第八話 決して見てはいけないもの
闇の中──少年はいた。
目を疑うほどの完全な闇。自らの手足さえ見つけられない。
自分はいま、どこを向いているのだろう。
上か、下か、左か、右か。それとも正面を向いているのか、後ろを向いているのか。五感すべてを奪う闇の中、少年はいた。
「……父さん」
無意識にその名が口をついて出る。
嬉しい時、悲しい時、心細い時、何もする事がない時。何かあればいつでもこの名を口にしていた。何かを訴えたい時もそうでない時も、この名を口にすれば安心出来た。だから口にした。
しかしいま、少年の声に応えてくれるはずの人物はいなかった。
絶対無音の虚空。音という音すべてが掻き消され、静寂の中の耳鳴り、自らの鼓動すらも聞こえない無の世界に少年の声は届かない。あるいは自分の耳がおかしくなってしまったのだろうか。ひどく心がざわついてくる。
そもそも、自分はいま本当に「父さん」と口に出来たのだろうか? この目は見えているだろうか? すべてに確信が持てない。ここが何なのか──そして、自分が何なのかさえも。
少年は、もはや自分の名前すら思い出す事が出来なかった。
自分は一体誰なんだろうか。唐突に不安という感情が湧き上がってくる。
「父さん! 父さん!」
自分が分からない。全てが分からない。
だがそれでも、この名前だけはしっかりと覚えている。
この名を叫べば救われる。そんな思いだけは、絶対の意識として胸の奥深くに存在する。
「あれは……!」
するとそんな少年の遥か前方の闇に、ふと何かが映し出された。少なくとも目は見えていたらしい。
変化を見せた世界に興味を覚え、彼方の空間へ目を凝らす少年。ものの輪郭さえぼやけて見える距離だったが、どうやらそれは少年の探し求める父親、グレイスの姿であるようだった。思わず少年の顔に歓喜が弾ける。
しかし奇妙な事に、そのグレイスは、顔だけしか存在していなかった。
まるで生首のように地面に転がったまま、こちらを見つめている。悲しげな、いまにも泣き出してしまいそうな表情で。
「父さんッ!」
甲高い悲鳴を上げ、驚きに目を見開く少年。
だがよくよく見てみれば、それはうつ伏せに寝そべったまま、顔だけをこちらに向けている体勢だという事が理解出来た。
しかし──それにしても奇妙な体勢である。何故そんな苦しい姿勢を取るのか。やがて暗闇に目が慣れてきた少年は、そこに驚くべきモノを発見する事となった。
何者かが、グレイスを上から押さえつけていた。
それも一つや二つの単位ではない。何十という数の群れが、グレイスの周囲を蠢いている。
(──腹ぺこの、怪物……!)
反射的に少年は、その怪物の名を脳裏に思い浮かべていた。
もちろん、見た事もないその怪物がどんな姿をしているのかは分からない。だがそれが腹ぺこの怪物なのだという事だけは、はっきりと理解出来た。暗闇に目が慣れる事で、手や脚、胴体──徐々にその怪物の輪郭が明らかになってゆく。
やはり、他の魔物とは違う。
不気味なほどその容姿は人間と酷似していた。
一糸纏わぬ身体に隆起する筋肉は男のそれで、二本足ではなく、両手を含めた四本足でぎくしゃくと歩行している。そしてそれが何十とグレイスの周囲をうろついているわけだから、不気味なことこの上ない。さらにその頭部を目にした途端、少年の口からは短い悲鳴が漏れた。
頭部は首へ埋もれた感じ、と言えばいいのだろうか。首がなく、肩からそのまま、頭らしきものが生えている。そしてその頭部には口はおろか、目、鼻、耳にいたる感覚器官が何一つ付いていない。爛れた肉の塊が盛り上がっているだけだ。
見れば見るほどに、気味の悪い生物だった。
人間のように見えるが、とてもじゃないが、人間とは程遠い。
人間になれなかった挙句の、出来損ない。それはまさしく、怪物であった。
「……うぅ」
歯の隙間から漏れ出る嫌悪の声。生理的な拒絶反応。
果たしてあの頭部は、そうした少年の機微を感じ取ったのだろうか? ふと見れば何匹かの個体が不自然にその動きを止めていて、少年は戦慄に目を剥いた。
まさかという気持ちで口を塞ぎ、慌ててその場に座り込む少年だが、しかし座り込んだという実感は相変わらずない。まるで水の中に浮いているような感覚で、逃げる事も隠れる事も出来ず、背を丸めて座り込んだと意識するだけだ。腹ぺこの怪物はしきりに辺りを窺いながら、いましがたの気配の正体をひどく気にしている。
やおら、一匹のそれが少年の方へと歩みだした。
早鐘を打つ鼓動。いや、それは生物としての警鐘に近かったかもしれない。少年の背筋に冷たいものが走り、瞬間的に手足から温度が抜けてゆく。本能はそれを捕食者として認識しているのだろう。
頭部を無くした奇妙な人間が、ゆっくりとだが確実に少年の方へとにじり寄ってくる。すでに半分ほど距離を詰められただろうか。首に埋もれた肉塊は、神経が通わぬ腕のようにぶらぶらと揺れて感覚がない。
少年はそんな光景を目の当たりに、思わず腰を浮かせて後退っていた。物言わぬその不気味さに、純粋な恐怖が腹の底から湧き上がってくる。
──逃げなければ。
しかし少年がそう判断した次の瞬間、怪物の動きは豹変していた。
捕らえるべき獲物を完全に認識したのだろう。四本の手足をばたつかせ、激しく上下しながら少年に突進してくる。肉薄する脅威に、もはや口を閉じてなどいられなかった。
「うッ……うわあああぁぁッ!」
気がつけば少年は凄まじい力で怪物に引き倒されていた。グレイスと同じようにうつ伏せとなった身体の上に、怪物のごりごりとした、けれども妙に柔らかさのある重みが圧し掛かってくる。少年の腹や背中、手足など、あらゆる部位に押し当てられる怪物の頭部は、口のない肉塊で獲物を喰らっているつもりなのか、それが故に終わりはなく、少年の絶叫に近い悲鳴だけが光なき暗闇に木霊する。
「うわああああ! うあ……ああああぁあッ!」
名状し難い異常な感触と、異常な行為。少年の精神が狂気に触れる。
しかし、あらん限りに声を叫んでも、身体はぴくりとも動かない。身体中の汗が噴き出す感覚に歯を軋ませながら、少年はただ、最後の希望だけでその理性を繋ぎ止めていた。
「父さんッ! 父ああさんッ!」
自分の力で怪物を跳ね除ける事は出来ない。しかし、誰かを信じて待つ事は出来る。
グレイスなら、きっとこの声に応えてくれるはずだった。どんな状況でも、この確信だけは揺るがない。
しかし少年の求める男は依然として彼方に身を横たえるばかりで、一切の救いを差し伸べてはくれなかった。先程と同様に悲しげな──いや、この世のすべてを呪うかのような瞳で、少年の様子を見つめている。
揺らぐ確信と忍び寄る絶望の中、それは蠢く怪物の脚に怪物に当たり、ごろんと横に転がった。
強引に引き千切られたような首の断面からは、血管や神経、筋肉の筋などが、まるで紐のように何本か外に飛び出している。
それは本当の生首だった。
グレイスは、すでに死んでいた。
その身体は、すでに彼らと何ら変わらない容姿へと形を変えていた。
「────────」
辛うじて保っていた少年の神経が、音を立てて千切れた。
声にならない叫びを残し、少年の自我は崩壊した。
「──……ッはあ! はあ……は……ッ!」
少年は目を見開き、激しい呼吸を繰り返していた。暑くもないのに、衣服が汗でびしょ濡れになっている。
そこに先程見た怪物の姿はなかった。薄暗いのはあまり変わらなかったが、この世界には五感と呼べる感覚がある。自由に動かせる手足の感覚、聴力に嗅覚、そして視力。それらを駆使して、少年は自分がいま置かれている状況の確認を急ぐ。
そこは荒野を走る大地の亀裂、薄暗い洞窟のような場所だった。
しかし見覚えがあるわけでもない。自分は何故この場所にいるのだろう。
「ゆ……め……?」
いまだ幻想と現実との境界が判然とせず、著しく判断力が低下しているが、どうやら先程までの出来事が夢であった事は確かなようだった。しばしの沈黙のあと、少年はそう納得し、大きくその場へ息を吐き出した。
まさに悪夢のそれだった。
それでいて、とてつもなく生々しく、ひどく現実味を帯びていて。
昨日グレイスから腹ぺこの怪物についての話を聞いたためだろうか。それにしても怪物の質感、グレイスの生首、それらは簡単に夢と割り切れるほど、生優しげなものではなかった。自分でも一体、何故あんな夢を見たのか分からない。
「父さんが……死ぬ夢」
改めて少年は、先程の夢を思い出してみた。
夢など起きたら忘れている、といったものが多い中、今朝のそれは一部始終が脳裏に焼き付いたままでいる。目が覚めた今も背筋のうすら寒さを拭い切れないほどに。
まして少年にとって、グレイスが死ぬ夢など初めてのものだった。そんな夢を見てしまった自分自身に嫌悪感を抱くほど、その衝撃は大きい。
だがそこで少年は、ようやく目の前の最たる異変に気付く事が出来た。
先程から感じていた、言葉では言い表せぬ、この違和感の正体。
「いない……」
グレイスの姿がそこになかった。
狭い穴ぐら中を隅から隅まで見渡してみても、その判断に変わりはない。
それとも、これもまた夢ではないかと頬をつねってみたが、明確な痛みはあった。夢ではない。
ならば一体どこへ行ってしまったのか──?
意図せずとも少年の脳裏に先程の悪夢が甦ってくる。
あの光景はすべて夢。たとえ頭でそう言い聞かせてみても、もはや掴み所のないその不安を打ち消すにはあまりに役不足だと言えた。何よりグレイスの姿がここにない事が一番の原因だろう。胸に芽生えたこの不安は、それなくして解消の道はない。
いてもたってもいられず、立ち上がった少年の瞳に、またいくつかの異変が映り込んだ。
──ここで待っていろ。
小さな焚火の横の土に、乱暴な書き置きが残されていた。
文字はグレイスから教わっている。読めない事はないし、彼の字体もよく知っている。これはグレイスのものだろう。
またもう少し奥の地面には、吐瀉物とも血痕ともとれる、微かな異臭を放つ液体が乾いていた。
これも彼のものだろうか? 少年だけがこの穴倉に取り残されたいま、その事実を知らせる者はないが、しかし両方ともグレイスが残したものと考えるのが一番現実的で無理のない判断だと思えた。逆を言えば、この状況ではそれくらいしか考えられる可能性がない。
意味深な書き置きと、謎の痕跡──。
これら奇妙な置き土産と少年を残し、グレイスは何の行き先も告げず、何処かへと去った。
普段のグレイスらしからぬ行動に、胸騒ぎの影が少年の心を侵食する。
果たしてそれは、少年に這い寄らんとする運命のざわめきなのだろうか。
彼らが望みし未来を引き戻さんとする、抗い難き運命の引き手。そのきっかけは、ほんの些細なすれ違い、胸に芽生えた小さな決断、あるいは取るに足らない夢の予兆であったもしれない。だけれども、彼ら村人たちが変えてくれた運命もまた、運命の紡ぐ律にほんの僅かな歪みを生じさせただけに過ぎない。
彼らの未来はあるべき姿を求め、人知れず、静かに動き出している。
「……父さんを、探そう」
少年がその結論を導き出すのに、そう時間はかからなかった。
──確かに聞こえた。
グレイスは手頃な岩陰に身を潜めながら、油断なく辺りへ気を配っていた。小刻みに目を動かし、動くものがあれば即座に対応する準備は整えている。
しかし少年一人をあの場所に置いてきたのは、やはりまずかっただろうか。昨日のように、勝手に動き回ったりはしていないだろうか。グレイスとしても、いまだその不安を払拭出来たわけではない。
だが今はそれ以上に、かけがえのない友の安否が求められた。
(確かに聞こえたんだ──!)
グレイスは我が耳を信じて疑わなかった。
何故なら彼の懺悔の夜は、その親友の悲鳴によって幕を閉じたのだから。
まだ夜も開け切らぬ静寂の中、遠くその悲鳴は聞こえた。それは苦痛と恐怖、あらゆる負の感情をなびかせた絶望的な呼び声だったが、彼の声に間違いなかった。
「──マスタッシュ! いたら返事をしてくれ!」
どうして別れたはずの彼がこの場所にいるのかは分からない。
心身ともに疲れ果てた挙句の、単なる幻聴だったのかも知れない。
しかしそれが仮に幻聴であったのだとしても、それを捨て置く事など出来なかった。
確かに昨日までのグレイスならば、あるいはそれも可能だったろう。少年という無二の存在を守り抜く事が出来れば、どんな犠牲さえ厭わない。それは石碑に刻まれた誓いの如く、揺るぎないものだった。
だが友の真意、その真実を知り得たいま、その誓いは崩れた。
これで何度目か、友から示されたその言葉が警笛のように脳裏をよぎる。
決して後ろを振り返るな──。
しかし彼に問いたい。背後で自らを犠牲にした友が倒れている時、どうしてそれを振り返らずにおれよう。どうしてその友を捨てゆく事など出来ようか。
運命以前に、グレイスは人である事を選んだ。友である事を選んだ。
たった一瞬、後ろを振り返るだけだ。遅れとしたら、わずか数歩。そこで倒れた友を担ぎ上げ、また早足で歩き出せばいい。そのための労力を賭す覚悟ならいくらでもある。だとしたら何も問題はないではないか。
グレイスの胸に芽生えたその想いは、困憊した肉体の重みさえ忘れさせた。
「……どこにいるんだ、マスタッシュ」
だが彼の想いとは裏腹に、友の姿は見つからないままだった。
時の流れは無情であり、いまやグレイスの顔には隠しようもない焦燥感が滲んでいる。
すでに夜も明けた。友を振り返ってから、一体どれほどの時が過ぎたろう。
おそらく、運命はグレイスにこれ以上の足踏みを許さない。その確信だけは刻々と強くグレイスの中で大きくなってゆく。
しかし──しかしと思う。
これはそれほどに傲慢な願いなのだろうか?
もう一度、もう一度だけでいいのだ。もしこの世界に神と呼ぶものが在るのなら、別れた友に、この場所にいるであろう友に、もう一度だけ巡り会わせて欲しい。今もまた無意識に天を仰ごうとする自分の視線に気づき、グレイスは苦々しい顔で首を振った。
(……いや、そうじゃない)
今更この空に何を願うというのか。
あの暗澹たる空に何を期待するというのか。
もし神がいるのなら、何故こうなる前に救いの手を差し伸べてくれないのか。
この土地に暮らす弱者の生活を、飢えて死に逝く人々の生活を目の当たりにしながら、何故そうも黙っていられるのか。
この忌まわしき天がもたらした恩恵など、何一つない。
もたらされるのは失望と徒労くらいなものだろう。
(運命を変えるのは、人の力だ──!)
それは、聖戦に赴いた彼らのように。
人の想い。それこそが人を困難に立ち向かわせる。
視線を上げ、グレイスが新たに一歩を踏み出した時だ。
「グ……ゥ」
どこからか獣が唸るような声が、グレイスを呼んだ。
自分ではない何者かの存在に、一瞬身を固くするグレイス。ずりずりと巨大な蛇が大地を這うような音は、手前の岩陰の向こうから聞こえてくる。
しかし奇妙な事にその音は、近寄って来るでも遠ざかるでもなく、同じ場所から動こうとしない。もぞもぞと岩陰に蠢くばかりで、それはグレイスを待っているようにも、この場から去れと脅しているようにも感じられる。
不思議と──胸がざわめていた。
暗雲の中の太陽が厚い層に重なったのか、世界がふっと暗くなる。温度が冷える。
それは警告だろうか。
何者かがグレイスの耳元で懸命に囁いているように思えた。
見てはならない。それを、見てはならない。
「マスタッシュ……? マスタッシュなのか……?」
しかし胸に広がる不安と、一抹の期待。ここまで来て、その期待から目を逸らす事は出来なかった。
奇妙な音の出所を頼りに、グレイスは恐る恐るその場所に近寄ってゆく。岩陰の物音は、彼が一歩近寄るごとに大きくなり、その動きも激しくなった。
胸のざわめきは、冷えにも似た痛みへと変わった。
ただ不思議とその音からは危害を感じず、むしろ残酷な憂いばかりを誘う。
奇妙な行動を繰り返すその何かと、ゆっくりとだが、確実に距離を詰めてゆくグレイス。
そしてグレイスは、声を失った。
それはほんの近くの岩陰で、息を潜めていた。
「父さん!」
大地の裂け目より這い出した少年は、開口一番、そう叫んだ。
やはりというべきか、グレイスから返る声はなかった。すでにこの辺りにはいないのだろう。少年なりに淡い期待を抱いての行為だったが、その目論見は早くも崩れ去った。見渡す限りの荒野に人影はなく、圧倒的な孤独感に少年の心は今にも押し潰されそうになってしまう。
やはりあの書き置きを守り、穴倉の中で待っているべきだっただろうか。不意にそんな後悔が少年の脳裏をかすめたが、しかし少年は、もう戻ろうとはしなかった。
今はそれ以上に、グレイスの身が案じられたから。
早くしなければ、取り返しのつかない事になる。夢で見た予感が少年の心を駆り立てている。
だが、逸る気持ちとは裏腹に、グレイスを探し出すための方策はまるで浮かんでは来なかった。何しろ手がかりがまったくないのだから、地平一帯に広がる荒野を前に、しばし途方に暮れるしかない。
だが何も行動しなければ、それは地上にいても穴に潜っているのと同じ事だった。
しばらくして少年は、おもむろにその場から歩き出した。
何か明確な意図がある足取りではなかったが、とりあえずは穴を中心に、うろうろと行動範囲を広げてゆく案で考えはまとまったらしい。それならば現在地を見失う事もないし、何もしないでいるよりはずっといいという判断だろう。一周、二周と回るごとに少年の歩く半径が広がってゆく。
「あれは……」
そして次第にもといた穴も見えなくなってきた頃、少年の瞳は何かを捉えていた。
草木もまばらな灰色の地面に、場違いな色合いを放つ何かが転がっている。
目に痛いほどの──朱だ。
その何かは、色の無い世界であまりに眩しく、少年の興味を惹いた。
まるで不思議な力に吸い込まれるように少年は導かれ、けれどそれに触れられるかどうかの位置に近付いてなお、その正体は分からないままだった。
思わず小首を傾げ、少年は骨張った指を口元に添えて言う。
「何……だろう……」
だが、一つだけ少年に理解出来た事。
それは、その鮮烈な朱が生物の血であるという事だった。
大人の手の平程度の大きさの、赤い光沢を放つ、血に塗れた何か。
何かの肉の断片か、あるいは臓物の類か。まだてらてらと生々しいそれは、放置されてからそう時間が経過していない事を物語っている。
しかしながら、さっそくにも肉の腐る臭いを察知したのか、周囲には何匹もの蠅が群がり、彼らは踊るように血肉の上を飛び回っている。虫たちの奏でる羽音がやけに耳障りでならない。
だが奇妙にもそれは、物言わぬ肉塊の自己主張のようにも少年には感じられた。
我が身を犠牲に虫を介し、血肉は少年に何を訴えたいのか──。
「……気持ちが悪い」
いずれにしても、あまり見ていたい光景ではなかった。
少年も肉は好んで食べるが、ずたずたになった生物の残滓など好んで見るものではない。けれども、見るんじゃなかったという後悔と同時に、見なければならなかった──そんな義務のようなものも、不思議と胸に感じていた。
「そうだ、父さんを探さなくちゃ」
やがて本来の目的を思い出す少年。
肉隗から数歩後退ると、少年は逃げるように踵を返した。
すると奇妙な事に、血肉に群がっていた蠅たちが一斉に騒ぎ出した。あるものは少年の鼻先をかすめ、身体に纏わり付き、あるものはその耳に侵入しようと不快な羽音を響かせる。
少年はそんな虫たちを両手で払い除け、目を閉じてその場を駆け出した。
何も考えないように努め、薄気味の悪い光景を早く記憶から消し去ろうとする。
もう二度とこの場所に近寄るつもりはなかった。少年を追う蠅の群れも、やがてその行為を諦めたのか、腐敗を待つばかりの肉塊へと戻ってゆく。
その刹那、少年の目の前を小さな雪のようなものが舞い落ちていった。
風にさらわれ、すぐに少年の視界から消えたひとひらの雪。だがそれは地面に着地するその間際まで、少年を追うという行為を諦めはしなかった。
地に吸われ、わずかな旅路を終えるその雪。
少年はそんな雪に──白い雪に、気付いただろうか。
──天空の死神。
低く垂れ込めた暗雲は、山々に吹き荒れる風にさらわれ、渦巻き、様々に形を変化させる。
時にそれは天空をのたうつ大蛇のようであったり、黒衣を纏った骸骨の輪郭であったり──そしていまこの瞬間においてはその後者が、この茫漠たる不浄の空を席巻していた。まさに、天空の死神だ。
この世の破滅を司る、冥府の王。
それは天に悠々と身を横たえた、あまりに巨大な死神だった。
降り注ぐ太陽の恵み、大地に広がる様々な色彩、そして人々の生きる糧。あるべき恵みは一つとして、黒衣の下には届かない。決して晴れる事のない暗雲は、地べたで這い回る弱者を嘲笑うかのように、彼らの頭上で今日も蠢く。
そう──次は誰が飢え、苦しみ、嘆き、絶望の中で死んでゆくのか。
死神は、そんな光景を手ぐすね引いて待ち望んでいる。
いま彼らの運命は、望まれし道からずれ始めていた。
人々らの意思で変えた、二人の運命。小さき運命。
だが儚くも運命は、再びその輪郭を変え始めている。
彼らは、止まってしまったのだ。彼らは、振り向いてしまったのだ。
──そして見てしまったのだ。
自らの運命を大きく変える、見てはならないものの存在を。
彼らが歩むその道には、果たして何が待ち受けるのか。
その道の先──いつしかそこは、完全な暗闇となっていた。
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