

 その恵まれた体格のせいか、彼は何かにつけて豪快だ。彼が笑えば村のどこにいてもその声は届くし、ひとたび怒鳴り声を上げれば外の魔物だって逃げ出すだろう。事実、叱られているわけでもないのに、グレイスの傍の少年はその大声にすっかり萎縮してしまっている。

 しかし彼がただ無神経な人間なのかといえば、そうではない。純粋に物事の表現が大き過ぎるだけだ。それが子供に聞かせるに相応しい話かどうかくらいの判断は彼も十分持ち合わせており、その後すっと声を潜めると、彼はグレイスにだけ聞こえるように低く耳打ちした。

「……まあ、坊主の前でこんな事を聞くのも何だが」

 これからの話題は少年には聞かせまい、と判断した故の配慮だろう。その意図は真っ当なものであったが、しかしその行為があまりにもあからさまであったため、それはむしろ逆の効果の方を誘っていた。不自然に大きさを絞ったその声が、まるで少年の耳元で囁かれるようにして意識へと滑り込んでくる。

「どうだった、今日のの方は?」

 グレイスではなく、自分が直接尋ねられているような錯覚に少年の肩が震える。

 だがまさか、たったいま自分が逃してきたばかりとは言えるはずもない。薄明りの中で台座に据えた獲物の姿が、少年の脳裏へ浮かび上がってくる。

 あれは、どれほどの価値を持った収穫であったのか。

「あ、ああ……。狩りの件か」

 一方でグレイスもまた、いくらかの動揺を滲ませながら答えるしかなかった。

 不安げな表情で彼を見る少年の姿が、その視界の隅に映ったから。

 ──そう、確かに獲物は捕らえてある。野兎という小さな獲物を。

 しかしその小さな獲物でさえも、今の彼らからすれば貴重な食料に違いないのだ。下手をしたら、人一人の生きる価値と同じものを持っていると言っても過言ではないほどに。村の飢餓は、それほどまでに深刻な所まで来ている。狩りの不振はそのまま村全体の餓えへと直結するのだから。

 だがここでといえば、どうなるか。

 改めてマスタッシュの顔を、それとなく窺うグレイス。

 彼とは古い付き合いだ。少年が生まれる前からだから、かれこれ十年来の付き合いにもなるだろう。彼はグレイスの知的な空気に惹かれ、そしてグレイスは彼の人間的な魅力に惹かれ、今まで数々の苦難を彼と、そして村の皆と共に乗り越えてきた。

 もちろんグレイスは彼という存在を大切に感じているし、彼もきっと同じように思ってくれているのだと思う。互いを裏切った事など一度もない。

 しかし、人の心はあまりに脆く、儚い。

 貧困は人の心を歪ませる。疑念、嫉妬、怨恨、憎悪──どんな些細な出来事でも、それは人の心に不審を植え付け、強固な繋がりさえ破壊する楔となる。

 マスタッシュは、本当に理解してくれるだろうか?

 考えたくはないが、こうは思わないだろうか。

 ──、と。

 自分の子供にだけその獲物を食わせようとしたに違いない、と。

 グレイスの思考はあるべき返答を導くべく、静かに回り始めていた。

 無論、出来る事なら友として、そうならない事を信じたい。しかしこの状況下で、一体どれだけその馬鹿げた事実を信じてくれる人間がいるだろう。相次ぐ食糧難に、村の子供らや体力の衰えた者たちが次々と病に倒れている。このままではいずれ村全体が飢餓に襲われる事など目に見えている。

 明日は我が身。そんな状況でどれだけの人間が、その心の余裕を持てるだろうか。この自分でさえ、そう思わないとは言い切れないのに。

 いま彼らに必要なのは、この苦境を乗り越えるための忍耐と団結力だ。一人での限界も、皆とならば乗り越えられる。そのために運命共同体の村というものがある。

 しかしその絆は、断じて過信すべきほどのものではない。絆と呼ぶにはあまりに貧弱で頼りなく、時にそれは手足を縛る枷ともなり得る。たった一つの猜疑心から、ぶつけようのない貧困への、恨みの矛先にもなり得るのだ。

 いや──それとも、こんな事を考える自分こそが歪んでいるのかもしれない。

 マスタッシュの目を盗むようにして、ちらと再び、少年の様子を窺うグレイス。

 少年は身を強張らせ、塞ぎ込むように息を潜めている。

 すべては、その優しさ故だ。その優しさ故に獲物を逃してしまったこの少年に対し、どうしてあらぬ勘繰りや非難の目などを向けさせる事が出来よう。そのあどけない瞳を、どうして薄暗い不安の色に染める事が出来るだろう。

(この子を守るべきは、私の役目だ)

 胸のどこかがチクリと痛んだ。それとも気のせいだろうか。

 悔しいが、自分は都合のいい生き方というものをすでに知ってしまっていた。

 正直だけが世渡りではない。大人として生きれば生きるほど、必要悪とも言うべきその巧妙さは、自然と身体に染み付いて離れなくなっている。

 だが所詮はそれもまた、自分にとっての都合のいい言い訳だろう。

 後ろめたい自分を正当化するための、という第三者の諦観。

 必要悪は、いつでも自分に優しく、甘美に囁く。

 グレイスはせめて己を罰するかのように、少しだけ強く、その唇を噛んだ。

「見ての通りだよ、マスタッシュ」

 そして嘘をついた。

 グレイスは何も語らず、手ぶらな両手をぱっと見せただけで、その短い返答を終えた。その意味する所はすぐマスタッシュにも伝わったようで、彼は「ああ」と呟くと自らも同じような仕草を返した。

 確かに彼の両手にも、何一つ握られてはいない。行きも帰りも手ぶらのままだ。

「……父さん?」

「いいんだ」

 小さな、押し殺したような密談が、親子の間で交わされた。

 嘘の種に不安げな表情を覗かせる幼い少年と、それを人知れず庇う父親。それを知ってか知らずか、マスタッシュは珍しく落胆した様子を見せながら、覇気のない独り言をぼそぼそと口にする。

「……やれやれ。この土地ももう限界かもな」

 いや、彼とて呟かずにはいられないのだろう。

 分かってはいつつも、収穫ありとの朗報を願いたい。会話こそ短かいが、ああそうかで終わらせられるほど、それは軽い会話ではなかった。

「この調子じゃあ、今日の狩りはどこも期待は出来ねえな。野兎一匹すらかかりゃしねえ」

 再び、少年の肩がびくりと震えた。

 後ろ暗い秘め事をそっと指で触れられたような感覚に鼓動が早鐘を鳴らしている。

 その場の感情で逃してしまった、一匹の獲物。それは本当に小さな獲物だった。しかしそんな獲物ですらも、他では全くかからない。大人同士の会話の中に見え隠れする重苦しい現実に、少年の表情が深く蔭りを帯びたものへと変化してゆく。

「それでも当たれば運のいい方だ。今年は何人……」

「お、おい、マスタッシュ!」

 見かねたグレイスが、堪らず声を上げていた。

 それに気付いたマスタッシュが、慌てて口を噤む。

「あ……ああ、すまねえ! いつものお喋りが過ぎた」

 貧困の話など、好んで子に聞かせる親はいない。他ならぬ当事者が自分たちならば尚更だろう。

 マスタッシュは自らの悪癖を認めると、素直にグレイスと少年の双方へ謝罪した。沈鬱な表情の少年を痛ましい表情で見やりながら、詫びの気持ちを込めて少年の頭を優しく撫ぜる。

「悪かったな。変な話を聞かせちまって──」

 そう言うマスタッシュの言葉が、しかしふと途切れたのはその時だった。

 彼の視線は変わらず少年に注がれたままだったが、正確には少年のへと注がれている。それは少年の顔でも身体でもない、服のある一点。

 生の残滓をありありと映した、だった。

「……怪我をしているのか?」

 はっと息を詰まらせる少年。

 咄嗟に服の染みを握り締め、グレイスを見上げる。

 心臓の鼓動がおかしくなって、今にも口から飛び出してしまいそうだった。その事を言ってはいけないという本能的な思考が、少年の身体と口を必要以上に硬化させている。

「どうした? 大丈夫か?」

 怪訝そうな顔で少年を覗き込むマスタッシュ。

 そんな彼の注意を少しでも自分の方に逸らそうと、グレイスはすぐさま声を張って彼の背中に呼びかけた。

「あ、ああ! 来る途中、どうやら転んだらしい」

「転んだってお前……」

 取って付けたような言い訳だ。

 平静を装ってはいるが、グレイスとて動揺の色は隠せない。

 だが振り返ろうとしたマスタッシュが意識を向けた先は、もはやグレイスではなかった。

「お、おい、地面にも……? これも血なんじゃねえのか?」

 三人の足元に広がる無数の血痕。その様子にマスタッシュは驚いて、思わず数歩、その場を後退った。

 これだけの出血なら、どう見てもただ転んだという風には思えない。なのに当の少年には目立った外傷はおろか、かすり傷すら見当たらないのだ。グレイスの言葉はあまりにもちぐはぐであって、マスタッシュの腑に落ちるものではなかった。

 困惑した彼が、しきりに首を傾げて少年と血痕とを見比べている。

「……坊主は、大丈夫みてえだが」

 訝しげな表情で地面に指を這わせ、マスタッシュは眉を潜める。

 干乾びた大地に染み込んで、早くも砂のように乾いた獲物の血。それはいま赤黒い痕跡となって、点々と灰色の大地に散らばっている。彼がそれに指で触れるたび、グレイスの胃の中がぐるぐると激しく鳴動した。

「こいつは一体……」

 矢継ぎ早に届けられる疑問の声。

 彼の呟きは、明らかにこの状況に対する答えを要求していた。思考が追いつかず、グレイスの身体中からどろりとした汗が滲み出してゆく。

 早く答えなければ。そう分かってはいるが、乾いた唾はどうにも飲み込めず、喉の奥から発せられる痛みは、あたかも言葉を発する行為を拒否しているかのよう。

 何と答えればよいのか。どう取り繕えばいいのか。

 しかしグレイスがどんな結論を導くよりも先に、口は勝手に動いてしまっていた。

 心が──その重圧に耐え切れなかったのかもしれない。

「魔物、じゃないか。じき夜が近づく」

「……魔物? 魔物の血か?」

 しまった。そう思った時には、しかし何もかもが遅かった。

 何と馬鹿な答えを返したのだろう。言った直後に我に返り、グレイスの表情には苦々しさが溢れた。

 まさかこんな場所に魔物が現れたのなら、こうして立ち話などしていられるはずがなかった。足元には魔物の血。一刻も早くこの縄張りから立ち去らねば、命の危険にも関わる。なのにグレイスと少年は、棒立ちでこの場所に彼を迎えたのだ。

 マスタッシュは赤い砂を手に馴染ませたまま、ただその言葉を反芻していた。目はいつしか少年を捉えている。とてもグレイスの話を真に受けた様子は見られない。

「……お前がそう言うんなら、否定はしねえが」

 だがそれでも、納得の方向で受け入れてはくれたらしい。あるいはこれ以上質問する気もなくなったのか、急にマスタッシュは大きな身体を揺らして立ち上がった。ケダモノ同士の共食いか、と吐き捨てて、大袈裟に眉を潜めている。

 グレイスはただ、彼の動向を見守る事しか出来なかった。

 二度と彼の注意があの血痕に向く事がないように祈りながら。

 凍りついた面皮の裏側で、身勝手な祈りを捧げながら。

 荒い呼吸。これ以上は取り繕えない。

 信頼すべき友へと吐く、偽りの言葉。裏切りの言葉。その一言一言を重ねるたび、何かに心が蝕まれてゆくのが分かった。だから不意に顔を向けたマスタッシュと目が合った時、グレイスは胸に針を刺されたほどの明確な痛みを覚えるしかなかった。

 彼の真顔が、静かにグレイスの瞳を覗き込んでいたから。

 嘘偽りない心の中へ、直接その真偽を問い掛けてくるような友の声だった。

 グレイスは喉の奥から最後の裏切りを引き剥がし、ゆっくりその口を開いた。

「……ああ」

 そして何度も頷くと、少年の肩をしっかりと抱き、一つ大きな唾を飲む。

 厭な味だった。吐き気をもよおす嫌悪感が乾いた舌の上に絡み付き、鼻腔を不快にざわつかせる。

「なら、いつまでもこんな場所に長居する理由はねえな」

 こんな自分を、彼はどんな瞳で見ているのだろう。

 マスタッシュはすでにいつもの調子へと戻っていた。

「日が暮れないうちに、早いとこ村へと戻ろうぜ。もう集合地点には他の連中も集まってきている頃だろう」

 不意に辺りを見渡せば、彼の言う通り、世界はいよいよ夜への変貌を遂げようとしていた。山の夕暮れは、動き出してからが早い。

 確かに、これ以上の道草は禁物と言えた。

 視界が利かなくなれば、人間よりも夜目が利く魔物にとっては格好の狩猟時となる。仮に襲われたとしても、丸腰の人間では太刀打ちは難しいだろう。狩りを終えた皆が集まっているであろう集合地点とて必ずしも安全とは呼べず、誰かが合流に遅れれば、その分だけ集まった面々にも危険が及ぶ。

 一刻も早く合流し、岐路に着くべきだ。もし置いて行かれるような事になれば、それこそ目も当てられない。

「……そう。そうだな、そうしよう」

 しかしグレイスが彼に相槌を打った時には、すでにマスタッシュは先頭を切って歩き始めていた。

 その行動に他意があるわけでない事は分かっている。彼はその言葉通りに、集合場所へ急いでいるだけだろう。

 ただグレイスは、その後ろ姿に一抹の寂しさを覚えずにはいられなかった。

「ま、待ってくれ」

 それを追うグレイスの舌には、まだあの味が残っていた。

 その味を確かめるたび、こみ上げるような吐き気が彼の喉を襲う。

 グレイスは片手で口を押さえながら、後ろを歩く少年に残りの手を差し出した。

 だが、それに答える手はなかった。

「おい……?」

 不審に思ったグレイスが後ろを振り返ると、少年はまだあの場所にいた。先程の場所から動く事なく、俯いたまま、まるでこちらを見ようともしない。そして我を忘れたかのように、何事かに夢中になっている。

「何をしてるんだ。早く、行くぞ」

 そんな少年の元へ駆け寄るグレイス。こうしている間にも、どんどん夜は近くなっている。この距離でさえ子供を一人にしておくのは危ない。

 薄闇に染まった世界の中、少年はその小さな両手を、必死で動かしていた。

 今では服に深く染み渡り、どす黒く変色した血の斑点。少年はその服の生地を、まるで何かに取り憑かれたように擦り合わせ、叩いている。そしてそれを何度も繰り返しては、その斑点をじっと凝視するのだ。

 父親が目の前にいる事に気付いた少年は、やがてその行為を止め、弱々しく呟いた。

「この染み、消えないんだ」

 今にも泣きそうな瞳で、父親へと縋る少年。グレイスはまだその行為を続けようとする少年の腕を取ると、無言でその場を歩き出した。

 腕を取られ、半ばベソのような声を漏らして少年が後ろをついてくる。

「もういいんだ」

 グレイスは、それだけ少年に告げた。

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