第三話 不浄の女神
バリスティック大陸の最北端に位置する辺境の大地、ギルディア。
この土地が〈不浄の大地〉と呼ばれるようになって、どれほど時が流れただろう。
垂れ込めた暗雲に太陽の光を遮断され、昼でも薄暗い単一色に染められた景色は、いまだ混沌とした神々の創造の最中にあるようで、ひどく現実味がない。まさに世界の果てとも言うべき荒涼とした大地には枯れ果てた木々が閑散と立ち並ぶだけで、遠近感が馬鹿になるほど代わり映えのしない世界が地の果てまで広がっている。
極度に乾燥した大地では植物は育たず、その場所ではどんな希望の芽さえ息吹きはしない。全てが死に絶えたまま、悲しみの中で永遠の時を巡らせる、停滞した世界──それがここ、ギルディアだった。
そして古くからこの土地に根付く、〈魔物〉と称される異形の住人たち。
そんな彼らの存在が、この土地を不浄とさせている一因でもある。
気が遠くなるほどの歴史を越え、いまなお対立を続ける人と魔族。その過去には、魔の眷属らがこの大陸を支配していた時代もあっただろう。魔物は我がもの顔で人間を餌とし、人はただ己の無力さに打ちひしがれながら、息を潜めた暗がりで明日の生を祈るばかりの日々もあった。
しかし力なき人間は知恵を重ね、徒党を組み、いつしか魔物の力に対抗する術を見出していた。そして文明を築き上げた人間は、統制された軍隊を組織し、敵対する魔族の徹底排除に乗り出してゆく。大陸の各地で大規模な魔物狩りが始まったのはその頃からだ。
そう、一切の慈悲なき種の浄化だ。
たとえ害なき相手でも、それが魔の者である限り、根絶やしにするまでその戦いは終わらない。
やがて人が種の繁栄を極め、支配者としての磐石を築き終えた頃、全盛の時代を終えた魔族の姿は、いつしかこの大陸から消えていた。いまや絶滅を免れた少数の魔物たちは、人の手に追われるように北の辺境へと落ち延び、細々とその最期の種を繋ぎ止めているのみである。
人の寿命は、短い。これら伝承の詳しくを知る者はもはやこの世に残されてはいないが、しかし歴史を知らせる一つの逸話によるならば、現在のこの大陸における二つの勢力の分布図は、こうして決定されたと云う。
しかし──。
そんな魔族ども住まう北の大地に、人間から迫害されるようになった人間が住み着いたのは、いつの頃からだろう。それはごく当たり前な成り行きのようで、物事の境界もなく、誰の記憶にも残らないほどひどく不確かな始まりだった。
奇妙な事に、元々は一つだったものが、何かをきっかけとして、互いの関係に線を引いた。長い歴史の中で人は種族を分かち、互いを忌み嫌うようになっていた。
それが現在に至る、エクセリア人とギルディア人の始まりだ。
その始まりは本当に些細な、取るに足らない出来事がきっかけだったのかも知れない。
力の優劣や醜美、持てる者と持たざる者──人は決して平等ではなく、人が集まればその数だけ差異が生まれ、後ろ暗い感情がその穴埋めをする。どこから滲みだした人の澱は、妬みや偏見を生み出し、それは次第に強き偏執、明確な差別へと移り変わってゆく。やがて彼らの暮らす文明の中に階級が生じると、自然とその最底辺に立たされる人々が現れた。
それがのちのギルディア人だ。
彼らへの迫害は、もはや日常の一部ですらあった。
公然と彼らの権利は剥奪され、身を守る事すら処罰された。一方的な迫害は加熱の一途を辿り、その結果ギルディア人となった人々は逃げるように国を離れ、北の荒野へと落ち延びていった。そうしていまその辺境の大地を〈不浄の大地〉と言わしめているのは、ほかならぬギルディア人の存在にこそある。
ゆえにその辺境は、ギルディアと呼ばれた。
人間というものは、良くも悪くも頭が良かった。
三人の人間がいた時に、どうすれば上手くやっていけるかを知っている。
利口な人間は、皆で仲良くしようとは思わない。それでは自己の鬱憤を解消するべき欲望のはけ口がないから。
完全な平等下では、人間はやがて窒息して死んでしまう。
ならば、一体どうすればよいのか。
答えは簡単だ。仲間の中から一人の敵を作ればいい。
それが不当であれ言いがかりであれ、理由は何だっていいだろう。ともかく、二人共通の敵を作るのだ。そうすれば自分には、共通の価値感を持った仲間が出来る。そうやって絶対優位にある側が一人の弱者を嬲っている時、その時こそが最も平和なのだ。生かさず殺さず、日々の不満や鬱屈を一身に引き受けるだけの存在──その一人が耐え切れずに死んでしまった時、その時から静かな戦争は始まってゆく。
けれど賢いもので、二人は激しく内心で互いを罵り合いながらも、決して殺し合いを演じたりはしない。人は一人の孤独には耐えられないから。傷つける相手が誰もいなくなった時、人は自分を傷つけ始める。
だから、待つのだ。新たな生贄が現れる日を。
そしてにこやかに次の三人目を迎え入れた時、二人は再び友となる。
つまりは、その繰り返しだ。その繰り返しで、世界というものは成り立っている。
世界を照らす光と影。歴史舞台の表と裏。強き者と弱き者、富める者と喘ぐ者。世の理は二者択一だ。弱肉強食の理の中で、万物はそうして自己の存在を確かめ合って生きている。
無論、人間もその例外ではない。人も万物であるならば、自分の存在を照らし出す、それと相反する存在が不可欠なのだ。そして今はただ、遠い昔に魔族であったものが、ギルディア人という民族の番になっただけに過ぎない。
(──まさしく影だな。エクセリアに栄光を捧げる、影どもの世界か)
足元に横たわる焼死体がふと自分の影に手を伸ばすような格好に見えて、ガイスは思わず足を止めた。
我ながら、ぞっとしない想像だった。先ほどから陰気な考えばかりが頭を掠めて、気分が滅入ってくる。
ギルディアはエクセリアの影ではあるが、そのギルディアの中にもさらに色濃い影はある。その最たる例がこの廃墟だろう。こうして黒焦げになった人間よりは、自分はまだ仄明るい場所に立てているのだと実感するが、だからといって胸に去来するのは空しさだけだ。
それとも遅いか早いかの違いだけで、自分もまたその影の中に半身を埋めているのだろうか?
(あるいは、な)
否定する気にはなれなかった。
影が影の色濃さを論じたところで、栓なき話だ。
──焼き払われたルザルの村。方々を物色しているせいでとうに新鮮味も薄れていたが、陰気な景色は土塊が水を吸うように心を侵食するらしい。いつしか足取りは重くなり、物資の調達も遅々として進まなくなっていた。
目の前の景色は、どこを見てもまるで変化のない光景だった。全てが焼き払われ、等しく崩れ去っている。
かつてこの場所が村だった頃に訪れた事はなかったが、それでもこの村の様子は何度か耳にしていた。ルザルは比較的大きな村だったし、ギルディア中部の平地に位置する場所柄もいい。そのため他の村との交流や物品の交換など、この土地では珍しいくらいに盛んだった。
ゆえに行く先々で聞くルザルの様子は、そのほとんどが明るい話題に満ちていた。
やれどこぞに新しく畑を開いた、遠方の村から入植者がやってきた──少し大袈裟かもしれないが、それはギルディアに見る数少ない希望の光だった。日々拡大を知らせる村の様子は人々の活気をありありと伝えていたし、そうした噂に導かれ、この場所ならと一縷の望みを託してやってきた者も多かったろう。
結果としては、それがエクセリアの聖戦をも招く災いとなってしまったが。
だがそう──すべては栓なき話だ。何もかもが過去の話でしかない。
いまここにあるのは、かつて話に聞いていたあの村の成れの果てだ。
(暇になったものだ。訪れた事もない村に、感傷を覚えるとは)
ガイスは知らず、自嘲めいた笑みをその口元に滲ませていた。
焼け落ちた家屋の跡や、黒々とうずくまる大小の骸。その場所にかつての賑わいは見る影もないが、それら生きていた頃の様子は不思議とガイスの目に浮かぶ。心の奥底ではガイスもまたその活気にほだされ、まだ見ぬルザルに心を惹かれていたのかもしれない。
それだけに、偶然立ち寄った村でルザルが襲われたと聞いた時、ガイスもその耳を疑った。
にわかには信じられる話ではなかった。いや、信じたくはなかった。
しかし長き旅路を越え、こうしてルザルに足を踏み入れた時、やはりそれが現実なのだと知った。
この焼け落ちた村の姿こそ、ギルディアの現実だ。
すべては蹂躙されるまま、生命の欠片すら残さず滅び去ってゆく。噂に聞いた淡き希望も、ここでは白昼夢とも変わらない、ひどく不確かで輪郭のない幻想でしかなかった。ふと目を覚ませば──その存在さえも忘れているほどに。
ギルディアの希望など、一瞬の火の粉にも等しい幻想なのだ。
ただ風が吹くだけで燃え尽き、目に痛い輝きだけを残して目の前から消えてしまう。熱もなければ、わざわざ手を伸ばすまでもない。
確かな事は、すでにルザルはこの世から消えたという事。
一晩にして、火の粉の輝きの中に散った。
そしてここ中央部に暮らす人々の生活も、これを機に一段と厳しいものになる。
地域の拠点だったルザルが滅びた以上、ルザルを頼って存在していた他の村々も遠からず滅びの運命にある。近隣の交易は途絶え、物資は滞り、人々は終わりなき聖戦の影に怯えてまた山を登る事になる。
「……この辺りからも、また村がなくなってゆく」
ここ数年は聖戦が頻発し、いくつもの村がルザルと同様の運命を辿った。そうした村の残骸を漁り、食い扶持を繋いでいるガイスとしては良し悪しといったところだが──しかし、やりすぎにも困る。
村の再建など一朝一夕で出来るものではないし、近頃はエクセリアの目に留まる事を恐れ、部落のような形態を取る村も増えている。あまりに規模が小ければ見入りも期待出来ず、発見も難しい。加えて残存する村々との間隔も開く一方で、こんな状況ではいずれ旅の物資も覚束なくなるのは目に見えている。
見上げる先の未来は、いつも暗い。
(クレイゾールの方は、何か見つけただろうか)
そんな事を考えながら、ガイスは再び廃墟を歩き出した。
この村に腰を据える限り、当面食料の心配は要らないが、旅の蓄えは必要だ。この焼け跡から出来る限りの物資を探し出し、それを今後の旅路に当てる。根無し草も楽ではなく、手持ちの食料が尽きてしまえば、持って一週間がせいぜいだろう。帰る村でもあれば話は別だが──ないものねだりでどうにかなる問題でもない。
そんなもの、とうの昔に失われている。
待つ人はなく、誰からも差し伸べられる手はない。この茫漠たる灰色の地平こそがガイスの生きるすべてであり、この放浪をやめた瞬間、ガイスを待つのは孤独な死だけだろう。
だがそれも、分相応の死に様だ。 何しろガイスは、エクセリアによって生かされているのだから。
聖戦があるから、今日を生きられる。
死した同胞の血を啜り、日々を生き長らえている。
それは死肉を食らう卑しき野犬のように。
ぐずりと、何かを踏みつけた。
柱かと思えば、また黒焦げの腕を踏みつけていた。舌打ちが漏れる。
(──こんな生に、生きる価値などあるのか)
何のために生きるのか、ではない。
何故生きているのか──ガイスはいまこの瞬間の生を、折につけ自問する。それは決まって心が滅入っている時だ。今もそうだろう。
今朝も早くからクレイゾールと物漁りに励んでいるが、たいした成果は上がっていない。焼け方が激しすぎて大半の物が原型を失っているのだ。
彼らは浄化のためか、聖戦の終わりには決まって火を放つ。中には全焼せずに残った村もあるが、ルザルの場合は特によく燃えたようだ。このままろくに収穫もなく日が沈もうものなら、今日一日は徒労に終わるだろう。
無駄に一日を生き、無駄に一日が終わる──。
何故、生きるのか?
またぞろ疑問が頭をもたげてきた。
(知るものか)
しかし答えも、いつも決まっていた。
分からない。生きる目的など、どこを探したって見つかりはしなかった。
それとも死ぬ目的がないから、自分はこんな畜生にも劣る行為を続けているのか?
ガイスは頭を振り、それ以上の問答を意識して振り切った。考えるだけ無駄な事だ。考えれば考えるほど、あまりに意味のない生に、息をする事さえ面倒になってくる。絶望などはいまあるだけで沢山だろう。
(ともかく、日没まではあと少しだ。あまり気は乗らないが、それまでは村を見て回った方がいい。その後は──)
一瞬の思考と共に、さっと風景を一望するガイス。
するとガイスの視線は、そこであるものに向けられる事となった。
思うにそこは、村人の集会などに使われた広場のようなものだろうか。
一面丸く開けた場所があり、そこには元々何もなかったせいか、地面にも焼け焦げた形跡があまりない。広場では殺戮も行われていなかったのか、民家のある路地の方がよほど死体が転がっていた。
不思議と綺麗なものだ。まるでそこだけ切り取られた別世界のような。
けれどガイスの注意を引いたのは、その広場ではない。
ぽっかりと開いた空間と、そこに転がる小さな人間との奇妙な対比が、知らずガイスの注意を引いていた。
広場と同じく、あまり焼け焦げた様子のないそれは、背を丸めた格好で地面に倒れている。
──少年だろうか。
それはこの村で見る初めての黒焦げでない遺体だった。
慎重に距離を取り、油断なく少年へ近寄ってゆくガイス。
無意識にも、乾いた砂を蹴る足音を忍ばせてしまうのは何故だろう。
何を思ってその近くへ足を運ぼうとしているのか、その最中にも、自分の中に明確な答えというものはなかった。それを間近に見た所でどうなるものでもないし、見なければ見ないで済む話だ。事実、その少年へ歩み寄るにつれ、その行為を確実に後悔しつつある自分がいた。
だが、すでにその姿は目前だった。
ここまで来てしまったからには、引き返すだけの意味もない。
ガイスの歩調は緩まりもしなければ、決して早まりもしなかった。そして足元の距離にそれを見下ろせるようになった頃、ガイスの瞳は深く閉じられていた。
ゆっくりと瞼を開き──痛ましく目を細めながら、丸まった人間の姿を見やる。
それはクレイゾールよりも若干歳が上くらいの、まだ幼い少年の姿だった。髪の毛が立つくらいに刈られた頭は直毛の金髪で、後頭部から側頭にかけて焼けた跡はあるものの、その鮮やかさは健在だ。
またクレイゾールと比べ、ずいぶんしっかりした体つきをしている。
きっと運動の活発な子供だったのだろう。残念ながら今は見る影もないが。
あまり焼け焦げた様子のない、というのはまったくの思い違いだった。それは十分過ぎるほどに焼け焦げている。特に両手から二の腕にかけては火傷の痕が酷く、部位全体が赤黒く汚れている。爛れた傷の周辺には爬虫類の皮膚を思わせる水脹れが無数に散らばっていて、よもやそれが人間の肌だったとは思いたくもなかった。
それはこの村で見たどんな焼死体よりも出来損ないで、最も悪戯に、人間としての原型を留めていた。
「……この歳で見世物にされたのか」
知らず、そんな呟きがガイスの口元からこぼれた。
ここが広場であるという事を考えれば、きっとそうだろう。聖戦の最中、この場所に引きずり出され、そして無残にも焼き殺された。この少年がどういった処遇にかけられたのかは定かでないが、この奇妙な死に方からして、何とも目を覆いたくなるような光景だったに違いない。
この歳の子供が、エクセリアの酔狂で死ぬ時代なのだ。
それどころか近年は、聖戦の激化に伴ってエクセリアの残虐性も増しているように感じられる。
慣れは物事の新鮮味を薄れさせ、さならる刺激を人に求めさせる。
嫌な風潮だ。これではこの子供も救われまい。
その後ガイスの視線は少年の後ろ、遠目からでは半ば杭にしか見えなかったものに向けられた。
確かに、焼けた杭ではある。だけれどもそれだけではない。
真っ黒に焼けた人間が杭に括りつけられている。いやすでにその身体を縛る縄は焼失しているが、事切れた人形は、その時の様相をありありと留めたままその場に突っ立っていた。
男か、女か──。
すでに性別さえも分からないほどに焼かれてはいるが、どうやって殺されたのかだけは想像に容易い。
この杭に縛り付けられ、生きたまま、燃やされたのだ。
あんぐりと開かれたその口は、声にならぬ火刑の苦しさを雄弁に物語っている。
あるいは身体を温める薪代わりとして、生きた人間を燃やしたか。くすくすと肩を揺らして火に当たる騎士の姿が目に浮かび、ガイスは努めてその想像を忘れた。
しかしガイスはその際、もう一つの残酷な事実をもその想像に垣間見た。
何故この場所に、こんな奇妙な焼け方をした子供が一人、転がっているのか──。
悲しいかな、その答えもまたこの炭化した杭と繋がっている。
おそらく、彼らは背中合わせで焼かれたのだ。
この少年も、大口を開けた焼死体同様、生きたまま火にかけられた。それ以外に考えられない。
けれどあちらの人間から先に火が回ったため、途中、背後で身体を拘束する縄が焼き切れた。そして完全には焼けないまま、少年はここでうつ伏せに倒れた。
しかし哀れなのは、その縄が切れるのがいささか遅すぎた点だ。
もう少し早ければ、ここまでの惨状にはならなかったろう。全身を突き抜ける激烈な痛みに身悶えしながら、少年はこの場所でうずくまり、息絶えた。
(果たしてこの村に着いた頃なら、まだ息をしていたのか──)
けれどガイスは、己の安易な同情をすぐに思い改めた。
こんな場所で一人生き残ったところで、さしたる未来もあるまい。あの時のクレイゾールを思い起こすたび、この少年はいっそ死ねて救われたのではとさえ思える。
生きる事だけが、物事の幸せではないのだ。
救われぬ世で、死ねる事こそが救いという見方もある。たとえ苦痛の果てに死んだのだとしても、死ねさえすれば、それ以上の苦痛を味わう事はもうないのだから。
それはこの無情の大地で学んだ、ガイスの数少ない教訓の一つでもある。
「……ゥ、う」
だが突然にそんな声が耳に飛び込んできて、ガイスはその場で目を見張った。
まるで死の床の老人が吠えるかのような、低く唸る苦悶の声。すぐにはその声の主が結びつかず、慌てて周囲を見渡すガイスだったが、よくよく考えてみれば探すまでもない事だろう。ただ迂闊だったというだけの話だ。
ガイスは自らの軽率さに舌打ちするとともに、こうも考えなくこの少年に近づいた愚かしさを後悔しながら──それでも意を決し、眼下の異変に目を向けた。
やはり声を発したのは、この火傷の少年だった。
完全には死に切れていなかったらしい。まるで咳き込むように忘れていた呼吸を繰り返し、時折、びくびくと身体を痙攣させている。待ち侘びた人の気配を察知し、息を吹き返したのだろう。
──二度と目を覚まさなければ良かったものを。
ガイスは心の中で、この少年の死を願った。
「た、助け……て……」
やはり、聞こえてくるのはその言葉だった。
この旅の中で何度となく耳にした言葉であり、最も聞きたくもない言葉でもある。
ガイスと出会った人間は、決まってみなその言葉を口にした。確かに考えてみれば当然だ。何しろガイスは、こうして聖戦に襲われた村を巡って旅をしているのだから。ガイスの周りにはそんな人間しかいなかったし、ほかの人間はみな死んでいた。エクセリアの聖戦は、五体満足な人間を残してくれるほど生優しいものではない。
そして不運にも死にきれなかった人間は、それこそ、今にも死にそうな顔をして「助けて」と言う。臓物を地べたに引きずりながら、ガイスの足元へ縋りつき、消え入りそうな声で「助けて」と乞うのだ。
正直、それを聞くだけでも気が滅入る。
酷なようだが、それを救ってやる事は出来ないのだ。
救う者と救われる者──ガイスと彼らにどれほどの違いがあるのかといえば、ただ目の前の死に損ないよりも、少しだけ身体が健全であるという一点くらいだろう。
他人の不幸を拭ってやるゆとりを持ち合わせてはいないし、まともな人間がそもそも聖戦漁りなどするとは思えない。
けれど、どれだけ救いの言葉を無視しても、彼らは縋り寄って来た。
時には男、時には女、時には老人──時には子供。それらすべてを押しのけて、ガイスは彼らに残された財産だけを救って生きてきた。道徳の欠片もないと罵られようが、そんなものが何の役に立つのかと聞き返したい。そうするより手段なかった。
人間一人が満足に生きてゆけないこの世界で、誰が好き好んで死にかけた人間の相手などする? それとも安っぽい良心を道連れに、自分もそこで共倒れになれば良かったのか?
(──いいや、違う)
この旅に半端な気休めなどは邪魔なだけで、糞の役にも立ちはしない。ガイスはいつだって己の弱き心に、そうやって非情の杭を打ちつけてきた。
しかし、だからこそ生きてこられたのだ。自らの心を凍てつかせなければ、この希望なき世界を生き抜く事など出来なかった。その確信に間違いはない。
それどころかむしろ──人が生きるとは、つまりはそういう事ではないのか?
人の道徳心など、煤けた合理性の前では冗談ほどの価値もない。そうして人は年を重ね、黒く穢れてゆくのだ。そして乾燥した日々の中に、人はやがて生きる意味さえ喪失してゆく──。
だが悲しいかな、一方でやはり、人は人を捨てきれない。
人は人としてしか生きられず、どれほど心を閉ざしても、荒れ果てた人間性の中にも自らを嫌悪する瞬間には巡り合う。そしてガイスが最も苦手とする相手こそ、こういった子供の類だった。
だからそういった相手にはなるべく近づかなかった、というのが正直な所だ。
たとえまだ息のある子供が誰かに助けを求めていても、ガイスは絶対に自分から声をかけようとはしなかった。場合によっては、気付かれないよう距離を保ち、子供が死ぬまでの間、何日も待っていた事もある。
息を潜めて朝と夕、それがまだ死んでいない事だけを確かめて、眠りにつく毎日。思い返したくもない。
だがそれでも、子供の声で縋られる事に比べればまだましというものだった。穢れを知らぬ子供の声は、穢れを知った我が身にとって、これ以上ない痛みの声となる。
なのに今回は迂闊にも──それに近づいてしまった。
あれほど苦い思いを経験してきて、いまだ学ばない自分に呆れる。
(あのまま捨て置けばよかったものを──!)
何とも言えぬ苛立ちを隠すように、表情を押し殺すガイス。
返す言葉は、すでに心の中で決まっていた。そして気付かれてしまったからには、それを言うほかない。
「た、助けて。助けて……助けて下さい……!」
「無理だ。お前ほどの悲しき子を砂の数ほど見てきたが、それを救ってやる事は出来ん」
なまじ相手に意識があるだけにバツの悪さはひとしおだった。
すでに少年は完全に意識を取り戻したようで、赤みがかった瞳でガイスを懸命に見上げている。
言葉の意味は、確実に相手にも伝わっているはずだった。
救う気はない。お前はここで死ぬのだと。
だが少年は悲しみに濡れた瞳を、一瞬たりともガイスから離そうとはしない。
ガイスの胸のどこかが、ひりつくような歯痒さに痛んだ。
少年へ告げた死の宣告が、心の奥底で何度も反響して聞こえる。
これならクレイゾールと出会った時の方が、よほど気が楽だったと言っていい。少なくともあの時は、感情のある一人の人間と接している感覚はなかったから。
壊れた人形相手に話していた、という程度の認識しかなかった。
「……さらばだ、悲しき子よ。今は自分の身を守る事だけで精一杯なのだ」
そして同時に、酷なようだが、戦慄の度合いで言えば、やはりクレイゾールに勝るものはなかった。
この少年の姿に同情こそはすれど、それだけだ。特に心惹かれるものは何もない。
ガイスがこれまで見て、そして見殺しにしてきた他の聖戦孤児と何も変わらず、今回もそれは確実にその前例を踏襲するだろう。
クレイゾールは何の因果か、ああして今も連れ歩いてはいるが、それは本当に単なる気まぐれであり、ただの偶然だ。自分が聖人に目覚めたわけでは決してない。
それにただ一人を救ったからという理由だけで、これから先に目にする聖戦孤児を、ガイスがすべて引き取らなければならない理由にはならない。
ガイスはその場を数歩後退ると、そのまま踵を返し、少年に背を向けた。
取るべき行動は一つ。あとは去るのみだ。
そして出来る限りの力を使い、忘れる努力をしよう。
いま見た光景、聞いた言葉、それらすべてを忘れる努力を。
「ま……待って。助けて、助けて下さい。お願いだから、お願いだからッ!」
去り行くガイスの背中へと、そんな少年の悲痛な叫び声が突き刺さる。
だがガイスの経験からするに、背中さえ向けてしまえば、あとはどうとでもなった。少なくとも、その視覚的な圧力からは逃れられる。死にゆく者の最期の瞳を見なくて済む。
自分の足だけを見て歩調を速めれば、やがて声も届かなくなるだろう。
残念だが、ガイスがその足を止める事はなかった。
「助けて! 僕のお母さんを助けてッ!」
――その言葉を聞くまでは。
思わずぎょっとして思わず振り返り、少年を見やるガイス。
その火傷の少年は、ろくに動く事もかなわぬまま、泣いて懇願していた。
この際、どこにその母親がいるなどという愚問は避けたい。
ああ、そうだ。そこにいるではないか、その少年と共に焼かれたもう一人の人間が。
あんぐりと口を開けて、いびつな格好のまま動かなくなった黒い人間が果たして誰であったのか、もはや想像に難くはない。そしてそれに伴い、今まで分からなかったその人間の性別もまた理解できた。
その成れの果て――それがあの、焼け焦げた黒い人型の正体だ。
「それが、お前の、母親か」
「まだ、まだ助かるんです。お願い、すぐに手当てをすれば……」
少し事実を避け、あえてそれといった形容を用いるガイス。
予想していた事ではあったが、少年から返ってきた答えは決して冗談を言っている風ではなかった。自分のすぐ後ろに立っているその存在に見向きもせずに、まるでその存在を避けるようにガイスへ訴えかけている。
だからこそ――度し難い。まるで救いようがなかった。
先程から必死に訴えていたのは、あの母親の事だったのか?
自分が一体どれほどの火傷を負っているのかも差し置いて?
いや──単にその少年は気付いていないだけだ。
正常な意識は残されているものの、痛みという現実からさえ、彼は逃避している。絶対に認めたくないその事実を無視して、ありもしない希望に縋っている。それが形容さえ出来ぬほどに憐れに思えて、ガイスはしばし返すべき言葉を失っていた。
だが次にガイスの脳裏に浮かんだのは、恐ろしく残酷な言葉だった。
果たしてそれを言うべきか、言わぬべきか――刹那、心が迷う。
そもそも、それを説いて聞かせる義理もない。今は一刻も早くこの場を立ち去る事こそ賢明だ。こんな死に損ないの子供に構っている余裕などないし、安易な同情は、確実に我が身を滅ぼす火種となるだけだろう。
「お前はその母親を――見たのか」
けれどもガイスは、それを口にした。黙っては、おれなかった。
そしてもう一度踵を返すと、今度は大きな歩調でもって少年に詰め寄ってゆく。
すると先程まであれほどガイスを呼び止めていた少年が、急に青ざめた顔で首を振った。その先に待ち受ける未来を垣間見て、動かぬ身体のまま、少年は力の限りに拒絶している。
――ああ、この少年は知っている。
自分が最も認めたくない、現実の有り様を。
意識の表層ではあえて目を向けないようにしているが、深層意識では確実にそれを覚えている。だからガイスからの問いかけに、少年は恐怖を感じているのだろう。
その引きつった表情から、ガイスはそれを確信した。
「こッ、来ないで! 来ないで下さい……嫌だッ!」
「それを見たのかと聞いているのだ」
ガイスの歩調は止まらない。
あっという間に少年の前までやってくると、火傷を免れた小さな肩に手をかける。
少年は抵抗するが、ガイスはそれを強要した。
「見ろ、これがお前の母親だ」
「いや、ヒィッ……!」
そう言い、力づくで後ろを振り向かせる。
胸を刺されたような短い悲鳴を最期に、少年の息が止まった。
びくりと少年の肩がつり上がって、そのあとは石のように動かなくなる。
忘れようとしていた記憶が濁流となり、その胸へ押し寄せているのだろう。微かに唇だけを震わせながら、あまりに変わり果てた母親の姿を、少年は落ち窪んだ瞳で見上げていた。
生前、それがどんな女性であったかは分からない。
あんぐりと大口を開けた黒い土人形から、それを知る術はない。
「ち、違う……お母さんじゃない……こんなのは……」
「お前の母親だ。救えはしない。もう死んでいる」
少年の最後の抵抗を、言葉少なめに否定するガイス。
途端、少年の慟哭が叫びとなった。目を背けていた事実が現実に変わったのだ。
ぶんぶんと首を振り、それでいて目だけはしっかり見開いたまま、少年は喉が潰れるほどの絶叫を上げている。
「救えんのだ」
現実は圧倒的だった。
少年の刹那の逃避さえ打ち砕くほど、救いなき無情に満ちていて。
そしてガイスの言葉は無慈悲なまでに明快で。
少年は堰を切ったように大声で泣き始め、大粒の涙をこぼし、その場でわあわあと泣いた。
これだけの傷を負いながら、それでも最後の縁で自身を保っていた少年がいま、この現実に負けた。その無垢な心を悲しみと絶望に打ちのめされながら。
「……そして、お前も助からん。ここで死ぬ」
ガイスはそんな少年を薄汚れたローブで包むと、それだけ言った。
そして静かに身を寄せ、時の過ぎるままに抱いてやる。
少年の慟哭はいつまでも終わる事なく、最期の命を燃やし尽くすように少年は泣き続けた。
耳を塞ごうとは思わなかった。
それくらいならば、聞いてやるつもりであったから。
せめてここに、その咆哮を受け止めてやる人間が一人いてもいいだろう。
だから思い切り泣いて、泣いて泣いて、泣き尽くせ。そうしなければ救われんのだ、呪う価値もないこの現実から。泣いてすべてを受け入れる覚悟が出来るのなら、あとは大いに泣けばいい。
ガイスがふと顔を見上げた先には、そんな二人を見下ろすように、あの黒い母親が佇んでいた。
不意に自らの剣の柄に装飾されたある紋様が、ガイスの脳裏に甦ってくる。
エクセリアの信奉する女神がカデスであるならば、ギルディアの女神は、この不気味な女に違いあるまい。世界のすべてに災いを招かんとする、苦しみにのたうつその姿。それこそが、ギルディアを象徴する女神の姿だ。
その黒き女神は、焼失した眼窩の底から、慈しむように我が子を見つめていた。
それこそ、そんな我が子さえもを喰らわんと、背筋が凍るほどの大口を開けながら。
ガイスにはそれが、たまらなく不快に感じられてならなかった。
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