第六話 死者の提案

 現世を離れた人間が死に切れず、ごくごく稀に亡霊ゴーストとなる。

 それが亡霊の発生にまつわる、主な定説だ。

 いつどこで生まれた亡霊発生説なのかは定かではないが、少なくとも多くの人は、亡霊とはそういうものだと疑いなくそう信じこんでいる。

 その信憑性はさておき、亡霊というわけのわからない事象を飲み込むにあたって、つまりはその程度の解釈で事足りるというわけだ。もっともらしい説明があるならそれを受け入れ、同時にそれ以上の興味はない。そうして亡霊の概念は成り立った。

 しかし火のない所に噂は立たずと言うべきか──それは意外にも信憑性のある事実として受け止めなければならないのかもしれない。

 何故なら、少なくともこのお喋りな亡霊は、その説をから。

 彼が言うには、こうだ。

 亡霊が発生する原理は、結局のところ、その本人をもってしても説明のしようがない。けれどその根幹には人としての精神が強く関わっており、深い悔恨や名残を残して死者が、世を憐れんで亡霊となる。少なくともその見方に一定の真理は宿るとみていいらしい。確かに生涯をまっとうした人間がのちの亡霊となる話よりは、いくらか説得力を感じられる話だ。

 そして人の姿が千差万別であるように、亡霊によっても姿形はそれぞれで、彼らは実に多種多様な造形を持つ。完全に人の原型を残している例もあれば、煙のように輪郭の定まらないもの、あるいは今まさにクレイゾールの後ろをついてくる亡霊のように、特異な外見を伴って現れる例もある。

 いわば亡霊とは思念の写し鏡のような存在であり、その源が複雑であればあるほど鏡は歪み、映る造形も変化する。無から有が生じる事はなく、子が親の特徴を引き継ぐが如く、亡霊もまた生者の想いを引き継いで生まれるのは道理だと──。

 帰路をゆくクレイゾールの背中へ、熱心に語り続けるノーベルス。

 結局、日がな一日喋り通した亡霊は、野営地へと戻るクレイゾールを追う形でごく自然とその後をついてきた。あまりにも当たり前なその成り行きに、当のクレイゾールにもそれを連れ帰っているという認識はなかっただろう。その異変に気付いたのは彼らを待ち受けたガイスのみであって、寝床の暗がりから音もなく現れた彼らの姿に、ガイスは目を剥いて驚いた。

「それは……! それは何だ、クレイゾール……!」

 指を差すのも躊躇われるように、その異形を顎で指し示す。

 朝から姿を消したまま、日中はどこぞをほっつき歩いていたクレイゾールが、何かとんでもないものを連れ帰ってきた。さすがに今だけは寝たきりのバーンから目を離し、クレイゾールとそれとを交互に見やる。

 まさか昨日、亡霊について尋ねたのはこの事だったのだろうか。

 ガイスの声はそうした驚愕を示すように震えていた。

「亡……霊……」

 そんな事を聞いているのではないとばかり、ガイスは首を振った。

 それが人外の者であるなど、誰が見ても一目瞭然だ。

 闇の中に浮かび上がる仮面。揺れ動く半透明の幽体。どう考えても、平常の理に在るものではない。

 だが結局、そう口に出してみた所で何の解決にもならないだろう。

 確かに先の質問であれば、そういう答えが返ってきてもおかしくはないし、どうせ質問を変えた所で、クレイゾールからはろくな答えなど返ってきはすまい。

 ガイスは力なく首を振ると、重々しいため息を吐き出した。

「……馬鹿な、まさかになり果てるとは」

 クレイゾールの背後に浮かぶ亡霊は、ぴったり憑いて離れる様子がない。

 魔族という範疇において、亡霊などは極めて無力な存在だと言えるが、かといってその存在を軽んじてよいわけはない。連中は自らに心寄せる者を見つけると、炎に手をかざすが如く、その温かみを求めてすり寄ってくるという。

 それが俗に言う、〈亡霊憑き〉だ。

 そして一度亡霊に付き纏われたが最後、それを意図的に引き剥がす事は極めて難しくなる。亡霊は、現世の理が関与すべき対象ではないのだ。亡霊が自発的にどこかへと消え去るまで、人は甘んじてその呪いを受け入れるほかない。

 だがそうして亡霊憑きとなった人間の末路は、憐れなものだ。

 生き残る可能性はせいぜいが一割、あとの九割は最後まで亡霊を祓えぬままに死んでゆく。その呪いは亡霊憑きとなった人間の持つ生命力を著しく低下させ、徐々に宿主を死に至らしめる。骨と皮だけになった依り代は、あらゆる生気を失い、半ば朽ち木のようになって死んでゆくという。

 だからこそ亡霊を意識したり、同情めいた感情に揺られてはならない。

 たとえ亡霊がどれほど憐れみを誘う出で立ちで現れようと、人が無視さえしていれば、亡霊はそれに気づかぬまま人の前を通り過ぎてゆく。

「愚か者め……! 亡霊は無力だが、憑かれるとこれほど厄介な相手もない」

 ゆえにクレイゾールにも、ガイスはくれぐれもそう申し伝えていた。

 精神をどれだけ病もうとも、この土地で生きる以上、この土地で暮らす知恵なくしては生きられない。この旅の最中にも、昨夜亡霊についてを問われた際にも、ガイスは亡霊についてを何度も言い聞かせてきたつもりだった。

 だが、それでも甘かったか。

 ガイスは忌々しげに頭を振った。

 まさかこうもあっさりと亡霊憑きに成り果てるとは、馬鹿の具合にも程がある。

 ただでさえガイスの隣りには、バーンという火傷の少年が横たわっているのだ。これ以上の面倒など抱えきれるものではない。

「まだ間に合うかもしれん。手遅れにならぬうちに捨てて来い。それも遠くの──」

「捨テテ来イトハ、失礼ナ奴ダ。私ハ亡霊ラシイガ、物デハナイ」

 だがガイスは、再びその場で絶句する事となった。

 ──亡霊が、喋った?

 ただの亡霊が、自分に向かって、話を?

「は……話すのか……! それは……!」

 とにかく、それだけ口にするだけで精一杯だった。

 亡霊とは、己の自我さえ持たない、影や幻にも近い存在だ。言葉を話す亡霊など、聞いた事もない。目を丸くして、まじまじとその亡霊を見やるガイス。

 いや、そもそも目の前のそれは、亡霊なのかどうかさえも怪しかった。

 何やら法衣のようなものまで身に纏っているし、あろうことか、禍々しいばかりの大鎌までぶら下げている始末だ。この際、クレイゾールが何を引き連れて帰ってきたのか――それ以上は考えたくもなかった。

「……いい……?」

 するとクレイゾールが、よろめくガイスへそう声をかけてきた。

 その言葉が何を意味するか、まさかとは思うが、答えは一つしかない。その亡霊をと、クレイゾールはそれを聞いている。

 ガイスはいま聞いたその声を振り払うように頭を振った。

 犬や山羊ではない。亡霊を置いていいかとクレイゾールは尋ねている。

 いいわけがない!

 誰が好き好んで亡霊を側に置くものか。

 ガイスは懸命に混乱する頭を整理しながら、クレイゾールを睨みつけ、じっくりと返すべき言葉を選んだ。

「ならばまず、こちらの質問に答えろ。何故その亡霊は――」

「私ニ言ッテイルノカ?」

 だがクレイゾールへ向けたはずの問いが、他ならぬその亡霊によって答えられてしまったのだから、ガイスとしてはたまったものではなかった。溜らず三度目の絶句を果たし、改めてその衝撃を再認識させられるガイス。

 そう、ガイスはクレイゾールだけに話しているつもりでも、この亡霊は横で言葉を理解し、聞き耳さえ立てている。もはや何故それが言葉を喋るのかなどは取り立てて確認すべき事柄ではなくなっていた。事実、それはすでに

 ガイスは首を振って、いくつかの無駄な逡巡を思考の隅から払いのけた。

 それが話を聞き、いちいち語りかけてくる以上、徹底すべきはずの無視すら満足に出来ない。嫌でも注意はそちらへ向けられる事となり、その度に自分は、平然と口を挟んでくるこの亡霊に絶句を余儀なくされている。

 となれば、もはや自らもその亡霊と接触を持つ以外に選択肢はなかった。クレイゾールではこの事態を解決する手段にはならない。

 この上なく渋い顔をしながら、嫌悪感を剥き出しに亡霊へ向き直るガイス。

 自分でも驚くほど声が重い。

「ならば――」

 だが、何を話せばよい?

 相手は人ではない。改めて認識するが、亡霊なのだ。

 これまで生きてきたガイスの経験でも、まさか亡霊との会話は例がない。自分は何をどう話すべきなのか、すぐにはその取っ掛かりが見つからず、開きかけた口が早くも勢いを失って閉じかけてしまう。

 加えてこの期に及んでガイスの中に湧き上がってくるのは、むしろ戸惑いよりも怒りと苛立ちだった。

 何故自分がこんな面倒ばかりを背負い込まなければならないのか。

 そんな恨みを押し込めたような声で、ガイスが愛想のない言葉を吐き捨てる。

「ならばお前に聞いてやる、亡霊よ。お前はどこから来て、何故ここにいる」

「ホウ、ソレハ私ニトッテモ興味深イ質問ダ。同時ニ、難シイ質問デモアル」

 亡霊はまるでその質問を楽しむかのように、負けず劣らず低い声で呟いた。

 しかし目を瞑っていれば、まるで人間と会話しているかのような奇妙な感覚だ。

 亡霊は悪びれた様子もなく、淡々と質問の返答を口にした。

「答エテヤリタイノハ山々ダガ、私ニモソレガ分カラン以上ハ、答エラレン。タダ、他ニ行ク当テモナイノデ、コノ少年ニ付イテキタ」

 ──それを体よく亡霊に憑かれた、とは言わないのだろうか?

 不意にそんな思考を巡らせるガイス。

 だとすれば、実に狡猾な亡霊だ。悪戯に口が達者で、下手をすればその辺の人間よりもたちが悪い。

 ガイスは短く舌打ちをしながら、渋い顔で亡霊の声を聞いている。

「私ニハ、過去ガナイ。私ガ自我ヲ覚エタノモ、恐ラクハツイ最近ノ話ダ。モシカスルト私ハ、遥カ昔カラコノ大地ヲサ迷ッテイタノカモシレナイシ、数日前ニ降ッテ湧イタダケナノカモシレン。コレデ満足カ?」

 亡霊は仮面の下から漏れるくぐもった声でそう言葉を締めくくり、ガイスに対する流暢な返答を満足げに語り終えた。

 いやに生意気な弁を振るう亡霊だった。

 一つ一つの言葉に妙な自信を持っていると言うか、自分の主張を理路整然と押し通すような喋り方をする。

 しかし饒舌ではあれど、ガイスの求める返答として、それは満足のいく返答ではなかった。要は聞き手の受け取り方次第でどうとでも取れる内容を、もったいぶって話しているだけに過ぎない。亡霊の話がどこまで本当なのか、それともすべてが嘘なのか、それを裏付ける証拠は亡霊本人にすらもないのだ。結局、何をどう尋ねたところで煙に巻かれるのだろう。

 だがそれはガイスも同様で、何をどう語られたとて、亡霊の話を真に受けるつもりはなかった。今は手始めにその物言いを喋らせただけに過ぎず、こうして問答を重ねるこの瞬間も、ガイスは何とかこの亡霊を振り払う術はないかと懸命に頭を働かせている。

「……ソノ者ハ、重症ヲ負ッテイルヨウダナ」

 その最中、不意にそう声をかけられ、ガイスはつと視線を上げた。

 いつの間にか亡霊はガイスの脇をすり抜け、寝たきりのバーンの傍へ居所を移そうとしているところだった。咄嗟に制止の声を上げるつもりだったが、しかし亡霊特有の霊気を間近に感じ、思わず喉の奥で言葉が詰まってしまう。

 肌を突き抜け、芯を貫くような、凍てつく六感の針だ。

 たとえ亡霊を見た事はあっても、その霊気を感じるほどの距離まで近寄った人間は少ないだろう。かつて味わった事もない死者の波動に背筋が凍り、ガイスの身体は痺れを打ったように動きを止めた。やっとの思いで振り返った先では、亡霊がバーンの頭上から、異様に長いその腕を彼の額に差し出しているところだった。

「ヒドイ火傷ダ。コノ治療デハ、遠カラズ命ノ火ハ尽キルダロウ」

 しかし、そんな亡霊から続けられた言葉に、ガイスはこれで何度目か、あんぐりと口を開けて絶句させられた。

「組織ガ完全ニ腐ル前ニ、アロヤ草ノ葉ヲ患部ニ当テル事ダ。炎症ヲ冷ヤシ、一時的ナ皮膚ノ代ワリニモナル。手遅レカモシレンガ、ソノ苦痛モ、幾ラカハ和ラゴウ」

 この、亡霊は、何を言っている――?

 こんな宙を漂うだけしか能のない亡霊に、まさか薬学の知識があるとでも?

 すぐには言葉の理解が追い付かない。だいたい亡霊には、思考する自我も、それに伴う実体も、何一つない事が当然ではないか。それなのにこの亡霊は、ことごとくその常識を覆そうとする。

 ガイスは露骨に顔をしかめ、その有り余る不快感を示さずにはいられなかった。

「何を言うかと思えば、適当な事を! 人をたぶらかすつもりか、亡霊が!」

「助カル確証ハナイ。シカシ、コノママデハ、死ハ近イ」

「亡霊風情が! 知ったような事を抜かすなと、言っておるのだッ!」

 気がつけばガイスの声は、怒鳴るほどに荒立っていた。

 何故だか、そうして己の行為を否定されたのが無性に腹立たしく思えた。どうして目の前の亡霊に、自分のやり方を否定されなければならない。

 しかし同時に、亡霊相手に何をむきになる必要があるのかと後悔もする。

 所詮は得体の知れぬ人外が囁く事で、真に受ける事はない。

 自分は精一杯やってみた。

 それで、いいはずだ。

 何も間違ってなど──いなかった。

「私ノ記憶ハ曖昧ダガ、ソレニ伴ウ事実ヲ言ッタマデダ。モッテ、アト三日カ」

 しかしその件について亡霊も、一向に譲る様子がない。

 ガイスの怒気など歯牙にもかけず、落ち着き払った調子でバーンの容態を調べている。そんな亡霊の姿に、ガイスの脳へ再び大量の血液が昇った。

「ほう……! なら、そのアロヤ草とやらはどこにある? どんな草なのだ!」

 先程の自制など瞬く間に霧散して、相手を試すようにガイスが怒鳴る。

 亡霊の甘言など、細を突付けばすぐに縺れる。

 それを証明するつもりだった。

「高地ニ自生スル、多肉植物ノ一種ダ。乾燥寒冷ニ強ク、ソノ肉厚ノ葉ノ下カラハ、豊富ナ水気ヲ含ム果肉ノ薄皮ガ採レル。腐敗ヲ防グ効果ガアル」

 だが亡霊から返ってきた言葉は、ガイスの予想を裏切る正確なものだった。

 いやガイス自身、元よりそんな知識など持ち合わせていないのだから真偽など確かめようもない話なのだが、その自分にそうも思わせるほど、それは明確な答えだった。もしかするとこの亡霊は、本当にそのアロヤ草とやらの事を知っているのではないか――そんな淡い期待さえ、ガイスに抱かせるほどに。

(……何を……惑わされる……!)

 どれほど弁の立つ亡霊であろうが、ガイスは単なるでかませかと、それをあしらってやるつもりだった。端からそのつもりで声をかけていた。

 なのに不思議と、その気が失せていた。

 代わりに、聞き慣れぬその植物に対する興味が湧いてくる。

 もし――もしもだ。仮にこの亡霊の言うアロヤ草とやら本当にあるのだとしたら、バーンに対する診断もまた、信頼に足るものとなるだろう。そうなった場合、バーンの身体に残された命は、もってあと三日という事になる。

 事実ガイスとしても、思うところはあった。

 こうしてバーンにかかりきりとなってすでに幾日も過ぎたが、容体は改善されるどころか悪化の一途を辿っていた。傷は膿み、熱は下がらず、痛みの感度も鈍くなっている。すべてが徒労に終わる、ある種の予感さえ、心のどこかでは感じ始めていた。

 何の気の迷いか、無駄に苦痛を長引かせただけ──。

 そんな裏の気持ちを見透かされたようで、ガイスが言葉なく唇を噛む。

「暇ナ身ダ。必要ナラ、私ガ取ッテキテヤッテモ、構ワナイガ」

 続く亡霊からの言葉に、ガイスはまたも息を飲んだ。

 まさか。この亡霊が、バーンのために野草を採ってくる?

 驚きの連続にガイスの思考がいよいよ追い付かなくなっていた。そんな事をして亡霊に何の得があるのか、真面目に想像を巡らせるのも馬鹿らしくなってくる。

 ガイス自身、特別バーンの生に固執している意識はない。逃れようもない定めというものも、同様にガイスは理解しているから。死は誰しも避けられぬものだ。

 しかし、もしこの少年の死すべき定めを拭ってやれるというのなら──。

 ガイスはそれを、してやるつもりでいた。

 そのためにこそ拾ったのだ。

 拷問めいた治療もすべては、こぼれゆく生への対価だった。

 そこに生きる道が、あるのなら。

 それがまだ、完全に閉ざされていないのなら。

 亡霊の提案に、ガイスの心が激しく揺れていた。

「幸イ、アノ山ヲ越エタ先デ、目ニシタ記憶ガアル」

「あの山……だと……?」

 しかし亡霊の言葉を反芻するガイスの声は、数瞬ののち、強い落胆に変わっていた。霧散する淡い光明。無駄に浮き沈みを繰り返した気持ちの反動は失望に染まり、ガイスの表情には静かな怒りが沸々と噴き出してくる。

 この亡霊は、何を言っているのか。

 それとも亡霊だから、ものを熟慮するだけの頭がないのか。

 ガイスの声は、小さくない感情の波を含んだぶん、確実に語気の荒さを増していた。

「馬鹿なッ! どうしてあの距離を三日で帰ってこれる! 人が大人しくしておれば、適当な事を抜かして人心を惑わすかッ!」

 一瞬でも亡霊の物言いに耳を傾けた自分が愚かだった。

 そう言って亡霊が指し示した方角は、ギルディアでも最高峰と数えられる、険しきキリンジの峰にほかならない。

 連なる山々の中にあって、針のように突出し、絶えず厚い雲に覆われた頂。その雄大さゆえ、今が夜でなかったら、それはこの位置からでも遥か東の彼方に霞んで見えた事だろう。

 だがその山を登る行程の険しさ以前に、問題はその距離だ。

 キリンジが見えるのは、遥か東の彼方。どうしてその距離を三日で往復出来る? この位置からでは、片道だけで五日はかかる。先ほどから亡霊の甘言に踊らされるばかりの自分がつくづく愚かしかった。

 どうしてそんな妄言を真に受けるのだ。

 こうしてある事ない事で人心を惑わし、魔の眷属らはいつもその隙を狙っている。亡霊とは無知で無力で、無能なだけの存在かと思っていたが、どうやらこれほど油断のならない奴もいるらしい。

 忌々しい事、この上ない。

 危うくその企みに引っかかるところだった。

 大方そんな場所に獲物をおびき寄せて、人を喰らおうとでもいうのだろう。

 だがこの亡霊は――

 不意に自身の囁きが脳裏をよぎり、思考が錯綜する。

 ──意味が、分からない。

「私ガ場所ヲ忘レル前ニ、決メテクレ。要ルノカ、要ランノカ?」

 くるりと首をガイスへ向け、亡霊が問う。

 不気味な薄笑いを湛えた仮面が、じっとガイスの瞳を覗いていた。

 まるで心の奥底を見透かされるような感覚。思わず頬の肉が痙攣し、敢然と拒否するはずの返答が喉の奥で止まってしまう。

 そう――どうせ採りに行くのはこの亡霊なのだ。自分が行くわけではない。

 ならば試してやるのも、一つの手だ。損はないではないか。

 なのに一方では、それを受け入れられない自分もいる。

 何故亡霊相手に、そんな事を頼まねばならないのか。

 素直に「要る」という言葉が出てこない。

「要る」

「クレイゾールッ!」

 思わずその名を口走る。

 それに答えたのはガイスではなく、成り行きを見守っていたクレイゾールだった。

 亡霊はガイスからクレイゾールへと視線を移すと、にこりと笑いかけたような気がした。

 もちろん、その硬質な仮面に変化はない。元々笑っているものがそう見えただけだろう。亡霊は黒い法衣を正すと、仮面の下からくぐもる越えで応じた。

「ナラバ、採ッテコヨウ。三ツノ晩ガ明ケルマデニハ、戻ッテクル」

 そして言うが早いが、ガイスらの荷物から適当な皮袋を一つ見繕って、さっそくにもその場を離れてゆこうとする。

 しかし途中、亡霊は何か思い出したように足を止めて、二人を振り返った。

「タダシソノ前ニ、一ツ、条件ガアル」

 途端、ガイスが顔が露骨に歪んだ。やはりか、と短く舌打ちもする。

 能無しの亡霊といえど、やはり人外の魔族には変わりない。その浅ましい連中が何の望みもなく人の要望になど応じるはずもなかった。それ相応の条件、あるいはそれ以上の代価を求めて然りだろう。

「……イヤ、コレハアクマデ頼ミ事ダナ。嫌ナラバ、イイ」

 亡霊は、どこか遠慮がちにそんな断りから口にした。

 口が達者な割には、交渉下手な亡霊だ。

「モシ私ガ例ノ野草ヲ持チ帰ッタナラ……ソノ時ハ私モ、オ前タチノ一行ニ加エテハモラエナイダロウカ。オ前タチノ、仲間ニ」

 けれどそうして亡霊が口にした条件は、ガイスが予期したいかなる形にもあたらない間抜けな提案だった。ガイスは一瞬拍子抜けした表情を浮かべたものの、その言葉の真意を読み取るべく、視線は亡霊を睨み据えたままでいる。

 おかしな事を聞いてくる亡霊だった。

 亡霊憑きなら、わざわざこちらの同意など得る必要もないはずだ。それほど自我が残されているのなら、勝手に人間にとり憑いて、あとは自分が離れなければそれでいい。亡霊がおのずから離れない限り、人間はどうする事も出来ないのだから。

 なのにその亡霊が、どうして同行の許可などを求めるだろう。

 もちろん亡霊憑きなど、何があっても願い下げだ。許可するつもりはない。

 けれどこの亡霊は――と言った。

 仲間、とは?

「記憶ハナクテモ、元ハ人間ダ。魔族ドモニハ、アマリ馴染メソウモナイ」

 それきり奇妙な亡霊は、ガイスからの返答も聞かぬまま、その場を去っていった。二度とこちらを振り返る事もなく、遥か彼方に聳えるキリンジの頂へ向けて、焚き火の外の暗がりへ黒衣の輪郭を溶かしてゆく。

 不機嫌そうに黙り込んだガイスは、それきり何も喋ろうとはしなかった。

 ともかく今は、容体の回復しないバーンをここから動かす事は出来ない。亡霊の提案を受け入れるにしろ、無視するにしろ、どちらにしても今日取れる彼らの行動は同じなのだ。

 ガイスたちは、待たねばならない。

 おそらくは明日も、明後日も。そして亡霊の言う三日後にここで何が起こるのか、ガイスはそれを見届けてやるつもりだった。

 バーンが自力で峠を越えるのか、定めに屈するのか、それとも──。

(あの亡霊が、本当に戻ってくるのか)

 一度はそんな風に考えて、けれどもやはりと、ガイスは首を振った。

 それこそ三日目にならなければ分からぬ事だ。今はこれ以上の思案は必要ないし、何より今夜はひどく疲れた。先ほどから感じているこの頭痛のためにも、なるべく早く眠りの床に就いた方がいい。

 幸いバーンへの治療は、すでに一通り済ませてある。

 ガイスはいつしか消えかけていた炎に新たな薪を放ると、その先の番をクレイゾールに任せ、少しだけ目を閉じる事にした。

 相変わらず地面は固く、それは風よりも冷たくガイスの肌を凍らせたが、それでも意識は急速に遠のき、糸が切れるように眠りの底へと落ちてゆく。

 夢の間際、多分、寒さに震えるガイスの歯がカチカチと音を立てた。

 ガイスの毛布は、今日もない。


 


 それはまさに、耐え難き灼熱の業火だった。

 忘れようとしても、決して忘れる事の出来ない戦慄の記憶。

 燃え盛る炎が身を焼く感覚は、熱さではなく、荒れ狂うまでの激烈な痛みだった。

 生物としての本能が持つ、火への根源的な恐怖。それは並ぶ比喩さえないその重苦を知るがゆえに刻まれた、無意識の畏れとも言えるだろう。

 その本能の嫌忌すべきを、バーンは生きたままに経験した。

 この故郷ルザルで。実の母とともに。背中あわせで。

 その記憶を忘れる事など――不可能だった。

「はあッ……はあッ……!」

 熱い。熱い。

 火種のような熱を、まだこの掌の中に感じている。

 鬱血した両腕はすでにあらゆる感覚を失って久しいというのに、肌が焼けるあの感覚だけはで焼いたように残されている。

 ひりついた背筋を駆け昇るのは、燃えた杭の火だ。身体を流れる血液は沸騰し、喘ぐ息は灼熱の空気を肺に送り込むばかりで、あたかも炎を直接吸い込んでいるかのような錯覚をバーンに強いた。

 熱くて辛くて苦しくて、それでも逃がれようのない地獄。

 それはあの燃える杭から解放されたはずの今も変わらずに続いている。

 バーンは混濁する意識の底で薄く目を開き、朦朧とした視界を眺めていた。

 どれくらい眠っていたのだろう──固い地面の上で意識を取り戻す。

 しかし空は夜で何も見えず、目を閉じているのとどれほども変わりがなかった。

 ひょっとすると自分は目を開けたままずっとこの黒い空を見上げていたのかもしれないが、意識の境界はひどく曖昧で、実感と思しきものは何一つとしてなかった。

 あるのはただ、熱さの記憶と苦しみだけ。

 いや、今はそのほかにも強い喉の渇きがある。

 よほど喘ぐような呼吸をしていたのだろう。唇の薄皮は縦横に裂け、喉のいがらっぽさは砂を飲んだような不快感を示している。とにかく、水が飲みたい。

 だが身体は動かなかった。

 首を動かす力さえ、もう残ってはいない。

 ただ底知れぬ大穴のような空を見つめながら、それでもふと涙が一筋、耳へと流れていった。

 何の涙だろう。

 それから、バーンは意識して瞳を閉じる。

 何故だか──不意にその空の穴が、恐ろしく感じられたから。

 何かが這い出ようとする予感に身震いをする。

(嫌だ──)

 しかし目を閉じたところで、見える景色は同じだった。

 圧倒的な、闇色の虚空。瞼の裏側にいま見た景色がそのまま映っている。

 脳裏に明滅する記憶の残滓が、人肉の焼ける臭いを鼻腔に運んできた。狂気さえ孕んだ断末魔の咆哮が鼓膜によみがえる。闇の中に赤い人間の輪郭が蠢き出した。

 

 膨れ上がる恐怖と、早鐘を打つ鼓動。

 それは実に不穏な人影だった。

 両腕を後ろに回してひどく歩きづらそうに、それでいて何かに括られたような直立の姿勢でもって、深淵の底から執拗にバーンを求め、近づいてくる。

 交錯する意識の狭間で、何度となく現れた化け物だ。

 その全身は黒く、焼け落ちた炭のようで、ところどころに高温の火種と煙が尾を引いて燻ぶっている。抉れた眼窩はどれほど目としての役割を果たせているのか、それは何度もつんのめって歩くので、顔の半分ほどもある巨大な口は、その度に何かを貪るように荒々しく上下した。

 まるで求める我が子を、その顎で噛み砕かんとするばかりに。

「……お……母さん……」

 バーンはうわ言にも届かぬ掠れ声とともに、静かな嗚咽を漏らし始めていた。再び一筋の涙が頬を伝い、固い地面に横たわったその頬を撫ぜてゆく。

 そう、バーンはもう知っている。

 それこそが自らの母親とする人物の姿だった。

 もちろん、その面影などどこにもない。別人だと叫ぶ事も出来るだろう。けれど、悲しいくらい疑いようのない事実として、心はそれを認めてしまっている。

 だからこそ、何故その母親が自分を求めるのか──死してなお、何故その朽ちた身体に鞭打つのかをバーンは理解していた。

 この希望なき世界で死に損ねた我が子を案じ、あの淵から呼んでいるのだ。

 彼女と共に往けば、あの深淵の底で楽になれる。

 何も見る必要もない、何も聞く必要もない、暗き安息の世界。

 そこで母と二人、最期の眠りにつく事が出来る。

 そのために母は自分を喰らおうとしている。

「……もう……いい……んだ……」

 しかしバーンはそんな母の姿を、いま静かに拒絶した。

 何故なら、それはもうバーンの知る母親の姿ではなくなっていたから。

 それは母であり、断じて本当の母の姿ではなかった。

 見てくれの問題ではない。もっと深いところ、その本質的な部分が、まるで別人のように歪んでしまっている。

 業火の苦しみが、母を溶かし、その形を変えたのだ。

 そうしたバーンの拒絶を受け止めたのか、やがて深淵の怪物は一層苦しそうに身を捩り、真っ黒な大口から悲しげな咆哮を叫んだ。その後、炭化した身体のあちこちから火を吹き出し、風を受けて猛るように、その全身が既視感のある火柱に包まれてゆく。

 断末魔の叫びはなく、ただ燃え尽きるようにその姿は崩れた。

(ごめんね……ごめんね、お母さん……)

 頬を伝う涙は止めどなく、ただ心の内であの日の姿に詫び続ける。

 あるいはこの自分こそが、変わり果てた姿の母を希望なき深淵に呼び続けていたのかもしれない。だから母は死ぬ事を許されず、バーンを求め、いつまでも煉獄を彷徨っていた。

(受け入れるしかないんだ)

 あの母を安らかに眠らせるためにも、向き合うしかない。

 閉じていた瞼からゆっくりと力を抜き、薄く目を開けるバーン。

 悪夢のような意識から解放されてなお世界は暗黒に包まれ、星一つ瞬かぬ闇の淵は空一面に広がっている。試しに身体を動かしてみるが、上半身を起こす事はおろか、満足に腕を持ち上げる事さえ出来ない。死を待つだけの芋虫のようにバーンは地面に転がったまま、圧倒的な孤独と喪失感だけがその身を包んでいる。

 この世界には、何もない。

 何もない世界で目を見開き、ただ闇の先を見据える。

 この世界には、呆れるほど何もなかった。

 亡者と化した母の姿さえ。

(これで、いいんだ)

 世界のあまりの冷たさに、ぶるりと一度、全身が粟立った。

 最後の別れを胸に秘め、それを母への餞別とする。

「──ほッ……げほおッ!」

 途端、忘れかけていた呼吸が調子を外し、バーンは大きく咳き込んだ。

 気管に砂でも入ったらしい。仰向けのまま寝返りも打てず、目を白黒させながら身体を痙攣させるバーン。息が出来ない。逆流した胃液を二度三度とぶちまけたあと、やっと開いた気道に焼けついた息を吸い込める。

 生死の境を漂いながら、ただただ目を背け続けていた生の苦しみだ。

 徐々に呼び起される、脈打つような激痛。身体の芯は冷え切っているのに、焼けた腕の先だけは刺すような熱さを覚えている。ふとすれば今にも意識が散り散りになってしまいそうになるのを、けれどもバーンは、決して手放そうとはしなかった。

 この真実の苦しみと正面から向き合い、最期まで耐え抜く。

 耐え抜いてこそ、あの母ではない、本当の母に会えるような気がしたから。

 肩で息を切らしながら、歯を食い縛って深淵と向き合うバーン。

 あと少し。

 あと少しできっと、会えるよね。

 それだけがバーンに残された最後の抵抗だった。

「――――ひッ!」

 そんなバーンの頬に何かが触れたのは、その時の事だった。

 反射的に目だけがぎょろりと動き、そちらを見やるバーン。

 冷たく固い、骨のようなもの。

 けれどもそれは骨ではなく、人の指だった。

 バーンの涙を拭うように、そっと添えられた指。無意識に視線はその指を差し出した人物の方へと伸び、そしてバーンは、またも息を飲んだ。

 痩せこけた棒のような少年が、節の浮いた膝を抱え、いつからかバーンの隣りに座りこんでいた。消えかけた火のわずかな明かりの中、こちらを覗き込んでいる。

 それは闇の中でさえ光を放つような、白い肌の少年だった。

 まるで血の気を感じさせない、死者の色。一方で少年の髪と目はくすみなき闇色を溶かし、その大きな瞳は先に見た深淵を小さくしたかのよう。

 それは白と黒という対極の色同士を併せ持つ、不思議な少年だった。

「き、君……は……」

「クレイゾール」

 その少年が何を口にしたのか、すぐには判断がつかなかった。

 けれどそれが少年の名前であるならば、不思議と妙な得心があった。

 〈クレイゾール〉という名前は比較的珍しく、そう耳にするような名前ではない。しかし何千何百という語順の中から、 咄嗟にそれがと、心が理解した。そしてクレイゾールとは、まさにこの少年のためにある名前だとも。

 奇妙な感覚がバーンの意識を包んでいた。

 生と死の狭間で混濁した自我が、この瞬間、否応なくその少年に向けられていた。いや、それは意識や思考などと同列に語るものではなく、むしろ本能と呼ぶべきものなのかも知れない。にじり寄る死の床にあっても、バーンの本能は、絶え間なくその警告を鳴らしていた。

 恐らくは自分よりも年下か、少なくともそれほど年の違わない少年だろう。

 なのにバーンは、そんな少年の姿に、言い知れぬ恐れを感じずにはいられなかった。言葉に出来ない不安感。それはまさに、底のない深淵を覗き込むあの感覚にもよく似ている。目の前の少年に見つめられる感覚は、まさしくその再現だ。

 胸が苦しくなるような居心地の悪さに、思わずバーンが身じろぐ。

 たとえ動けないと分かっていても、純粋に、少しでもそこから逃れたいと思った。

「三日後に、死ぬんだって」

 ぽつりと、クレイゾールが呟いた。

 けして耳元で囁かれたわけでもないのに、首筋にぞくりとする寒気を覚えてバーンは息を詰まらせた。その言葉に直接命を削られるような錯覚。

 何か問いかけようとしたが、いや、聞くまでもないだろう。

 それは間違いなく自分へと囁かれたものだ。

 不気味な少年からの、氷のように冷たい死の宣告だ。

「けど……助かる。死なないよ」

 しかし宣告は、声を返す間もなくすぐに解かれた。クレイゾールはそう言い、骨の節が浮き出た指を、再びバーンの方へと伸ばそうとする。

 堪らず、ひいと短い悲鳴がバーンの口から漏れた。

 再びその指で触れられる事に、本能が強い抵抗を覚えていた。

 世界と向き合っていたはずの覚悟は露と消え、今はただその呪わしげな指先から逃れたいがため、ともすると母の名さえ口走りそうになってしまう。

(助けて、助けて──!)

 すると頬へ、何かが落ちた。

 頬を伝う刺すような感覚に、ぎょっとして動きを止めるバーン。

 見ればクレイゾールの差し出した掌には、わずかな水が湛えられており、今もそこから水の雫がぽたぽたとこぼれ落ちている。けれどその指がいかんせん細過ぎるがゆえに、がらがらに開いた五指の隙間から水は瞬く間に消失してしまった。

 クレイゾールはあっという間になくなってしまった手の平の水を呆然と見つめると、今度は両手で水をすくい、バーンの口元へ差し出した。クレイゾールの足元には小さな桶が用意されており、その中には水がなみなみと注がれている。

 それを目にした途端、バーンの喉が焼けるように痛んだ。

 猛烈な渇きに耐えかねて、考えるよりも先に、バーンはクレイゾールの手に飛びついていた。上半身だけを懸命に起こしながら、喉を鳴らし、貪るように水へとかぶりつく。

 出来る事なら、クレイゾールの足元にある水桶にそのまま顔を突っ込んで喉を潤したかったが、これ以上は姿勢を起こせない。バーンはクレイゾールが次の水を手に汲んでくれるまで、まんじりともしない気持ちでそれを見つめるしかなかった。身体は驚くほどに水を欲していて、どれほど飲んでも満たされる気がしない。

 やがて自身の疲労からバーンがその行為を止めるまで、クレイゾールはそれに付き合ってくれた。氷のように冷えた水をすくうクレイゾールの指はますます白みを増して、水桶の水面に震えて揺れている。

「あ……あり、が……とう……」

 あれほど呪わしく思えていたその指先が不意に気の毒に思え、バーンはそれを労わるようにクレイゾールへ礼を言った。そして濡れた口元を拭おうと、上手く動かせない腕を口元へ持っていった時、ようやくにも我が身の実感を思い出す。

 腕の先をぐるぐる巻きにした、どす黒い染みに覆われた何重もの止血帯。

 指はなく、ただ団子のような丸い塊だけが、不恰好に腕の先についている。

 かあっと急激に感情が高ぶって、腹の底から嗚咽が湧き上がってきた。

「……くっ、うう! ううぅ……ッ!」

 感情のままに泣きたかった。

 けれど、バーンは声を押し殺して泣いた。

 いや、本当は泣きたくなかった。けれど、泣いていた。

「何でッ……僕が……こんな……ッ!」

 なんてひどい身体なんだろう。

 なんて苦しくて、辛くて、悔しくて、なんて悲しいんだろう。

 嫌でも思い出し、実感した。自分にはもう、かつてあったものが何一つ残されてはいないという事を。この両の指さえ、炎にさらわれ失くしてしまった。

 何故、奪う者と奪われる者とがこの世に存在するのだろう。

 ただ弱者であるという事が、ひどく怨めしい。

 バーンは心の中で慟哭した。

(お母さん──ッ!)

 もう焼け焦げたあの姿は、脳裏に思い浮かんでは来なかった。

 代わりにバーンは、血が滲むほどに唇を噛み、肩を震わせて蹲った。

 こんなにも涙を流すのに、どうして人は燃えるんだろう。

 うずくまったバーンの腕に、そっとクレイゾールの手が添えられた。

 さするでもなく、ただ血の滲む包帯の上へ置かれた、骨と皮だけの指。それはまだいくらも体温を取り戻せていないようで、その震えはバーンの腕にも伝わってくる。

 あかぎれて皮が捲れた間接は、そこだけ赤い血を滲ませている。

 自らもまたその手に腕を重ね、バーンはとうとう声を漏らし泣いた。

 その手への嫌悪感は、もうなくなっていた。

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