第六話 愚人の戯れ

「す、すまない。さっきは取り乱してしまい……!」

 ウェインがグレイスの下へ駆け寄ってきたのは、その時の事だった。

 松明の光を浴び、朱色に染まった金髪を掻くその姿に他意はない。先の件を詫びにきたのだろう。グレイスと少年、マスタッシュの後ろを歩きながら、彼は面目なさそうに何度も頭を垂れている。

「村の皆にはもう謝ってきたんだ。あとは──」

「もういいよ、ウェイン。君の気持ちは分かっている」

 グレイスは恐縮して今にも消え入りそうな面持ちの青年に微笑みかけると、親愛の情を込めて彼の肩を叩いた。それに従い、ウェインの顔からも複雑に入り組んでいた感情が抜けてゆく。

「これからも、村の子供たちに慕われる君であって欲しい」

「……そう言ってもらえると、有り難い」

 ようやくほっとした表情を浮かべ、白い歯を覗かせるウェイン。

 もうこの青年は心配ない。そんな確信があればこそ、グレイスは隣りで身を縮こませる少年の背にも手を伸ばし、少し強引にウェインの方へ向き直らせた。

「もちろん、この子も含めてね」

 とはいえ、少年の反応はグレイスほど打ち解けたものではなかった。

 いち早く関係を修復しようというグレイスの配慮を少年も理解はしていたが、いまだ青年の顔を正視する事に抵抗を感じているのだろう。言葉では謝りつつも、彼の奥底ではまだあの暗い感情が燻っているのではないか。グレイスに促された後もその顔は伏せたままで、少年はウェインを見る事が出来ないでいる。

 だがグレイスは、それでも少年を後ろに下がらせようとはしなかった。

 「顔を上げろ」と言外に告げて、少年が自ら足を踏み出すのを見守っている。

 少年に逃げ道はなかった。まずは目は閉じたまま面を上げ、それから眩しいものを見るかのように、ゆっくり瞼を開いてゆく。

 腹、胸、肩──そして最後は、彼の顔。

「や、やあ……」

 するとそこには、ひどく照れ臭そうな表情で握手の手を差し出す、いつものウェインの姿があった。

 まるで初恋の相手に告白するかのような、耳まで赤く染めた彼の苦笑い。

 何度も言葉を詰まらせて、けれども、心からの言葉を少年に紡いでゆく。

「あんな醜態を見せられたら……怖くて、まともに顔を見られないのは分かってる。本当に馬鹿だったよ。情けない。こんな事を俺から頼めた義理はないけれど……また仲良く、やっていけると、嬉しいんだが……どうかな」

 その精一杯の言葉に、少年の顔からもようやく緊張の色が消えていった。

 目の前に立つウェインに浮かぶものは、少年の恐れたそれではなく、少年がよく知る彼のはにかみだった。それも何故だかひどく緊張していて、少し滑稽なくらいの。

 少年は嬉しそうにその手を握り、彼の足元で何度も飛び跳ねた。

「……良かった。大切な弟を一人失うところだったよ」

「大袈裟だな」

 いまにも泣きそうな顔で胸を撫で下ろす青年の様子に、思わず笑い声を上げるグレイス。そして誰に言われるでもなくウェインと並んで歩く少年を満足げに振り返り、彼に言う。

「なら、この子の面倒をしばらく見ていてもらえるかい」

「もちろん! 俺の方からお願いしたいくらいだ!」

 快く承諾するウェインの声。少年も元気よくそれに頷き返し、途端にグレイスの後ろは賑やかな雰囲気に包まれた。

 不思議と、それだけで彼らの足取りは嘘のように軽くなった。

 無垢な子供の笑い声というものは、この世界に見る数少ない希望だ。それがあるからこそ、絶望の中にも明日を探せる。探し続ける事が出来る。

「子供ってのは、いいもんだな」

 グレイス同様、しばらくその様子を眺めていたマスタッシュが、しみじみとそんな呟きを漏らしていた。無意識のうちに出てしまった言葉だろう。その目はどこか遠くを見る風に少年へ注がれている。

「マスタッシュ……」

 しかしグレイスの返答は暗かった。

 そんな彼の態度を見て、マスタッシュが慌てて弁解する。

「ああ、妙な気を回さねえでくれ。そんなつもりは、ねえんだ」

 言いながら、彼らへ向けていた視線を強引に引き剥がす。突如ゆく先を失った彼の視線は、何度か宙をさ迷ったあと、弱々しい松明と暗がりとの境界に落ち着いた。

 無論、彼の目を引く何かがそこにあったわけではないだろう。ただ当てのない終着点がその場所へ行き着いただけの話であり、マスタッシュの瞳は、やはり遠い過去を見つめたままでいる。

 しかし過去を見つめれば見つめるほど、その目は境界を越えて暗闇に近づく。

 グレイスは彼の自我を引き留めるように、低く囁いた。

「あの子は楽園へ旅立ったんだ。こことは違う、悲劇のない世界にね」

「よしてくれ。ウチの息子はいつだって、俺ので生きてる」

 だがグレイスの言葉に、マスタッシュは首を振って自らの胸板を叩いた。

 どこにも強情や同情を誘う気配はない。その言葉通り、彼の胸には我が子の魂が、いまも確かに息づいているのだろう。

「そうだったな──いや、マスタッシュの言う通りだった。すまない」

 グレイスはそんな彼を誇りに思い、自らもそれに応じた。

「私の妻も、この胸に生き続ける」

 ただそう言ってから、グレイスの表情にはまた一つの影が落ちた。

 その言葉に嘘はない。心からの宣誓だ。だがどうなのだ?

 考えるまでもない。後ろを歩く少年を感じれば感じるほど、グレイスの影は濃さを増し、その言葉にはやりきれなさが募った。

「あの子に母親は存在しない。現実はおろか、その心にさえも」

 恐らくその指摘は真実だろう。生まれて間もなく母親を失った少年は、その存在、面影さえ覚えていない。今日まで少年が感じてきた思いを察すれば、グレイスはただ感情を殺して押し黙るほかなかった。

「あの子には、私しか甘えられる人間がいないんだ」  

 何故ああも少年がグレイスの存在を求めるのか? 

 それもまた、無意識に母親を求める心があればこそなのかもしれない。

「あの子に母親の記憶があったなら、どれほど救われただろう。こんな世界で父親の姿しか知らず、その幸せはどれほど与えようと、その半分しか与えられない」

 思考がその結論に達する時、グレイスの胸に去来するのはある種の虚しさだった。

 何故母親を失う事になったのか。そして何故、のか。

 その悔恨を振り返るたび我が身の無力さを思い知らされ、例えようのない感情は自責の念へと変わる。グレイスが最愛の妻を失ったあの日以来、その責め苦に駆られなかった夜はない。

「馬鹿を言うなよ、グレイス。そりゃ違うぞ。あの坊主の幸せそうな顔をよく見ろ。あれのどこが半分って顔なんだ? あれは全てお前が与えてやったもんだろうが」

 同情の声か、それとも彼の本心か。

 彼の声は少し怒っているようにも聞こえる。ならばきっと本心だろう。

「てめえの過去を振り返るなとは言わねえさ。だがもしあの時──なんて考えてるのなら、そいつは自分で古傷を抉っているだけだ。いくら掘り返してみても、あの日の過去は戻らないし、覆りもしない」

 そしてマスタッシュは喉に何か詰まらせたように、一度、続く言葉を切った。

 言いながら、ふとを口にしそうになった自分への怒りと戸惑いに彼の目が揺れている。

「あれは──」

 無理にその先を続けようとして、やはり言葉が詰まる。

 心が拒絶していた。自分が想像している以上に、その言葉は重いのだろう。

 だが言わねばならない。何より自分もまた、その言葉を必要としているのだから。そう分かっているからこそ、マスタッシュは歯を食い縛り、重い鉄の扉を開くように口を開くのだ。

だったんだよ」

 マスタッシュの脳裏に、あの時の光景が甦る。

 瞬く間にその顔は憤怒に染まり、彼の身体はぶるぶると震えだした。

「だがな」

 さらに一言、彼は声を押し出す。今度は反骨の感情がまず湧き上がった。しかし次いで出るはずの言葉が、溢れ出る感情の奔流によって押し戻されてしまう。

 悲しみや怒り、後悔と葛藤が綯い交ぜになったその沈黙は、あまりにも長くグレイスには感じられた。

「それを運命って呼ぶには、どうにもアイツが不憫でよ……!」

 細まったマスタッシュの目に、影を帯びた輝きが滲む。

 彼自身、他の誰よりも運命などという言葉を受け入れたくないに違いない。

「運命なんて言葉は詭弁さ。どんな不条理な出来事も、ただその一言で片付けられてしまう」

 獣が唸るような声でグレイスは囁いた。

「しかし運命という言葉を抜きに、私たちは過去を受け入れられはしない」

「こんな愚痴をぶちまけたところで、何一つ戻っちゃこない。そんなのは自分でもよく分かってるんだ」

 マスタッシュの声は、まだ噛み殺したような怒りを節々に滲ませている。

 運命に縋ってみても、運命は決して救いの手など差し延べたりはしない。それはただの傍観者だ。運命という言葉を欲する者は、未来永劫、それに踊らされる側でしかない。マスタッシュの怒りは、そんな自身に対しての怒りでもあった。

「それでも、あんなもんは絶対に許される事じゃねえ。それだけは、言える──!」

 目尻一杯に溜まった涙を乱暴に拭うと、彼は吐くようにそう言い捨てた。

 ──果たしてこの年月が十の時を数えても、自分たちはその過去を受け入れられないままでいるだろう。運命という言葉を引き合いに出さねば、かつての記憶を振り返る事も出来ずに。

 だからこそグレイスにとってこの少年は、忌むべき過去から拾い出したただ一つの希望だった。自身の生にも等しい、いやそれ以上の価値さえ持つ、最後の望み。

 この少年だけは、なんとしてでも守り抜く。

 暗澹たる無情の世界から。絶望的な未来から。

 それがいまのグレイスを支えるすべてだった。どれほどの犠牲を払おうと、どんな運命に逆らおうともその誓いは揺るがない。それは同時にグレイスが、亡き妻に捧げる、せめてもの贖罪でもあるはずだった。

「お、おいッ! なんだよあれ……!」

 ──だが、これもまた運命の導きか。

 グレイスのささやかな反逆を嘲笑うかのように、列の先頭を行く村人らから不穏な声が上がり始めたのはその時だった。底知れぬ驚愕と動揺が、波紋のように大気を伝わってくるような感覚。

 良い類の直感でないことは、もはや語るまでもない。

「あれって、俺たちの村じゃないのか……?」

 そんな声が届くと同時に、グレイスらもその場を駆け出していた。

 地理的には、確かにこの峠を越えた辺りで彼らの村は確認出来る。崖を下りた先の荒野だ。だがそれは日中に限っての話で、いま村が見えるのはおかしい。家々が焚く程度の明かりでは、この距離の闇がすべてを喰らい尽くすだろう。ゆえに坂上の一団に飛び込んだ彼らは、眼下に望む光景にただ目を奪われるしかなかった。

「燃えている……!」

 遥か前方に見える村が、燃え立つ炎に包まれていた。

 不吉さを隠そうともしない、闇の中に浮かび上がる真紅の舌。

 松明の明かりさえ必要なかった。村自体が燃えている。そんな比喩こそこの光景には相応しいだろう。全員がその様子に息を呑み、理解し難い現実に呆然と立ち竦んでいる。

「まさか、蛮族の奴らが……?」

「連中が火をつけたってのか? そんな馬鹿な!」

「じゃあッ! あれは一体どう説明するって言うんだ!」

 彼らを包む沈黙は戸惑いに変わり、やがて喧騒へと変化していった。

 繰り返されるのは、答えのない応酬だ。互いに怒鳴り声を交わし、興奮するまま次の否定を繰り返す。感情に任せるだけの問いに答えなどあるはずもないのに、それを問わずにはいられない。この現実を否定してくれる人間に、ただの一声でも問いたいのだ。これが嘘だと、どうか信じさせて欲しい。

 ──けれど、いつからだろう。

 彼らの背後に望む岩壁には、再びあの黒い人間が姿を現していた。

 仄暗い赤に染められた壁の中で、彼らは音もなく踊り始める。まるで道化師のように彼らの行動を真似し、滑稽にその身体をくねらせて。あくまで村人らは目の前の異変に対する傍観者であり、それらを傍観する者の存在は、また別にあった。

 自らの行く末を知らずにおれる人生は、ある意味では救いと呼べるのかもしれない。

 闇の祭典はいま、始まったのだ。

 それはまるで、神への祈りと、聖火に供物を並べる信者の儀式。

 炎に包まれた村が聖火。信者は壁の黒き住人たち。

 は。




 ウェインに手を引かれ、坂を上った少年の瞳にも、その驚愕の光景は映っていた。

 まるで悪夢の中の出来事のような、ひどく現実味のない景色。自分たちの帰るべき場所が、いままさに遠く業火の中で燃えてなくなろうとしている。

 だがその現実を見たままに受け止めるには、誰の目にもそれは唐突で、衝撃的に過ぎた。途方もない喪失感にその身を打ちひしがれながら、それでもこれは何かの間違いだという可能性を捨てきれずに、彼らは自身の眼を閉ざしたままでいる。

 少年もまたどれくらいの間、そうして篝火のような炎に目を奪われたままでいただろう。周囲の村人に肩を押され、その拍子に少年が意識を取り戻した時、少年はその場を駆けだしていた。何を考えるよりも早くに、村を目指して走り出す。

 もちろん村は遥か先に見える距離だ。走って行けるような距離ではない。

 しかしそれでも、少年の衝動は迷いなくその身体を走らせていた。

「ち、ちょっと待て! どこへ行くつもりだ──!」

 すると突然懐を飛び出した少年に驚いて、ウェインもその意識を取り戻した。

 呆けたように明かりを見つめていたため、馬鹿になった視界がすぐには元に戻らなかったが、懸命に瞬きを繰り返してウェインが少年の後を追う。

 しかし彼の取った行動と少年のそれとでは、いささかの違いが見られた。

 必死で少年に追いついたウェインは、その細い腕を掴むと、共に行くではなくそれを足止めした。突然半身を吊るされるような恰好で動きを封じられた少年は困惑の表情を浮かべながら、それでも村の危機をウェインに訴えかけている。

「ウェイン、村に行かなくちゃ!」

んだよ!」

 だが、ウェインからの返答に耳を疑う少年。

 行ってどうする、とはどういう意味だろうか。

「どうするって……?」

 しかしそれを叫んだ当のウェインも、少年以上にその顔を驚きに染めていた。

 たったいま自分の放ったその言葉の意味に気付き、彼は愕然と目を見開いている。同時に、例えようもない嫌悪感をその純朴な瞳に滲ませながら。

「……俺は……いったい……」

 紅く燃える村を見つめながら、悄然と呟く。

 無意識の内にとった行動と、理性との相違。その真意を自分自身に問いかけるように、彼の視線がよろよろと宙を泳ぎ出す。

 けれど答えは鼻白むほどに明白だった。

 彼はその意味する所を、とうに知っているのだから。

 ウェインはそれを否定するように首を振るが、その抵抗に力は入らない。

「ねえ、ウェインってば!」

 まるで魂が抜け落ちたかのように、ウェインの反応が消えていた。彼の耳に少年の叫びは聞こえているのかいないのか、ただそのどちらにしても、少年の腕が解放される事はなかった。捕らえようのない焦燥感だけが少年の小さな胸を焦がしてゆく。

「離してよ! 早くしないと村がなくなっちゃうよ!」

 いつしか少年は声の限りに叫んでいた。

 普段出す事のない声量に、喉にちりちりとした痛みが走る。

「早くったって……おい」

「間に合うのか、あそこまで……?」

 なのに、どれほど声を枯らせても周囲の反応は芳しくない。ウェインと同じく鈍い反応しか返ってこず、共通しているのは、彼らはという事だけ。少年のように駆け出す姿は一人もない。

「どうして……なんでみんな何もしないのッ?」

 何故、自分たちの帰るべき場所を守ろうとはしないのだろう。

 何故、皆が待つ村の危機へ駆け付けてやる事が出来ないのだろう。

 何故──?

 少年の胸に沸々とした疑問が沸いてくる。

 村が燃えている。それはもう、揺るぎようのない事実なのだ。

 なのに彼らは、頑としてこの場所を動かない。終わる事のない否定と肯定は、もはやただの現実逃避を超えて、ある種の作為的な印象さえ漂わせている。それどころか彼らはから、意図的に目を背けているようにも、少年には感じられるのだ。

 本当は皆が知っているはずの、何か。そしてその答え。

 触れてはならないある禁忌を、彼らは口にする事さえ恐れている──。

「みんな! 村が燃えてるんだよ! 一緒に行こうよ!」

 何か行動を起こしたくても、少年の身ではウェインの腕一つ振りほどけない。そのもどかしさに喘ぐように、少年はグレイスの姿を探し求めていた。

 あるいはグレイスもまた、自らの心を失ってしまった一人なのだろうか?

 少年に出来る事といえば、唯一自由になるその口で、ただこの事実を皆に知らしめる事だけだった。

「村に残っている人もいるのに! その人はどうするの? 

 その瞬間、硬直していたウェインの腕の力が嘘のように緩んだ。自由になった少年の腕が彼の手中から苦もなく解放される。

 少年はその瞬間を見逃さなかった。

 弾かれたように村へと走り出す。今度はウェインも追っては来ない。

 だがするりと伸びた別の腕が、再び少年をその場に食い繋いだ。

「待て」

「……父さんッ!」

「お前一人で行ってどうなる」

 いつの間にやってきたのか、グレイスが少年の肩を掴んでいた。

 またも出足を挫かれ、制止を振り解こうと少年が闇雲に身を捩る。

 だがグレイスの場合、ウェインの時とは少し様子が違うようだった。他の村人とは明らかに違う、確かな意思を宿した瞳。その顔に彼らほどの動揺はない。

「父さん、見て! 僕たちの村が!」

「ああ、分かっている。分かっているさ」

 今にも泣き出してしまいそうな、懇願するような瞳がグレイスを見上げていた。

 その身体に精一杯の勇気を奮い立たせ、この少年はたった一人、あの村へ駆けつけようとしたのだろう。グレイスはそんな少年を自らの傍へと引き寄せると、とても落ち着いた声色で、何度か深い相槌を打った。そしてその小さな存在を確かめるように繰り返し少年の身体を強く抱く。

 それはほんの一瞬で出来事でもあったし、長い長い抱擁のようでもあった。

 少年は怪訝なそう表情で父の行為に身を預け、今はただグレイスの気が済むまでそれに従った。

「……父さん?」

 まだ名残惜しげに少年の肩へ指の先を残しながら、グレイスはおもむろに立ち上がった。そして決意に満ちた眼差しで、ある言葉を口にする。

 それは緊張に掠れた、呟きのような声だった。

だ」

 瞬間、辺りから水を打ったように喧騒が消えた。

 まるでその異質な響きがすべての時間を止めてしまったかのように。

 けれど誰の耳にもその宣告は届いたのだろう。そしてこれこそが少年の感じた禁忌の正体であり、皆が目を逸らし続けていた現実にほかならない。

 グレイスは覚悟とも諦観ともとれる表情で周囲に問いかけた。

「皆、分かっていたはずだ。いつかはこの時が来ると」

 誰からも相槌を打つ声はない。

 だが否定する声もまた、なかった。

「これは運命だ。我らに架せられた、逃れようのない運命」

 聖戦。運命。

 普段聞き慣れない言葉が次々と語られ、少年が目を丸くしてグレイスを見る。

 一体グレイスが何を言っているのか、少年にその意味は分からなかった。だが少年を除く村人らは皆、一様にグレイスの言葉を受け止めて重苦しい表情をその顔に浮かべている。

 の意味が彼らには分かっているのだろうか。

 グレイスの──その、どこか寂しげな表情の理由も。

「この時が来たんだ」

「……いぃ、嫌だ! 聖戦なんて嫌だッ!」

 一人の村人が堪りかねたように叫んだ。

 グレイスの声を遮って、彼は自分の声でそれを掻き消そうとする。

「そんなもの、俺には関係ないだろう! あんたの講釈に俺を巻き込むな!」

 ウェインがそうであったように、この男も爆発してしまいそうな感情が理性の枠を越えてしまった一人だろう。これまで押さえつけていたものをぶちまけるように、彼は辺り構わず怒鳴り散らしている。

「俺は無関係だ! そんなもの、あんたたちで勝手にやってりゃいい!」

「逃げても無駄だ。今までがそうであったように、これからも」

「うるさいッ! 俺の人生を勝手に決めるんじゃねえ!」

 いまにも食って掛かる勢いで、男がグレイスを睨みつける。

 だが一方のグレイスは、若者の目を見据えたまま微動だにしない。刺すような、それでいて憐れむような瞳でじっと男の言動を見守っている。

「なんだよ……どけよッ!」

 やがて耐え切れなくなった若者は、拳を握り締めると、反射的にそれを大きく振りかぶった。

「父さんッ!」

 思わず悲鳴を上げる少年。

 だが彼の拳がグレイスに届くか届かないかの所で、何者かの手がその固さを横合いから受け止めた。ぱしんと乾いた音が鳴り、ぐいと男の拳が下げられる。

 ウェインだった。

「お……い、何の真似だ! 手を離せ、畜生ッ!」

 男の怒りは反射的にウェインへと向けられたが、しかし少年の時と同様、彼の腕が自由になる事はなかった。ウェインの腕力を覆すには、その若者はいささか細身過ぎたらしい。

「落ち着け。村には残っている連中もいるんだ」

「だからどうした、もう遅いんだ!」

「聞くんだッ!」

 なおも抵抗の力を弱めない若者へ、ウェインが瞬間的に声を荒げて詰め寄る。

 その勢いに怯んだ男の襟首を掴み、喘ぐようにウェインが呟いた。

「お前にもいるはずだろう。あの炎の中で、お前を待っている人が」

 まるで自分自身に言い聞かせるように、苦しげな眼差しで。

「遅いなんて事はない」

 いつしか冷水を浴びせられたかのように、若者の動きは静止していた。様々な感情とともに、力んでいた身体からそれらの残滓がするすると抜け落ちてゆく。

 思い当たる人物の名だろうか。男は何度も呟きを漏らし、その場で肩を震わせた。

 しかしウェインの表情もまた、その若者のそれと大差はなかった。俯きがちに顔を伏せ、己の本心と向き合うように地の一点だけを見つめている。歯を食い縛る彼の瞳には、確かに寂しげな決意が感じられた。

「ウェイン、すまない」

 グレイスが沈黙するウェインに歩み寄る。

 あの時とはまるで違う、強き意思に支えられた彼の理性がそこにある。

 だが、これこそが彼本来の姿だ。彼の新妻であるリィズがただ健全でさえあってくれたなら、決して貧困などに負けるような人間ではない。

「……いや、俺も気付かせられたんだ。偉そうな事は言えない」

 しかし彼はそんなグレイスに首を振ると、すっと少年を指し示した。

「愕然としたよ……俺の本心に」

 首を振り、自らの心情を吐露するように口を開く。

 皆の視線が自然とウェインに集まる中、彼はその真なる声を告白した。

「あの時、俺が皆に言った言葉を覚えているだろう? あれだけの暴言を吐いたくせして、俺の心は逃げていたんだ。行っても、もう無駄だって。あの恐ろしげな炎に心を焼かれて、何一つ考えられずにいた」

 口を閉ざしたまま、その言葉に耳を傾けるグレイス。

 いや、グレイスだけではない。その場にいた全員が押し黙るように口を噤んだ。

 それは張り詰めた緊張の糸をそっと撫ぜるような、ウェインの独白だった。

「村には、俺を待つリィズがいる。無事でいてくれるかどうかは、まだ分からない。もしかすると……村に着く頃にはもう、手遅れになっているのかもしれない」

 そう言ったウェインの顔が、少し曇った。

 ただでさえ床に伏せているリィズだ。その可能性を認めざるを得ない事は、ウェインもよく分かっている。

「でも……違うんだな。そんな事は問題じゃないんだ。俺がリィズのために、村へ戻るか戻らないか。それが俺にとって一番大切な事なんだ」

 彼の意思はいま、淡い輝きを放ちながらその瞳の中に揺れていた。

 彼は意思の力で自らの心と向き合い、その暗部までもを照らす事によって、自身の本当の願いを知ったのだろう。

「皆は何のために今日の狩りをしたんだ? 村で待つ人のために、一生懸命、獲物を探したんじゃないのか? だとしたら何故その人の危機に駆け付けてやれないんだ? 何故躊躇う? そんなのは……おかしいんだ。まだ生きているかもしれないその人がいるのに、それを見捨てて逃げるなんて、俺には出来ない」

 その言葉に反応して、何人かの村人がきつく唇を噛んだ。

 彼らの胸にもいま、自らの想い人が想起されているに違いない。

「確かな事は俺にも言えない。悲しみを受け止める覚悟もまた、要るだろう。でも、ここで逃げたら自分は一生後悔する。それだけは断言出来る」

 凛としたウェインの声が、邪気を祓うように混濁した暗がりへ響く。

 不安と恐怖の中にあったそれぞれの感情が、やがて意思を持ち、一つの形を成そうとしていた。心の深部から滲みだした、純たる願い。共通の想い。

 ウェインがその総意を口にする。

「行こう。俺たちの村に」

 賛同も否定もない、空気が詰まるような沈黙。

 それはきっと、皆が何かを決意した証でもあるのだろう。

 始めに動いたのは、まるで岩か何かのようだったマスタッシュの影だった。

 胸に当てていた手を下ろし、ゆっくりと息を吐きながら面を上げる。それはまるで深く誰かに頷きかけているようでもあった。

「そうだ。俺も村には、口うるさい女房が待っている」

 そして皆を見渡して、肩を竦めながら言う。

「今頃は腹を空かせて機嫌が悪いから、あまり気は進まねえんだが」

「……ッハハ! そいつは災難だな、マスタッシュ」

 途端、一人の村人がマスタッシュの冗談に思わず吹き出した。それを境に、それまで張りつめていた空気に適度な弛緩が戻り、人々の顔に生気が甦る。

 もちろん彼の冗談は決して趣味がいいとは言えないし、同時に彼らの現状もそれどころではなかったが、しかしそれは逃避ではなく、むしろ心の解放だった。マスタッシュが意識して場を和ませてくれたことは事は皆が承知していたし、それに同調して笑う者はあっても、その物言いを咎める人間はいないだろう。

「そうだな、ウェインの言う通りだ」

「……ああ。俺も村には家族が待っている」

「逃げるなら、全員を連れ出してからだ」

 いつしかその場は、人々の歓声に包まれていた。

 彼らを支配していた重い沈黙は、すでにない。いま彼らの胸にあるのは心をかき乱す混沌ではなく、自らが想い描くかけがえのない大切なもの、そしてそれを手にするための勇気だけだ。

「ありがとう、二人とも」

 温かな活気に包まれた輪の中で、グレイスはウェイン、マスタッシュの両名に感謝した。あのままだったら、皆が負の感情に流されてどうなっていたかも分からなかった。それはもちろん、グレイス自身を含めての事でもある。

 しかしウェインは微かに首を振ってそれに応えただけだった。

「さっきも言っただろう、グレイス。俺だって逃げていた。あの状況で逃げなかった人間はただ一人だけだ」

 そして輪の片隅に立つ少年を、グレイスに指し示す。

 少年は不安そうに両の指を絡ませながら、一人その場所に立っていた。大人たちの喧騒に身を竦ませながら、それでもその小さな身体で二の足を踏ん張って。

「俺を聖戦の重圧から開放してくれたのは、この子だよ」

 しかし突然自分に注目が集まった事に戸惑ったのだろう、少年は助けを求める風にグレイスへ顔を向けた。とはいえ物事が険悪な方向に向かってはいない事だけは伝わったようで、どこかほっとした様子で胸を撫で下ろしているようにも見える。

「そう……そうだったな」

 グレイスはそんな少年へ歩み寄ると、片膝をつき、優しく告げた。

「ウェインの言う通り、お前には感謝しなければならない。父さんもまた、お前によって気付かされたうちの一人なのだから」

 少しだけ目を伏せ、そして少年の大きな黒い瞳を覗き込んで言う。

「たった一人で村へ駈け付けようとするお前を見て、逃げずにいる事が出来た。自分の弱い心にも向き合えた。皆を代表して礼を言わせてくれ」

 グレイスの真剣な表情に、思わず少年の肩にも力が篭もる。

 普段「ありがとう」くらいは言われる機会もあったが、こうして感謝ほどの言葉を人から受けた覚えはない。それもグレイスから改まって言われたのでは少年も困惑するしかなかったが、しかし何とも言えず誇らしい気持ちは胸をくすぐるようで、少年はうんと頷いて最後は顔を綻ばせた。

「世界はこうも単純であるのに、我々はそれに気付かない。どうしてだろうな」

 その美しい黒髪を手で梳きながら、グレイスは少年の頭を何度も撫でた。

 心地よい感覚に満足げな笑みを浮かべ、そっと目を閉じる少年。

「俺もこれで女房に叱られずに済む。ありがとうな、坊主」

 しかしそこにマスタッシュまで加わってしまったものだから、それは少年にとって災難以外の何者でもなかった。少年の頭は首が折れてしまいそうなほど揺さぶられ、しまいには平衡感覚を失ってその場に尻餅をついてしまう。

 それを見ていた三人から、どっと笑い声が上がったのはその時だった。

 久しぶりにグレイスは、こんなにも腹を抱えて笑ったような気がした。

 まるで腹の中の毒素が浄化されてゆくような安らぎ。この得も言われぬ感覚を、何と表現したらよいのだろう。

 だがそんな笑顔に混じり、グレイスの瞳にはうっすらと涙も滲んでいた。

 それはただ久方ぶりの笑いによるものなのか、それともまた別の感情によるものなのか──ウェインはそんなグレイスを一瞥すると、おもむろに口をその開いた。

「さあ、山を下りてくれ」

 それは何事もない、ただ挨拶のような口振りで。

 しかしグレイスの表情は瞬時にして狼狽へと変わっていた。

「な、何を言い出すんだ……? 待ってくれ、ウェイン!」

 彼の言葉が意味するところは一つだ。

 まさか、そんな事など許されはしない。

 いかに彼の善意であっても、そんな事が許されはしないのだ。

 グレイスは懸命に頭を振ってそれを否定する。

「私だけ聖戦から逃げる事など出来ない! 第一、言い出したのは──」

「その子の面倒は誰が見るんだ?」

 しかし続く言葉が、グレイスの最後の抵抗を奪い去った。

 ぱくぱくと口を開き、何か言葉を発しようとしても、それが出てこない。

 対するウェインは、まるで用意された台詞を口にするが如く、極めて落ち着いた口調でグレイスに向き直る。淡々とした、一切の反論を受け付けない声で。

 その声にどれほどの温もりが込められているかは、察するべくもない。

「グレイス。あんたの大切な人は、いまここにいるじゃないか」

「なら、そいつを守ってやるのがお前の役目だな」

 今度はマスタッシュの太い腕がグレイスの首に回されて、肩を頼もしく掴んだ。その力が強過ぎるあまり、グレイスの痩身には少し痛いくらいであったが、いまはその痛みにさえ頭が下がった。

 彼の屈強な腕を通して、友という存在を身体全体で感じる事が出来る。

「運命はまだ、あんたたちを必要としてないって事さ」

 いつの間にかグレイスと少年、ウェインらを取り囲むようにして、その場には村の面々が集まって来ていた。

 誰一人その意見に異議を申し立てる者はいない。

 誰もが穏やかな表情で彼らの成り行きを見守っている。

「あんたたちは、自らに架せられたその運命を変えるんだ」

「運命を……変える」

 グレイスが、ぽつりと呟いた。

 

 胸に誓った先ほどの想いが、グレイスの頭をよぎる。しかし誰がこんな事態を想像出来ただろう。それがこの瞬間なのだと言うのだろうか?

 定められた運命を、変える。

 果たしてそのやり方は定かではないが、しかしそれが安易なものでないという事だけは分かっていた。人が生まれた持った因果の律を自ら変えてしまおうというのだから、それは並大抵の事ではあるまい。

 だが人の想いは、儚くもたくましい。

 皆のこの想いがあれば──あるいはそれも変えられるのかもしれない。

「大丈夫さ。俺たちもまた運命を変えてみせる」

 微笑んで、ウェインが集まった村人らを一望する。

 握り締めた拳を掲げながら、ウェインが高々と叫んだ。

「これが、俺たちの聖戦だ!」

 湧き上がる呼応の声。村人たちの間からも、同じく松明や拳を突き上げる者が何人も続く。

 その後ウェインは二度とグレイスらを振り返る事なく、そのまま村人らの中へと消えていった。グレイスらを包んだ輪は徐々に形を崩し、その場にマスタッシュ一人を残してウェインの方へと流れてゆく。

 それはあまりに言葉少ないウェインとの別れだと言えた。

 だが同時に、最善の形でもあった。その想いはグレイスへと十分届いている。

 グレイスは沈痛な面持ちのまま彼らの後ろ姿を見つめながら、ただ強くその唇を噛み締めるだけだった。

「さあ、これでお別れだ」

 しばしの沈黙を挟んで、マスタッシュがそう切り出した。

 友の、最後の言葉だ。不器用な彼はうまい言葉が見当たらないのか、照れくさそうに頭を掻きながら、それでも何かを伝えるべくグレイスと向き合っている。

 気の利いた文句を考える時間も余裕も、すでにない。

 結果彼の口からこぼれだしたのは、友として過ごしたグレイスとの記憶だった。

「……思えば、お前とは長い付き合いだったな」

 つい昨日の出来事を振り返るように言葉を紡ぎ出すマスタッシュ。

 その目はグレイスではなく懐かしい過去そのものを見ているかのようで、目元には自然と笑みが浮かんでいる。

「この通り、俺は考える方は苦手でよ。そのせいで騒ぎを起こした事も少なくなかったが、お前とつるむようになってからはそんな事もずいぶん減ったっけな。だから村の皆もお前には感謝しているんだ。あいつのおかげで今日も一日、村が平穏だったってな」

 けれど彼の冗談もいまはどこか寂しげで、グレイスとマスタッシュ、どちらからもそれを笑う声はなかった。本音を押し殺した冗談は余計に辛く聞こえてしまう。

 彼は思い出したように一度背後を振り返ると、急いで回想の蓋を閉じた。

「いや、話が逸れたな。俺もそろそろ行かなきゃならねえ。村が心配だ」

 そして短い会話を終えるべく、大きく息を吸う。

「……運命を変えるなんざ、そりゃ簡単な事じゃねえだろうさ。だからグレイス、お前が本気で運命を変えるつもりなら、絶対にそれ以外の事は考えるなよ。何が足元に落ちていても、何が後ろに転がっていようとも、絶対に足を止めちゃならねえ。お前の目は前を向いたまま、ひたすら歩き続けろ」

 無言で耳を傾けるグレイスの瞳に、うっすらと涙の輝きが灯った。

 マスタッシュが何を言っているのか、その意味を知ればこそ、堪え切れなくなった涙がグレイスの頬を伝い、乾いた大地へと消えてゆく。

「運命の歯車はいま、微かにだが、確かにズレ始めてる。それはズレたかどうか分からねえくらいの小さな歪みだが、残念ながら俺たちに出来る事はここまでしかねえ。後はグレイス、お前次第だ」

 滲む視界の向こう、おぼろげなマスタッシュの姿が揺れている。

 彼の表情は見えない。しかし彼がいまどんな表情をしているのか、それだけは目で見ずとも、彼の言葉がすべてを伝えてくれていた。

「……六年前の悲劇。それにようやく終止符を打てるんだ。後悔はねえさ。あのくそ忌々しい過去に、やっと決着をつけてやれるんだ。ウェインの言葉じゃねえが、俺もようやく前を向けたような気がするぜ。歳なんかとりたくねえもんだな。気付くのが遅すぎらあ」

 どん、という音は彼が左胸を叩いた音だろう。

 彼は気持ちがいいほど痛快な笑い声をあげると、グレイスの肩を両手で掴んだ。

「お前の心ん中だ。お前が俺をどう思ってるかは知らねえし、聞くつもりもねえ。だがお前は、俺の大切な友だちだったぜ。今までも、これからもずっとな」

 そして自らの松明を手渡して、ウェインのいる人だかりへと歩き出す。

 別れの言葉はない。きっとまたすぐに会えるから。

 それまでの、ほんのしばしの別れだ。何を泣く事があろうか。

 しかしそう思ってみても、そう信じようとしても、溢れ出る涙を止める術はグレイスにはなかった。深々と頭を下げ、去りゆく友へ最後の言葉を口にする。

「ありがとう……! 親友!」

 声が震え、たったそれだけの言葉もままならない。

 だがマスタッシュは聞き届けてくれただろう。「おう」と手を挙げ、振り向いて。

 グレイスがゆっくりと面を上げた時、すでに彼の姿は周囲の闇に消えていた。それでいい。彼の背だけを瞼に焼き付けて、もう一度頭を下げる。かけがえのない友の姿を、二度と忘れる事がないよう、強く心に刻み込んで。

 忘れてはならない。親友が遺してくれたものの大きさを。

 を。

「父さん……みんなは?」

 その後、傍らでグレイスらのやり取りを見守っていた少年が遠慮がちに口を開いた。つい口を出せずに黙っていたが、マスタッシュの姿が完全に見えなくなった頃、おずおずと声をかけてきたのだろう。物事があまりに自分の外で展開されていて、そこについてゆけないもどかしさか、少年は真実を求めようと貪欲になっている。

 だがグレイスの返答には、まだ少しの時間が必要だった。何度かの大きな深呼吸を繰り返し、感情の起伏を落ち着けてから少年に向き直る。

「皆はこれから聖戦に向かうんだ。それが終わるまで、父さんたちはしばらくここを離れる」

 ──聖戦。

 言葉から連想するなら、それは悪しき者を打ち倒すための、聖なる戦の事だ。さしずめ彼らは、その聖戦へと赴かんとする勇者たちだろうか。

 武器の類を何一つ持たず、丸腰のまま聖戦に赴く勇者たち。

 そんな彼らに少なからずの違和感を覚えながら、少年がふうんと相槌を打つ。

 聖戦はいつ終わるのだろう。疑問は漠然と宙を舞っている。

「じゃあ、みんなが悪い奴をやっつけたら、村へ帰ってもいい?」

「ああ。それからの村の建て直しが大変だな」

「僕たちの家も燃えちゃった?」

「かもしれない」

 グレイスは少年の肩に手を置き、同じく視線を彼らへと向けている。

 その瞳に彼らはどう映ったのか、グレイスの言葉は意味もなく寂しげだった。

「それなら、僕も手伝うよ。一緒にみんなの家も作ろう」

「そうだな。さあ、皆の邪魔にならないよう、早く山を下りよう」

 そしてグレイスに手を引かれるように少年は歩き出した。

 正直に言えば、まだグレイスに尋ねたい事は山ほどあった。しかしいまは村の事がある以上、ここで彼らの邪魔は出来ない。グレイスの言う通り、早く山を下りるべきなのだろう。

 だから少年はもう一度だけ彼らを振り返ると、あらん限りの声で声援を贈った。

「みんな、頑張って! またすぐに戻ってくるからね!」

 せめて、力の限りに腕を振る。

 いまの少年に出来る事といえば、それくらいしかなかったから。

 すると彼らも気付いたのか、こちらを振り帰ると、それぞれに笑顔を浮かべ、去りゆく二人を見送ってくれた。それが嬉しくて、少年は彼らが見えなくまるまで懸命に手を振り続けた。腕が痛くなるのも気にせず、何度も何度も。

 次第に小さくなり、夜と消えゆく勇者たち。

 彼らは笑っていた。

 彼らは、最後まで笑っていた。

 だが彼らの中に、少年に手を振り、それに応えようとする者が誰一人としていなかった事に少年は気付いただろうか。手を振るのは少年ばかりで、が一人としていなかった事に、去り行く少年は気付いただろうか。

 そう──遠い夜の中で、誰一人。

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