第七話 裏切りの味
色という色を飲み込む、絶対的な黒。
厚い雲に阻まれた、月の光さえ届かぬ大地。
そこはまさに闇一色の世界だった。
世界のすべては松明の光が照らす小さな箱庭に濃縮され、有無を言わさぬ圧倒的な孤独感に、ともすれば神経が押し潰されそうになってしまう。
もしもこの松明がいま風に消えてしまったのなら、彼らは動く事すらかなわなくなるだろう。五感すべてを狂わせる闇は、人から歩く感覚さえ奪い去ってゆく。この松明の灯は暗黒を照らす唯一の光であると同時に、事実、彼らの命の灯火でもあった。
運命という、この巨大な闇から逃れるための唯一の灯火。
グレイスは友から託された松明の火を慎重に掲げると、丁寧に足場を確認した。奈落へ続く穴のようだった足元に、神の息吹の如く色と造形が浮かび上がってくる。
「気をつけろ、転ぶなよ」
「うん」
グレイスの手を取り、少年が後を続く。
道を道とも思わぬ、でたらめな足場だ。地面には大人のこぶし大の岩がごろごろと転がっており、獣道すらない劣悪な山道が続いている。
けれど彼らに、足を止めるという選択肢はなかった。
運命という牢獄を抜け出し、自由への逃亡を謀る囚人のように、彼らは閉じた世界を行く。迫り来る歯車に巻き込まれぬよう、その疲れた足に鞭打って、懸命に闇の中を彷徨いながら。
立ち止まる事、ましてや後ろを振り返る余裕などない。
すでに運命との戦いは始まりを告げているのだ。
「ハ……ハ……」
グレイスの口元から漏れる荒い呼吸。
しかし疲労の色を隠せないほど、その身体は疲れきっていた。
早朝からの狩り、村への帰路。そして今度は休む間もなく越えてきたばかりの山を戻ろうというのだから無理もない。
もとよりグレイス自身、体力に自信のある方の人間ではない。その逆だ。ゆえに少年もグレイス同様、決して体力のある方ではなく、それどころか同年代の子と比べても、身体の線は折れてしまいそうなほど細く華奢だった。当然この道程を少年が踏破出来たはずもなく、途中何度、グレイスがその背を貸しただろう。思えば狩りからの帰路もほとんど少年を背負って歩いていたようなもので、その身体はとうに疲労の限界を迎えていた。
(──運命に、抗うのだ)
だがその身体を突き動かす力もまた、この少年がいればこそだった。それを言い訳になど出せるはずもない。
グレイスに出来る事は、ただ歩き続ける事。
何が足元に落ちていても、何が後ろに転がっていようとも、絶対に足を止めてはならない。顔は前を向いたまま、ひたすら歩き続ける。
足を止めるなよ、グレイス。
脳裏では、友との別れの言葉が繰り返し自分を鼓舞している。
(マスタッシュ──)
目を閉じれば、いつものように大口を開けて笑う友の姿がそこにあった。
他愛のない冗談を飛ばしながら、自ら率先して笑い、自然と周囲までも和ませてしまうような彼。
だがそんな彼は、もういない。
すぐに目を開け、いま見たマスタッシュの残像を頭から払拭するグレイス。
受け入れるのは、彼の声だけでいい。その笑顔を思い出せば、きっと心を引きずられてしまう。彼のいる後ろを振り返ってしまう。
ならばいっそ──思い出さぬ方がいい。
「あっ……」
その時、グレイスの背後から短く少年の声が聞こえてきた。
振り帰れば足を滑らせたらしく、少年が地面に座り込んでいる。
この悪路だ、いつ足を捻ってもおかしくはない。それにあの場所から歩き通しで、すでに足の感覚もなくなっている頃だろう。しかし泣き言の一つも漏らさず、必死に父の後をついて来る少年はいじらしく、ただ健気である。そしてそんな少年の姿を目にするたび、グレイスはどれほどの疲労を差し置いても自らの背を差し出すのだ。
「少し休むといい」
この少年を守るためならば、どんな苦境でも乗り越えてゆける。
どれほど過酷な世界でも、このくたびれた足で歩いてゆく事が出来る。
疲れ果てていたはずの身体に、僅かばかりの力が甦る。
「……ごめんね、父さん」
「気にするな」
今回も少年はグレイスの背へと収まり、その旅路は再開された。
不毛の大地をさらう黒色の風。暗闇の中で獣が唸るような、びょううという大気が裂ける音。砂を含んだ突風は目を開けている事さえ困難で、ちくちくと針で刺すような痛みとともに身体から熱を奪ってゆく。
徐々に、夜が荒れ始めていた。その冷酷な本性を現すように。
特に暴風が吹き荒れる夜は、遮蔽物のない荒野では凍死の危険さえ付きまとう。
荒れ狂う風と、足を奪う悪路に暗闇、疲弊した身体。
気持ちは逸れど、しかしこれ以上の無理は禁物のように思えた。
この身体が動くうちに、どこか安心して休める場所を探さなければならない。
若干の焦りと共に、グレイスがその歩調をやや早める。
「ウェインたち、平気だよね」
するとその耳元に、不安げな少年の声が聞こえた。
この逃避行の最中も、聖戦へ赴いた村人らの安否をずっと気にかけていたのかもしれない。ようやくその思いを口にした少年は、グレイスの同意を求めるようにその背で息を潜めている。
「……ああ、心配はいらないさ。後は皆に任せておけばいい」
だからグレイスは、少年が求めるままの答えを返した。
確かな未来など、グレイスとて知るはずもない。しかしわざわざ不安を伝える理由もないだろう。少年が一時の安堵を求めるなら、それでいい。
たとえ村人らが選んだものが、紛れもない修羅の道だったとしても。
彼らはすでに過去なのだ。
過去に引きずられてはならない。
グレイスは暗にそれを告げるよう、言葉少なめにその話題を終わらせた。
「良かった」
その答えを聞き、少年はほっと胸を撫で下ろしたようだった。
グレイスの肯定は少年にとっての確信だ。いまだすべての状況を飲み込めたわけではない少年だが、グレイスが大丈夫という以上、心配はない。
ようやく安心したのか、少年はグレイスの背で強張っていた身体の力を抜いた。
それきり少年は眠りに落ちるものかと、グレイスは思っていた。
「ねえ、父さん。もう一つ聞いてもいい?」
しかし、少年の質問はまだ終わっていなかったらしい。
好奇心旺盛な少年が、何より胸の底で引っかかっていた疑問。それはおそらく先の問いではなく、こちらが本命だろう。グレイスはその本題に思い当たり、知らず顔をしかめていた。
「聖戦って?」
その質問は当然と言えば当然の問いであった。
まるで知らない花の名を尋ねているような、何気ない疑問の声。
──ああ、説明しなければならない。グレイスは苦虫を噛み潰したような表情を浮かべると、眉間に皺を寄せて喉を鳴らした。
いつもより声が低いのは、グレイスなりの疲労のせいだろうか。
自分が想像していた以上に口は重かった。
「そうだな」
グレイスの脳裏では、あるべき返答が模索されていた。
どう答えればよいのか。しばしの沈黙が二人の間に流れ、会話は途絶える。
だが十にも満たない少年が素直に待っていられるほど、その時間は短くなかった。
その静かな探求心は、焚き火に燻る火種のように彼の胸を焦がし、興味をそぞろに募らせる。
「父さん、聖戦て何?」
少年はもう一度その問いを口にしていた。今度は丁寧にも相手の名まで添えて。
グレイスに与えられた思考の時間は、あまりにも短い。
「村を荒らす悪い奴を──退治にしに行くんだ」
グレイスの返答は、ぽつりと告げられた。
落ち着いたというよりは、あまり感情のない無機質な声。あえて感情を取り払ったかのような味気ない言葉。
「村を荒らす、悪い奴?」
少年は不思議そうな表情でその答えを復唱する。
その脳裏には、自然と獰猛な魔物の姿が思い起こされていた。
「竜巻みたいなものさ」
グレイスは、謎かけのような言葉遊びが好きだった。
夜、なかなか寝付かない少年に語った、不思議と独創に満ちたおとぎ話。あるいは古くから伝わる寓話。今回もそうした話をせがまれた時のように、グレイスは言葉を探し探し、次の文脈を繋いでゆく。しかし今回がいつもと違うのは、グレイス自身がそれをいささかも楽しんでいる口調ではなかった事だ。
「──始まりは突然だ。どこからともなく現れて、辺りにあるものすべてを破壊して去ってゆく」
少年の位置からではグレイスの背中しか見えず、その表情までは分からない。
しかし当のグレイス本人も、自分がどんな顔をしているのか、分からなかった。
「竜巻と戦うの……?」
「腹ぺこの怪物だよ」
グレイスの口から、またも聞き慣れない言葉が発せられた。
ある程度なら、少年も魔物の知識はある。だがそんな名前は一度として聞いた事がない。
「お前はまだ知らないだろう。知らなくてもいい事だ。だがこの世界には、まだそんな怪物たちが数知れず存在しているんだよ」
「どんな魔物なの?」
「いや、魔物とも少し違う」
グレイスの背で、少年がぶるりと身を震わせた感覚があった。意図したものではなかったが、怪談のような話し振りにふと恐怖を覚えたのかもしれない。
しかし人の背中は時として、言葉以上にものを語る。いまグレイスの背中からは、抑え切れずに滲み出した暗い感情がもやのように外へ流れ出していた。
「大きさはそれほど大きくもない。姿形も一種一様、何か特別な能力があるわけでもない。だが彼らは──とても群れるんだ。物影に集まる小さな蟲のように。一匹の非力な能力を補うために、常に群れで行動し、それを補っている」
その姿を脳裏に思い浮かべ、その特徴を説明するグレイス。
群れで行動するのなら、やはり魔物にも似たような類がいる。蛮族と呼ばれる
「しかし彼らには、理性というものがないんだ。考える頭がないんだよ。何も考える事は出来ず、己の欲望のままに行動し、満たされる事のない飢えが更に彼らの欲望を掻き立てる」
「……その怪物は、お腹が減っているの?」
「ああ、いつも腹ぺこなんだ。とてもね。だからいつも食べ物を探して、あちこちを動き回っているんだよ」
道は長く、暗く──そして険しい。
彼らと離れ、すでにどれほどの時が流れ、どれほどの距離を進んだのか。孤立する闇の中ではそれすらも判別が難しい。一体どこをどう歩いたのか、ましてこれは夢の中の出来事なのではないだろうか。そんな馬鹿げた妄想さえもが、唐突に、何の前触れもなく胸に沸いてくるのだ。
目を覚ますと村は元通り、いつもように少年が、屈託のない笑顔で自分を迎えてくれる。粗末な暖炉に火を起こし、熱い湯を沸かそう。それから黒麦の粥と、隣村との交換で手に入れたこのチーズを食べよう。滅多に食べられるものではない。あとは少し畑の手入れをしなければならないな。今年は枯れずに野良豆が身を太らせている。もうじき、食べられるかもしれない。もうじき──。
不意に、グレイスの表情に影がかかった。
気が付けばまた過去を振り返っている。心がかつての温かみを偲んでいる。
何を馬鹿な。すべては遠い過去の話だ。身震いするこの風を思い出せ。薄れかけていた意識を乱暴に元の世界に引きこんでゆく。
──話を戻さなくては。腹ぺこの怪物に。
「だけど悲しいのは……その怪物には、物を食べる口がないんだ」
「口がない?」
「そう。いくら腹が減っていても、何も食べられない。だからその胃は決して満たされる事がなく、いつも腹ぺこのまま獲物を探し求めているんだよ」
そしてグレイスの話は、そこで終わった。
口のない化け物。満たされぬ飢えに苦しみ、本能のまま獲物を探し続ける。
果たしてそんな怪物が現実に存在し得るのか、にわかには信じられない気持ちもあるが、しかしグレイスの声を聞く限り、それが冗談を言っている風にも思われない。
どこかでその怪物を憐れむような、深い悲しみにも満ちたその声。
グレイスの背中で、少年の身が少し小さくなったように感じられた。
「可哀想、だね」
「ああ──」
二人の会話は、それきり交わされる事はなかった。
自然の猛威は遺憾なくその力を発揮すべく、いまなおその表情を変え始めている。まるで先程までの暴風が春のそよ風と思われるほど、刻々と。
極限に達した疲労と、肌を裂く刃のような北風。指先の感覚はとうにない。
そろそろ、動く事の出来る限界が近づいていた。
「もう十分だ。今夜はどこかで一休みして、明日に備えよう」
グレイスは喘ぐようにそれだけ言うと、少年を背におぶったまま、鉛の身体に最後の鞭を打った。
松明はそろそろ燃え尽きる頃だろう。炎は細々とした明かりを風にさらわれながら、ぼっぼっと最後の命を燃やしている。
強弱する光と、収縮を繰り返す閉じた世界。
押し寄せる闇が、いまかいまかとその時を待ち望んでいる。
やがて一際強い突風が彼らを襲ったと同時に、その閉じた世界は音もなく、唐突に闇に消えた。
世界は、光なき闇に覆われた。
(どうやら、疲れて寝てしまったようだな)
グレイスは少年の額に手を当てると、その艶やかな黒髪を撫でて微笑みを漏らした。
穏やかな暖色に染まった狭い空間の中、少年はいま、グレイスの傍らで横になって眠っている。
あの暗闇も強風も、ごつごつとしたひどい足場の岩もここにはない。
ここは大地に無数に存在する、ひび割れた裂け目の中。つまり、グレイスたちが初めに狩りを行っていた場所の一つだった。
わずかに残った種火で集めた木屑や枯草を燃やし、再び火を起こしたグレイス。小さな炎から伝わる熱と煙が、氷のようだった身体を温かく包み込んでくれている。
あの最後の火が消える前に、こうして土地勘のある場所まで辿り着けた事は幸いだった。
この場所は、野兎などの小動物が、ねぐらや移動手段としても使う縦穴だ。中ではいくつかの縦穴が横穴として繋がっている場所も多く、決して楽にというわけではないが、グレイスが腰を屈めて通れる高さがある穴も珍しくない。
しかし普段出入りするこの穴倉に、まさかこんな形で命を救われる事になるとはグレイス自身思いもしなかった。低さこそは否めない天井も腰を下ろしている分には気にならず、風も穏やかだ。外の環境とは比較にもならない上等の宿だと言える。
(──野兎たちもなかなかの家に住んでいるじゃないか)
下手をすれば、隙間風が吹きつける人家よりもよほど。
思わずそんな皮肉を思い浮かべながら、グレイスはふっと笑みをこぼした。
身体の休まる瞬間だ。あれほど疲れていた身体に、微かながら熱と力が戻り始めている。これならば明日もまた、灰色の荒野を歩く事が出来よう。 たとえ少年をその身に背負ってでも、この道を行ける。
溜めに溜めた息をふうと吐き出すと、グレイスはゆっくりその身を横たえた。少年の隣に寄り添うように身体を伸ばす。身体中の筋肉がほぐれると同時に、関節の節々が鈍い軋みをあげていた。
「さあ、明日も早いぞ──」
安らかな少年の寝顔に語りかけ、その顔を見つめるグレイス。
しかし心の安息を覚える一方、ふとしてその胸に差し込んでくるのは、やはり一抹の憂いだった。
村を襲った聖戦の悲劇。
果たして彼らはいまどうしているのだろう? 村の様子は?
過去と呼ぶにはまだ温かみさえ残るその過去が、グレイスの脳裏を巡り始める。
歩みを止めたせいだろうか。過去が近づいている。
(マスタッシュ──!)
だがグレイスは頭を振り、過去の囁きを振り払った。
もう遅い。いまさら振り返ったところで後戻りなど出来ないのだ。ふとした拍子に過去に囚われるのは、まだ逡巡を捨て切れない心の弱さゆえだろう。
強くあらねば、守れるものも守れなくなる。
自らの決断を確かめるように、少年の頬を撫ぜるグレイス。
「……うん……?」
すると少年は声にならないうわ言を呟いて、グレイスとは反対方向へ寝返りを打った。邪魔をするなという事らしい。
その仕草に、思わずグレイスの頬が緩んだ。
そう──これで正しい。何も間違ってはいない。
いま考えるべき事は、少年の事だけでいいはずだ。小さく上下するその肩をじっと見つめながら、自らに確信させるよう、心を固めるグレイス。
答えは目の前にある。この手と指の先に。
(何があろうと、お前だけは守る。それが私の誓いだ)
そして名残惜しそうに少年の背から視線を外し、自らもその隣りで目を閉じる。
欲を言えばもう少し少年の寝相を見ていたい気もしたが、あまり起きている人間の都合でちょっかいを出すのも可哀想だ。それに明日はもっと厳しい道程となる。いまのうちに体力を戻しておかなければならない。
(……何だ?)
だが時を置かず、再びグレイスの目は開かれる事となった。
何かが、気になる。グレイスが瞼を閉じた瞬間、視界の隅にある種の違和感が映り込んだような気がした。
別段、得体の知れぬ何かが潜んでいるというような気配ではない。ここに人間がいる以上、小動物の類は姿を見せないだろう。しかし見間違いではない。何かがいるのだ。確かにあの一瞬、見覚えのある何かがグレイスの視界に映り込んだ。
迷ったが、まずはそれを確かめるべく、そのままの体勢でグレイスは油断なく目を光らせた。瑣末な事とは思うが、そのまま寝てしまうという行為には少なからずの危険と、警告にも似た躊躇いが感じられた。疲れを癒すのはその原因を特定してからでも遅くはない。
「あれは……私たちの罠か?」
しかしその答えは、あまりにも簡単に、そして呆気なく見つかった。
そこには暗がりに隠れて獲物を待つ、冷たい鉄の狩猟者の姿があった。
あんぐりと口を開けたその姿はどこか間抜けにも見えるが、その口に並ぶ幾つもの鋭い歯は、獲物を仕留めるための道具である事を如実に物語っている。知らずグレイスの脳裏には、今日の狩りでの出来事が走馬灯のように甦った。
少年が獲物を逃してしまった事。その姿が見えず、散々辺りを探し回った事。
(──あの時は本当に心配した)
グレイスは、ふっと笑みを漏らさずにはいられなかった。別に笑い事ではないのだが、今では何故か、それがとても懐かしい思い出のようにも感じられたから。
だが、笑えてくるのはそればかりではない。暗闇の中で炎に照らされ、鈍い光を放つ狩猟者。その姿を誰かに確認されているようでは、狩猟者失格だ。
けれどもそれはグレイスらにとって、少なくとも幸運だったと言えるだろう。まさか罠の仕掛けられた場所で寝ようなど、どんな物好きでもするまい。もしも朝、寝ぼけた少年がその罠に足を踏み出そうものなら、その細い足は獲物のそれ同様、無骨な鉄の顎に簡単に噛み砕かれてしまう。
ここにきて、そんな真似だけは勘弁願いたかった。
「念のため、外しておくべきだろうな」
万が一という事もある。グレイスは重い身体を再び引き起こすと、物言わぬその狩猟者へ近寄っていった。しかし慣れた手つきで罠を外そうとしたその時、グレイスはそうした罠の正体に気付き、堪らず二度目の失笑を漏らしてしまう。
何故すぐに気が付かなかったのか、よくよく見れば、それはグレイス自身が仕掛けたはずの罠であった。
鉄の歯茎に付着した獲物の血、そして白い体毛。思い返せば、確かにこんな場所へ罠を仕掛けた覚えもある。
「……ハハッ。間抜けな狩猟者の主は、なんとこの私か」
今回で唯一当たりを見た獲物は、例の野兎のみだ。つまりここは、グレイスが最後に罠を仕掛けた場所に他ならない。となると彼らは今、ようやく当初の狩りの地点まで戻って来た事になる。
闇の中で方向感覚にやや不安を抱いていたが、どうやらちゃんと山を下っていたようだ。グレイスはその事実にまずは安堵し、それから少々呆れながら、素早く鉄の金具を回して狩猟者を解雇した。これで万一にも罠が発動する心配はないだろう。
ただその最中、彼は解雇命令を下された狩猟者ばかりか、あろう事かその隣りに、新たな狩猟者の存在を確認する事となった。
まるで双子の兄弟のように肩を並ばせ、共に獲物を待つ、もう一人の狩猟者の口。それは狩りの方法としてはまず考えられない珍しい光景だった。同じ場所に二つも罠を仕掛けるほど、効率の悪い仕事もないだろう。
「どうして同じ場所に二つも……」
暗がりで、隣りに設置されている罠に気付かなかったのか。
いや、ここに仕掛けに来た時には、確かにこの罠はなかった。誰かがグレイスの罠に気付かず、ここへ設置していってしまったと考えるほかない。
「フフ。お前達はここで、仲良く獲物を待ってたのか」
グレイスはそんな狩猟者たちに、微笑みを漏らした。
まるで仲の良い二人の親友を見ているかのようだったから。
そう。共に肩を並べ、共に獲物を待つ、かけがえのない親友のような。
親友の。
「────―──―」
そしてグレイスの表情は凍り付いた。
その恐るべき直感を何と表現したらいいのだろう。
衝撃、困惑、あるいは後悔──全身の毛穴が総毛立ち、指先に至るすべての筋肉が硬直する。見開かれた目に思考はすでになかった。
人の理性など、想像を超えた外因の前ではあまりにも無力だ。
グレイスの脳裏には、一人の男の姿が描かれていた。
それは取るに足らない笑い話。すでに忘れかけていた古い記憶。彼ら二人だけの、些細な出来事。
なのにその思い出がいま、あまりにも鮮明に思い起こされた。
一片の忘却もなく、ただひたすらに眩しく、罪深いほど鮮烈に。
(──知っていた)
グレイスには以前、同じような経験があった。
各々が仕掛けた罠を巡りながら、ばったりと同じ場所で再会した彼ら。お互いに唖然として顔を見合わせた彼らは、一拍の後、二人揃って大笑いをした。同じ場所に罠を仕掛ける奴があるか、と。
そこには二人分の罠が、肩を並べて置かれていた。
(──知っていた)
あれ以来、そんな過ちは一度としてなかった。当たり前だ。故意にした所で何の意味もない。だが彼は再びこの行為に及んだのだ。それも故意に。自らの意思で、わざとこの行為に及んだ。知らずにやったとは考えられない。
やがてグレイスの閃きは、確信へと変わってゆく。
(──知っていた)
一体彼がどんな想いで再びこの行為に及んだのかは分からない。
あの時のように笑い合いたかったのか。それとも陰鬱な狩りの結果を和ませようと、こんな冗談を思い出したのか。
推測ならばいくらでも出来よう。
偽りの友として、身勝手な推測ならばいくらでも。
だが、これだけは言える。
彼は知っていた。
グレイスが獲物を隠したという事実を、彼は知っていた。
「何故だ……」
すでにその顔からは完全に血の気が引いていた。世界は明滅を繰り返し、激しい眩暈と吐き気がグレイスを襲う。彼は中腰の姿勢すら崩し、両手から崩れるように大地へひれ伏した。身体が精神の指示を離れている。
「なら、あの時どうして……!」
グレイスは吐くように叫んだ。
激しい自責の念に駆り立てられ、気が狂いそうになる。
もちろん、彼が知っていたという証拠はどこにもなかった。だがグレイスには分かる。こんな事するのも、そして出来るのも、彼しかいないのだ。
グレイスの担当する場所のすぐ隣りには彼が、そしてグレイスの罠の好みを熟知しているのも彼だ。そして彼はかつてのように二人分の罠を共に発見し、友として笑い合う前に、意外な真実に気付いてしまった。グレイスの胸に隠された本心を、あの時に知ってしまったのだ。
自分はグレイスに信用されていないと。
彼は傷ついたはずだ。友が、自分を懐疑の眼差しで見ていた事を知って。
だが責めなかった。それどころか彼は、そんな素振りさえ見せはしなかった。たった一言念を押しただけで、事実を知りつつも、それでもなおグレイスの言葉を信じたのだ。自分を裏切った友の言葉を。
グレイスの身体を、凄まじい衝動が突き抜ける。
目は見開かれ、激しい鼓動が胸を打つ。
「マス……タッシュ……マスタッシュ……ッ!」
何度もどもりながら、ようやく友の名を口にする事が出来た。
いや、もはや彼を友と呼ぶ事すらおこがましい。
それに引き換え、自分はどうなのだ。
友を裏切ったのだ。無二の親友の信頼を。
彼がそれを疑い、皆に言いふらすと恐れて。
彼という人間を心の底では疑っていた。信じる事が出来なかった。
なんと卑猥な人間なのだろうか。自分こそが貧困に歪み、他人を妬み、嫉妬していたのではないか。
「許してくれ! 私を、許してくれ……!」
グレイスは激しい嗚咽と共に、友へ懇願した。
止めどない涙が頬を伝い、汗と交じり合って地面へと滴る。
自らを恥じずにはいられなかった。
(──何が親友だ!)
最後にマスタッシュへ告げた礼の言葉。偽りの礼の言葉。
だが彼は応えた。応えてくれた。その親友を裏切った男を、彼はまだ友と呼んでくれるのか。
「だからグレイス、お前が本気で運命を変えるつもりなら、絶対にそれ以外の事は考えるなよ」
それは彼から送られた、最後の手向け。
マスタッシュが告げてくれた、最後の、彼の言葉だ。
彼は自分がグレイスに信用されていないという事を知りながら、それでも許し、自らは盾となって、なおもその身を案じようというのか。
今になって、この言葉の重みが理解出来る。一体それがどれほどの意味を託された言葉なのかも。
彼は理解し、案じていたのだ。グレイスという滑稽で憐れな男を。万が一、自分が悪戯に仕掛けたこの罠をグレイスが発見してしまった時の事を。
戻って来るなと、彼はそう、今でもグレイスに告げている。
「……運命とは、これほど残酷なものなのか」
グレイスは丸く身体を折り、大地に顔を埋めながら、くぐもった声でそう呟いた。
握り締めた拳は充血を通り越し、いまでは青く色を失っている。汗と涙で土塗れになったグレイスの顔は、人生に疲れ果てた老人のような表情になっていた。何十年分という苦悩の日々が、一気に襲いかかってきたかのような。
乾いた口内でひどくねばついたものが喉に絡み、不意にグレイスの呼吸が乱れた。吐く事も飲み込む事も出来ないその不快感は、一つの既視感を記憶の隅に呼び戻す。
そうだ──忘れもしない。
友を裏切った時に味わった、あの味だ。
「ゴッ、ゴハッ……! カ……ハッ!」
痰のような唾液を喉に詰まらせて、堪らずグレイスはその場に嘔吐した。
しかし、吐けど吐けどもその衝動は収まらず、もとよりない胃の内容物を繰り返しその場へ吐き出させる。これ以上、何を出せと言うのだろう。
胃酸はグレイスの喉を繰り返し焼き、やがてそれは血の色へと変わった。
いっそ、このまま殺してくれ。そんな考えがグレイスの脳裏をかすめる。本気でそう思えた。
自分の命など、友が受けた心の傷、友を裏切った代償に比べれば安いものだ。
グレイスは血と泥と汚物に塗れた手で自分の口を拭うと、力なくそのまま横に倒れ伏した。瞬きもせず、力なく虚空を見つめる。
「そうか。これが裏切りの味か」
グレイスの長い夜は、いま、始まりを告げた。
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