第一〇話 喜劇は悲しみに満ちて

 グレイスは、我が目を疑わずにはおれなかった。

 たとえ現実だと分かっていても、その凄惨な光景から目を背けずにはいられない。

 いや、認めたくない。

 それは到底、認められるようなものではなかった。

「マス、タッシュ……なのか」

 彼は笑っていた。

 再会した友へ形ばかりの笑顔を張り付かせながら。

「へ……へへ。お前とはもう、会うつもりはなかったんだがな」

 仰向けの体勢のまま、そう告げる。口角の両端から流れた血の痕が、まるで腹話術に用いる人形のような滑稽さを彼の表情に描き出していたが、それは肉体への損傷が臓器にまで及んでいる事の証だろう。

 何しろその人形は、すでに

 両手両足が、悪戯好きな子供の玩具のようにもぎ取られてしまっている。

 そしてその人形は動く事すら叶わず、ただこの場所でごみのように打ち捨てられていた。

「……逃げようとしたのか。そんなになってまで」

 地面には、彼が必死でもがいたらしき血の跡が奇妙な痕跡を描いていた。

 彼は最後まで逃げようとしたのだ。グレイスに逢うべきではないと判断して。手足もなく、仰向けの状態から脱する事すら出来ぬまま、逃げようとした。

 グレイスの瞳から涙の筋がいくつもこぼれ落ちる。

「何故だ、マスタッシュ……ッ!」

 グレイスはそんな彼を抱きかかえ、心に任せて咽び哭いた。

 もはやはばかるものは何一つなかった。あまりにも変わり果ててしまった友の姿を前に、この涙さえ抑制するのなら自分がどうにかなってしまいそうだった。

「こんな芋虫みてえな身体にしやがって。こっちも、泣けてくるぜ」

 マスタッシュは精一杯の強がりを言い、グレイスを宥めようとする。

 だが何を取り繕ったところで、その涙を止める術などないだろう。

 グレイスは親友の厚い胸元でただ我武者羅に声を上げた。

「このくそ頑丈な身体が憎らしいぜ。満足に死ぬ事も出来ねえで、こうしてお前に逢っちまった」

 今はなき手でグレイスの身体に触れようとするマスタッシュ。しかし肘から先が、何かすごい力で引き千切られた様子で、そこにあるべき腕はない。そこから先は白い骨と筋肉の筋、伸びた腱と幾つかの血管が出ているだけで、腕の輪郭さえとうに失われている。血管から噴き出た僅かな飛沫をグレイスの頬へ飛ばしただけで、彼の行動は終わりを見た。

 壊れた人形に、友に触れるだけの自由は残されていなかった。

「どうして……何故お前がこんな目に」

「敵の大将を、一撃しちまったからさ」

 マスタッシュは、事もなげにそう告げた。

 それからグレイスの周囲に少年の姿を探し、辺りの様子を窺う。まだ幼いあの少年に、今の自分の姿を見せたくはないのだろう。

「坊主は?」

「心配ない。穴倉に待たせてある」

 そんな短い会話の後、二人はしばらく押し黙った。

 グレイスは、あまりに破壊された友の姿を見て。

 マスタッシュは、永遠の別れを告げたはずの旧友を見て。

 彼らに残された時間は、もうあまり多くはない。誰に促されるでもなくマスタッシュはその口を開いた。

「さてな、どこから話そうか──」

 彼は伝えなければならない。この場所で何があったのかを。

 彼にはそれを話す権利が、そしてグレイスにはそれを聞く義務がある。

 しかしマスタッシュがこれほどの姿になるまでの経緯は、覚悟を持った人間でさえ怖気を震わせる内容となるだろう。手始めに告げられた村の状況──それすらもグレイスは息を呑まずにはいられなかった。

「あれから俺たちは、ウェインを先頭に大急ぎで村へと向かった。だが村はもぬけの殻だ。あるいは皆で逃げ延びてくれたのかとも思ったが、抵抗した人間や動けない病人の死体だけは黒焦げになって転がっていた。着くのが、遅すぎたんだ」

 グレイスは血を吹かんばかりに歯を食い縛った。

 その日、村で待っていた者は、女と子供、飢えと病で衰弱して狩りの出来なくなった男たちだった。中には母として、子を守ろうと立ち塞がった女もいただろう。痩せ細ったその身で抵抗した男も。

 しかしそれらは皆、あの業火に焼かれて死んだというのか。

「だから俺たちは必死で来た道を引き返したんだ。だってそうだろう、殺された人間の数からして、残りは連中に連れて行かれたに違いねえ。奴らが山を下りたら手遅れになっちまう」

「それで、ここまでやって来たのか」

「ああ。そして俺たちは、村人を連行するエクセリア騎士団を発見した」

「エクセリア、騎士団」

 途端、グレイスの顔に驚愕が滲んだ。

「──だとッ!」

 信じられないとばかりその目を見開き、事態の深刻さに声を荒げる。

 つまるところ、今まで聖戦などというものは一部エクセリア貴族の道楽でしかなかった。大国エクセリアの繁栄に追われ、辺境の地へ追いやられたギルディア人を狐代わりに狩猟する戯れ。それが彼らの言うだ。

 一方的な殺戮を、聖なる戦と謳う無法の饗宴。グレイスらを襲った六年前の悲劇もその時の聖戦によるものに他ならない。貧しくも慎ましく暮らしていた彼らの村が突如として地獄の炎に包まれた光景は、今もグレイスの脳裏に激しく焼き付いている。

 過去経験した事もないような狂気の暴風──彼らの村は戦慄に震えた。

 平民上がりの私兵を引き連れて、誇らしげに村人の前へ姿を現したエクセリアの貴族たち。怯えた目でそれを見る村人と何ら言葉を交わす間もなく、彼らはまるで競技のように家々に火を放ち、無慈悲極まる殺戮を開始した。

 人々を追い立て、逃げ遅れた者から順に殺して回る。そこには一片の人間性もなく、村人の半数以上が殺され、結果として村は壊滅的な被害を被った。

 明滅する落雷のように、グレイスの脳裏で当時の惨劇が甦る。

 逃げ惑い、累々と積み上げられてゆく村人たちの死体。貴族の槍の一突きによって動かぬ肉塊へと変えられたマスタッシュの幼子。貴族の私兵たちに代わる代わる犯され、自ら舌を噛み切り息を引き取ったの妻。そして死と混沌に覆われた村で、まだ生ある者は恐怖に任せ、ただ目の前の惨劇から逃げ出すしかなかった。

 その時、少年はまだ一歳にも満たなかったろう。当時の記憶はないはずだ。少年はグレイスの胸に抱かれて死地を逃げ延び、同時に母親の記憶も失った。

 皆が皆、多くのものをあの業火の中に失った。

 そして傷心に打ちひしがれた村人らは山を上り、更に過酷な環境へと住み処を移した。これまで決して人の立ち入る事のなかった、魔物どもが巣食う辺境の大地へと。

 だが──そこにさえエクセリアの手が伸びた。

 いやむしろそうなる事は心のどこかでは予想していたのかもしれない。

 近年エクセリアの聖戦は加熱の一途を辿り、各地の村を蹂躙していると聞く。

 どこまで逃げても、追ってくる。それはある種の諦観にも似た、希望なき覚悟のようなものだった。

 しかし無情の現実は、その諦観さえ許さぬ絶望を求めている。

 エクセリア騎士団──果たして彼の国のまでが動くとは、誰が想像し得ただろう。それはつまりエクセリアという国自体が、聖戦を求めて動き出したという事だ。

 貴族たちの道楽であったはずの聖戦が、国事へと昇華した。

 ギルディア人は、辺境の少数民族から虐げるべき人種へと、この六年の間に変貌を遂げたのだ。

「……狂っている」

 信じられないとばかり、グレイスはそう呟いた。

 騎士団の派遣が意味する答えは一つしかない。

 つまりエクセリアという国自身が、羊を求めたのだ。生贄の羊を。

 人は生まれながらに闘争本能を持っている。そして暗く歪んだ感情も。秩序の名の下に、理性がそれを制してくれているうちはまだいい。だが慢性的に押さえられた負は行き場を失くし、やがて臨界を迎えて爆発する。

 光あるところ影もあるのは世の理だ。どちらかがなくしてはどちらも成り立たず、万物は相反する二つの側面によってのみ存在を許されている。

 人は誰かと争わずにはいられない。

 人は誰かを傷つけずにはいられない。

 仮に一つの国が永遠の安寧を求めるならば、人々が永劫に憎むべき相手が必要なのだ。そして彼の国の澱を一手に引き受ける相手──。

 それはギルディア人に、決定した。

「我々に、死ねと言うのか」

 絶望という感情を具現化したような、低い声。

 グレイスがすべてを理解したのを見届けて、マスタッシュが小さく頷く。

「……あれは、夜が完全に明け切る前の事だ。俺たちは連中の野営に襲いかかった。それぞれの大切なものを、守るためにな」

 グレイスにとってこれ以降の話は、もはや聞くに堪えないものだった。

 腕の中で横たわる友の姿こそがすべての答えだろう。失敗したと分かっている決死劇ほど残酷な話もない。

 だが、耳を塞ぐ事は出来ない。

 友の最後の戦いを、グレイスは受け止めねばならない。

「とはいえ、俺たちは丸腰だ。まずは相手の武器を奪う事から始めなきゃなんねえ。最初に向かっていった俺や、ほかの連中は、奇襲の効果もあって何とかそれに成功したんだ。暗がりに紛れて何人か、力任せにぶった切ってやったぜ」

 自らの戦果を誇らしげに語るマスタッシュ。

 だがその表情は、すぐに曇る事となった。

「けど……相手は騎士団だ、統率が取れてやがる。出遅れた連中は、完全に、奴らの餌食だったよ」

 絶望的な襲撃の果てに、次々と命を散らす村人らの姿が脳裏に思い浮かぶ。

 慣れない戦いに、きっと恐怖しただろう。逃げ出したい者もいただろう。

 だが彼らは自らを奮い立たせ、挑んだ。

 丸腰のまま、武装した正規の軍隊へと。

 その勇気がいかほどのものか、戦って散った彼ら以外にそれを知る術はない。

「俺は、連中の指揮を奪うために、大将を狙ったんだ。そしたらどうだ、敵から奪い取った槍で横殴りにしたら……あはッ、あの野郎ッ! 馬からすっ転んで落ちやがった! ガフーッ! こいつは傑作だった! グレイス、泡を吹いた奴の顔を、お前にも見せてやりたかった!」

 自らも血の泡を吹き出し、壮絶な笑顔を見せるマスタッシュ。

 もはや喋る事すらままならないだろうに、彼はその行為を止めようとしない。自らの挙げた精一杯の戦果をグレイスに知らせたいのだろう。

 しかし間もなく、話は尽きたようだった。

「──ハハ、ハ……でも、そこまでだ。後ろから何人かに捕まっちまって、結局は俺もこのざまだ」

 そして目を背けたくなるような身体を、グレイスに見せる。

 肉がずたずたに引き裂けた腕の断面。一体何をどうすればこうなるのかなど考えたくもなかった。

だとよ。罪人の手足を縄で縛って、あとは一斉に馬で引く。すると切り込みを入れた部分からぶちっと切れる寸法よ」

 マスタッシュは引きつった笑顔を浮かべながら、淡々とその刑を説明した。

 あくまで第三者的な口調で、仕組みだけを要約してみせる。

(これが同じ人間のやる事か……!)

 あまりに残酷過ぎる友への仕打ちに、グレイスは呪いの言葉を胸に囁かずにはいられなかった。心中で黒い何かがさざめき立つ。

 この刑の酷刑とされるところは、必ずしもすぐに死ねる刑とは限らないという事だ。手足が吹き飛んだ瞬間に絶命する者もいるが、強い人間は生き残る。結果として出血多量で死ぬものの、問題なのはそれまでの間だ。

 この刑の恐怖はにこそある。

 千切られた手足にすでに痛みはない。しかし不思議と鮮明な意識には、自分の身体、いま置かれている状況などが刻々と伝達され、死への恐怖を募らせる。けれど身動きの出来ぬ身体はあらゆる対処の術を失っており、たとえ鳥獣に腹を食い破られたとしても、鮮明な意識のままそれに耐えねばならないのだ。ひとたび死ぬ機会を逃したら、死の直前まで罪人の意識が飛ぶ事はない。

 死ねない、死への恐怖。

 無限とも思える悔恨の中、罪人は自らの死と向き合い続ける事となる。

「騎士を殺したほかの連中も、それぞれ捕らえられた後、殺されたよ。ありゃあ……なぶり殺しなんてもんじゃねえ。一人の人間を取り囲んで、どうでもいい場所から刺していくんだ。どれだけ悲鳴を上げても慈悲はねえ。ひでえもんさ、身体中から血を流してても、まだ生きてるんだ。身体中を削がれても、まだ……」

 すると、そう説明したマスタッシュがぶるっと身体を震わせた。

 その凄惨な記憶は、四肢を奪われたマスタッシュでさえ身震いさせる。それがどれほど常軌を逸した光景であったか、グレイスには想像すら及ばなかった。

「グレイス、気をつけろよ。こいつは前の聖戦ですらねえ。何もかもがおかしくなっちまってる。それに──」

 マスタッシュは不意に真顔になると、グレイスの目を見つめ、言った。

「お前はもう、犯しちゃならねえはずの間違いを犯してる」

「よしてくれ! これが間違い──」

「振り返るなと言ったはずだ、馬鹿野郎!」

 グレイスの抗議も聞かずにそれを一喝するマスタッシュ。

 途端、彼は巨体を揺らしてむせ返ると、驚くほどの吐血をした。

 ひどく内臓をやられているのだろう。見れば、彼の下半身からは腸らしきものがだらしなく一本伸びている。それは彼が懸命に身を隠そうとした苦悶の跡だろう。

 グレイスは自らを罰するように唇に歯を突き立て、それから目を逸らした。

「……お前は、この腐った運命を抜け出すんだ。あの坊主と、一緒に」

「それは約束する。だがその前に、お前を──」

「こんな状態だからこそな」

 マスタッシュの力ない自嘲がグレイスの声を弱く遮る。

「お前に見られたくは、なかったんだぜ」

 その消え入りそうな呟きに、グレイスはただ言葉をなくして沈黙するしかない。

 それが彼の、友としての本音なのだろうか。

 その声は無情に満ちた、あまりにも悲しい声色だった。

「……だが、もういいか? こんなみっともねえ姿を、見られついでだ」

 するとマスタッシュは、やがて何かを決した風にその視線を弱く落とした。それまでの叱りつけるような態度から一変し、躊躇いがちにもその声は、グレイスの存在を静かに求めているように感じられる。

 だとすれば、それを断る理由はグレイスにはなかった。

 友として気丈に振る舞うマスタッシュだが、いかに無理をしているか分からないグレイスではない。無言の了解を確認したのか、マスタッシュの顔から張っていた気が徐々に抜け落ちてゆく。

「ハ……怖ぇえもんだな、グレイス。こんな俺でも、死ぬって事が怖えよ」

 そして彼の喉からは、押し殺したような嗚咽が漏れ始めた。

 瞳に溢れる大粒の涙を、ずっと堪えていたのだろう。彼の顔はあっという間にぐしゃぐしゃになり、死の恐怖に取り憑かれた男は喘ぐように声を荒げた。

「さ、寒いんだ。もう夜なのか、グレイス」

「マスタッシュ──」

 そこでグレイスは初めて、すでに彼が盲目と化している事に気が付いた。

 よく見ればその目はひどく濁り、焦点がまるで合っていない。

 マスタッシュは光の飛沫さえも存在しない暗闇の中で、動かぬ身体と寒さに耐え、それでも友としてグレイスと接していたというのか。それでもなおグレイスから逃げ、たった一人、その傷ついた死を迎えようとしていたのか。

「どうしてなんだ、マスタッシュ……!」

 グレイスの瞳からも、いつしか熱い涙がぽろぽろと溢れ始めていた。もはやそれを止める術などないだろう。

 グレイスから見るマスタッシュは、まさに自分とは正反対の人間だった。

 グレイスが静ならば、彼は動。けれども不思議と馬が合い、大雑把過ぎる彼の振る舞いに対し、グレイスは時に苦笑しながらも、彼の足りない部分をうまく補ってやってきた。粗野な彼を、そうして支えてきた

 しかしそうではない。そうではないのだ。

 それは単に彼が自らが、それを演じていただけに過ぎない。

 本当の彼は人一倍繊細で、臆病で、人一倍皆に気を使う人間だったのだろう。

 皆が彼を求めていた。陰鬱な暮らしの些事を歯牙にもかけず、暇さえあれば口の悪い冗談を飛ばす。それが彼の選んだ生き方だった。どれほど辛い環境でも、皆のために一時の空気を作り出せる人間。それがマスタッシュという男だった。

 そしてその男はいま自らの死を前に、初めて赤裸々な本性を晒け出している。

 そうして泣き濡れる彼の姿を、一体誰が咎める事が出来よう。

 いま彼に必要なものはただ、最後の安らぎだった。

「マスタッシュ、もういい! もう無理をしなくていいんだ!」

「おい……グレイス? 聞いてるのか?」

「マス──」

 いま、彼は聴力という感覚までも失った。

「……グレイス? グレイス、返事をしてくれ、グレイス!」

「馬鹿を言うな、ここにいるッ! 分からないのか、マスタッシュッ!」

 マスタッシュは千切れた四肢をばたつかせ、己の存在をグレイスに伝えるべく必死になっている。

 その脳裏で彼は、孤独の暗闇と闘っているのだろう。腕の中でもがき苦しむマスタッシュには、すでに身体の感覚すらもない。グレイスはありったけの涙を振り絞りながら絶叫していた。

「ふざけるな、私がお前を置いて行くわけがないだろう! 自分は与えるだけ与えておいて、私には最後の機会すらお前は与えてくれないのかッ!」

 口から大量の血を吐き出しながら、マスタッシュはごぼごぼと溺れるように友の名を呼び続けている。

 これだけ近くにいても、互いの意思を伝える事の出来ないもどかしさ。

 グレイスは我が身を呪う他なかった。ただただ号泣しながら、悔しさ、歯がゆさで気が狂いそうになる。

「グ……レイス……。もう、行ったのか?」

 マスタッシュは悲しげな表情で、そう呟き、笑った。

 ここにいる! 何度心でそう叫んでも、その想いを伝えられない。

「そう、だったな。お前にも、守るべきものがある。それでいい……」

 マスタッシュはグレイスの腕の中で、ただ一人最後の時を迎えようとしていた。

 身体の震えは一段と強さを増し、徐々に痙攣を併発して彼の命を削いでゆく。

「だけど……お前は馬鹿だよ、グレイス」

 マスタッシュが、不意に何かを思い出したのか愉快そうに笑った。

「坊主に食い物を食わせたいなら、俺の分を、いくらだってくれてやるさ。それともお前は、俺が坊主の分まで食っちまうと思ったのか……?」

 きっと彼は、姿を消したグレイスを脳裏に思い浮かべ、最後の言葉を交わしているのだろう。彼が思い描くグレイスは、笑っているだろうか──笑えているだろうか。

 涙が止まらない。呼吸さえもおぼつかず、ただ遠い目をした友を抱く。

 あれだけ大きかった友の身体は、今やこんなにも小さかった。

「とにかく俺も……これでやっと、息子の所へ行ける。お前んとこの奥さんにも、挨拶に行くよ。元気にしてくれていると……いい」

「マスタッシュッ! もういい、耐えられないッ! 私を許してくれッ!」

 グレイスは叫んだ。

 何をどう叫んだかもあやふやだ。人はこれほど涙を流せるらしい。

 自分がこの友をいかに大切に想っていたのか、そしてそれ以上にこの友が、一体どれほど自分を想ってくれていたのか、それが最期となってよく分かる。

 マスタッシュは死の間際になっても、グレイスの名を語る口を決して閉ざそうとはしなかった。最期のその火が消えるまで、彼はグレイスと共にあろうとしている。

 だからこそ、そんな友の語る言葉一つ一つが胸を抉った。

 自分には彼の言葉を受け止める資格など、これっぽっちもないというのに。

 呪わしいほど自分が浅ましく、汚らわしく、情けない。

「優しさは、人の生きる糧となる。お前が……俺に教えてくれた事だ」

 最も近く、最も遠い世界に身を置く彼ら。悲しくも、その接点が交わる事は二度とない。そして互いに存在を確認出来ないちぐはぐな会話も、やがて終わりの時を迎える事となる。

 死神の鎌は、太い友の首へとあてがわれた。

「でも……残念だ。世の中は、お前の優しさだけじゃ、回らねえんだ。温かみを分からねえ人間は、簡単……それを、壊しちまう。悔しいな、グレ……イス」

 マスタッシュの声は、もはや聞き取る事も出来ないくらいになっている。

 限界の時だ。あまり幸せだとは言えなかった友の生涯が、いま終わる。

「俺は、人の糧に、なれたか……? お前の」

 グレイスは声の限りに叫んだ。単なる奇声か、それとも絶叫か。

 ただ、最後の最後で明かしてくれたマスタッシュの本心に、そしてそれに答えられなかった自分が殺したいほどに憎かった。

 誰からでもいい、どんな戒めでもいい。ただあの時の、たった一言の嘘を取り消せるのであれば、グレイスは自由にその身を裁かれよう。

「糧──」

 マスタッシュは最後、何かを言いかけたと思うと、そのまま命を終えた。

 見開いていた瞳が閉じられ、安らかな眠りへ魂が没してゆく。

 長い長い苦痛と恐怖に耐え、彼はやっと楽園へ辿り着いたのだ。

 彼の求めた答えは、最期まで聞き届けられる事はなかったが。

「────────ッ!」

 グレイスは真っ赤に腫らした瞳をそのままに、あまりにも傷ついた友の亡骸を掻き抱いた。

 これが、我らに架せられた運命なのか。

 これが、苦楽を共に歩んできた友のその生涯だったのか。

 あまりにも惨い。彼がこの運命のもとに生まれてきたなどと、断じて認められるものではない。一体誰が、こんな風にした──!

(マスタッシュを殺したのは──!)

 そしてグレイスは俯いたまま、その場に立ち上がった。

 動かなくなった友の亡骸はそのままに、行動を開始する。

 このまま絶望に打ちひしがれているわけにはいかない。まだ彼には守らなければならない、最後の希望が残されているから。

 だから彼は、風のように走った。一体どこにそんな力が残されていたのか、何よりも早く走った。自らが帰るべき場所を目指し、ただひたすら、風のように。

 しかしその場所に、目指したはずの少年はいなかった。

 何故なら運命は変わってしまったから。

 そして彼は、身を切り裂くほどの絶望を味わう事になる。

 かけがえのない友のために払った代償。

 それはあまりにも、大きかった。

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