第三話 生贄は静かに眠る

(……またはずれ、か)

 グレイスはもはやその舌打ちを隠せなかった。

 水の恩恵を知らぬ大地が作り出した、痛々しいほどの深い傷跡。小動物はその穴倉を自らの住み家とし、ささやかな生命を育んでいる。そしてこの場所に生きる人間たちにとってもこれらの亀裂は、自らの生活に欠かす事の出来ない重要な狩り場の一つだった。

 作物がろくに育たないこの環境では、食糧供給のほとんどはこの狩りに委ねられている。いわば村の命運を左右する聖地といってもいい。

 一人の担当する罠の数は、およそ十。自らが設置した罠を調べ、回収し、そしてまた行きがけに別の穴倉へ罠を仕掛ける。

 それがこの狩りのやり方だった。

 そのため罠を設置する場所同士は、それほど遠いものではない。

 しかしグレイスが少年と合流して、もうどれだけの罠を回っただろう。相反して収穫の方は──目も当てられない有り様だった。

 どれ一つとして、当たりがない。

 この一帯の獲物は、すべて捕り尽くしてしまったのだろうか?

 だとすれば、また狩りの範囲を広げなければならない。グレイスは大地の淵に手をかけると、水樽のように重い身体を亀裂の中から引き上げた。

(今年は一体、どれほどの餓死者が出るのか)

 自分自身への問いかけが、虚しく心を打った。

 まるで未来という名の明日が、すっぽりと黒い布で覆われているような気分だった。

 いつからか、誰かがそっと布を被せていった。その瞬間は誰も見ていない。けれども目の前から明日は消えていて、そこにはわずかな膨らみを帯びた黒い布だけが残された。この鬱屈した気持ちは、そんな比喩に集約されているように思える。

 滑稽なのは、誰もがその黒い布を認識しながら、それを取ろうともしない点だ。

 明日なき日々に不安を覚え、黒い布の下に手を伸ばすそうとするけれど、その直前になると目を背けてしまう。事実を直視する勇気がない。

 本当に──

 それを知ってしまうのが怖いのだ。

 正直なところ、見当すらつかなかった。

 日に日に村の食糧難が深刻化しているのは、もはや火を見るよりも明らかだ。絶望的なまでに需要と供給が成り立っていない。

 今日も男たちが総出で狩りに出向いてはいるが、自分の成果を抜きに考えても、相当に厳しい現実を覚悟しなければならないだろう。まさか自分の罠にだけ獲物がかからなかったとは考えられない。

「……どうだった?」

 地上では、心配そうに少年がグレイスを見上げていた。

 あれから何一つ収穫がないのだ。無理もなかった。

「いや、ここは駄目だったらしい。次の場所に期待しよう」

 グレイスは努めて明るい笑顔を見せると、軽いままの罠を手に、次の場所へ向けて歩き出していた。

 出来る事なら、まだ十歳にも満たない少年にこんな現状など見せたくはなかった。グレイスのそんな本音が、声にならぬ呟きを胸の奥に漏らしている。

 子供にはいつだって笑っていて欲しい。そう願わぬ親などいないだろう。

「次は、捕まるといいね」

 グレイスの後を小走りについてくる少年。

 親しみの中にもどこか気を遣っている感じのする言葉が耳に残る。

(何故自分の子供一人、満足に食わせてはゆけないんだ)

 そう自問せずにはいられなかった。

 誰にともなく囁かれる呪いの言葉は、この時代に対してか、あるいは不甲斐ない自分に対してのものなのか──相も変わらず冷たい太陽は、堆積した雲の向こうでおぼろげな光を放っている。

 日の位置から考えるに、今は丁度正午辺りだろうか。

 早朝に村を出発してからずいぶん歩き回った気がしたが、まだほんの数刻しか経っていない事にグレイスは驚いた。全身に纏わりつく報われない疲労が、一歩ごとにグレイスの足を重くしている。

 しかし、歩き続けるしかなかった。

 一度足を止めてしまえば、もう歩けなくなる──そんな人間を、グレイスは何人も目にしてきたから。安易な諦観は、やがて人から立つ力さえ失わせてゆく。

 諦めた先にあるのは絶望の地平だけだ。

 ましてグレイスが希望を見失っていたのでは、その後ろを懸命に歩く少年もまた明日なき地平に迷うだろう。世の終わりを嘆く前に、守らなければならない光がグレイスにはある。

(この子を導くのは、私なのだ)

 グレイスは沈みがちな思考を意識して振り払い、地平を見据えた。

 そう、諦めるにはまだ早過ぎる。狩りの結果を嘆くなら、残るすべての罠を巡ってからでもいいはずだ。現時点で思う事が出来る最大限の希望を胸に、グレイスは重い両足を引きずりながら先を急ぐ。

(大丈夫──次はきっと、うまくいく)

 悲壮感さえ漂わせる、飲み込むような自己暗示で。

 グレイスは見慣れた黒い空を一度仰ぎ見ると、無表情なまま、すぐにその視線を地面に戻した。




 雲の向こうの夕日が、わずかに峰の間から最期の灯を覗かせている。

 山の夕暮れは早い。すでに太陽はいびつな地平の向こうへと、一度たりともその温もりを大地に届ける事なく沈もうとしていた。わずかばかりの赤みを滲ませた二つの影が、半分溶けたような輪郭で灰色の地面に伸びている。

 いつしか罠は最後の一つとなり、同時に彼らの手の中に、行きがけの罠を除くすべての荷物は、何一つとして持たれてはいなかった。

「これで、最後だな」

 グレイスからの声を耳にしても、少年には返す言葉が見つからなかった。足元に口を開けた亀裂の中を見つめながら、こくりと一度だけ、頭を垂れる。

 楽しかったはずの狩りが、いつからか、そうではなくなっていた。

 一つの罠を回収してゆくたびに二人の会話は減ってゆき、今では重苦しい沈黙だけが二人の間を満たしている。

「何かあったら、すぐに呼ぶんだぞ」

 そう言い残し、グレイスは慣れた身振りで暗がりへと潜りこんでいった。

 もはや苦行とも思える少年一人の時間が、ひどく緩慢に流れてゆく。

「……父さんの獲物が、どうかかかっていますように」

 少年は胸の前で両手を組むと、ぎゅっと目を閉じ、薄暗い天を仰いでいた。

 普段から特別の信仰があったわけではない。だがこの現状を前にして、子供心にもただ傍観するだけではいられなかったのだろう。おそらくは神がいるであろうその場所へ向けて、慣れない祈りを捧げている。

「どうか、父さんの笑顔が見れますように」

 村の事より何よりも、まずはそれが少年の本心だった。

 沈んだ父親の顔を見ていると、自分まで辛い気持ちになってくる。グレイスの喜びは彼自身の喜びであると同時に、この上ない少年の喜びでもあるのだ。

 小さき祈りを終え、そっと目を開いてみる少年。

 暗がりを増すばかりの空には、いささかの変化もない。

 それとも、というべきだろうか? 暗澹たる空の澱に、少年の想いはどれほど届いただろう。憂鬱な時間は、待ちかねたように少年のもとに舞い戻ってきた。どうせ何もかかってやしないさ──そんな囁きさえ携えて。

 次にグレイスがあの穴から戻ってきた時、自分はどんな顔でそれを迎え入れたらいいのだろう。少年の心に無情と悲しみだけが広がってゆく。

「──おい、やったぞ!」

 だがそうした少年の憂いは、思いがけず裏切られる事となった。

 突然の鋭い呼びかけに、驚いて顔を上げる少年。それは確かにグレイスの声だったが、しかし亀裂の狭間から響くそれは先程とまるで別人のようで、だからか一瞬、彼の身に何かあったのではと少年は鼓動を早めてしまう。

 けれども、それが伝えていたのはむしろ事態の好転だった。その後、滑るように地上へ姿を現したグレイスの右手には、罠にかかった獲物の姿があった。

 ふさふさとした白い毛に全身を覆われた、雪のような野兎だ。

 前脚と後ろ脚の一本ずつを鋏に挟まれ、ばたばたと宙をもがいている。

「すごい! 本当に捕まえた!」

 初めての狩りの成果に、思わず歓声を上げる少年。

 いかなる天の気まぐれか、最後の最後で、待ちわびていた願いが現実となった。少年は全身でその喜びを表現し、グレイスもまた安堵の面持ちでそれを眺めている。

 諦めかけていた現実に、希望の光が射し込んだ思いだった。

 小さな獲物だが、これがあるとないとではまるで違う。

 もちろん、この野兎一匹で村の危機が回避されたわけではないだろう。しかし今日の狩りに出向いたのはグレイスだけではない。たとえ小さな獲物でも、皆が持ち寄れば、皆の明日を繋ぐ糧にもなり得る。それが生活共同体の村というものだ。

 グレイスは誇らしげにそれを少年の顔先に差し出すと、まだ高揚を抑えられない声で言った。

「本当はもう何匹か欲しいところだが、贅沢は言えない。この成果を喜ぼう」

 晴れやかなグレイスの笑顔。

 しかしそれとは対照的だったのが、目の前の光景だった。

 逆さ釣りにされ、傷口から血の筋を滴らせる野兎。脚には鋭利な鋏が食い込んでおり、野兎が闇雲に宙を跳ねるたび、自重がその肉を緩やかに引き裂いてゆく。傷は骨まで達しているのか、時折弾かれたように暴れる仕草も見せ、それは声なき野兎の苦痛の訴えにも感じられた。

 助けて。助けて。助けて。

 歓喜に沸いた少年の心に、すうっと暗い影が落ちる。

 まるで冷たい風が頬を撫でてゆくような感覚。笑顔から温度が消える。

 少年の黒い瞳はただ、目にも鮮やかなそのだけを見つめていた。

「父さんはこの罠を別の場所に仕掛けてくる。ここで少し待っていてくれ」

 そんな少年の変化に、グレイスは気付いただろうか。

 彼は手早く罠を外すと、少年の足元へ野兎を放り、その場を離れていった。

 投げ捨てられた野兎は身体を打った衝撃にもめげず、束の間の自由に最後の足掻きを見せている。だが跳躍の要となる足を二本もやられては逃げ出せるはずもなく、それは単に苦しみの助長にしか過ぎなかった。耐え難い苦痛と粉砕された脚の感覚が、徐々に野兎の本能から生への執着を削ぎ取ってゆく。

 いつしか野兎は、その場から動かなくなっていた。

「…………」

 その場には、対照的な二人が残されていた。

 それを喰う者と、喰われる者。

 腹の奥からこみ上げる不快感が少年を苛む。

 何故だか野兎を正視する事が出来なくなっていた。あれほど望んでいた、待ちに待った獲物であるはずなのに。

「ご、ごめんね……」

 初めての狩りでは誰しも陥る経験だった。

 罪もなく傷ついた獲物相手に、矛盾に満ちた同情を抱いてしまう。少年くらいの年の子供なら尚更だろう。優しい人間であるばあるほど、心は揺れる。やがて少年は心だけでなく、体全体をぐらつかせるようにその場で尻もちをついていた。

 正確には、立っていられなかった、というべきか。

 自分でも驚くくらいに腰を打ち、少年の口から短い声が漏れた。

 だが驚いたのは少年ではなく、むしろ野兎の方だった。

 急な少年の動きに反応し、先程までの現実も忘れて反射的にその場を逃げ出そうとする。しかし折れた脚がその脚力を取り戻す事はなく、結果はひどいものだった。無理に飛んでは無様な転倒を繰り返し、地面に大小の赤い斑点だけが広がってゆく。愚かしいほどに野兎は現実を受け入れていない。

「だッ、駄目だよ! 無理だよ!」

 焦った少年は慌てて野兎のもとへ駆け寄ると、おぼつかない手つきでそれを胸に抱いた。野兎はますます動きを激しくするが、せめて動かないように身体を押さえるだけでもいい。それで落ち着いてくれれば苦痛も和らぐはずだった。

「な、何もしないよ。ほら、大丈夫……大丈夫!」

 少年は扱いに困ったように、それからぎこちなく野兎の頭を撫ぜ始めた。

 するとそれが功を奏したのか、徐々にだが野兎の動きが弱まってきた。目を閉じ、苦しげであったその呼吸からも荒々しさが消えた。

 少年の庇護を受け入れたのだろう。

 そして受け入れたのだ。死への扉を。

 からへと変貌する事を、自らいま、認めた。

「そう。いい子だね」

 少年の口調も、獲物の息遣いに比例して徐々に落ち着きを取り戻してきていた。

 小さな命の鼓動が、少年の腕を通して身体にまで伝わってくる。その胸で脈打つ生命の温もりを感じながら、少年はそっとこの獲物の様態を確認した。

 前脚と後ろ脚に、それぞれ致命的ともいえる深い傷。

 如何せんこの小さな身体にあの鋏は、巨大で、強力過ぎたようだ。たらたらと流れるこの出血が止まったとしても、この哀れな獲物に未来はないだろう。

「……可哀想に。痛いんだろうね」

 だがこの少年に、その次第を理解出来るはずもない。なおも獲物の頭をさすり、同情するように優しく語りかける。

 少年の頭の中にはいま、静かな葛藤が生まれようとしていた。

 出来る事なら、この命を救ってやりたい。

 しかしやっとの思いで捕らえたグレイスの獲物を、おいそれと逃すわけにもいかない。

 揺れる心の天秤。少年の頭の中を、二つの意見が交錯している。

 目を閉じたまま動かない獲物を見つめながら、少年は苦悩した。

「……父さん」

 少年は父親の名を口にした。

 困った時、苦しい時、辛い時、悲しい時──いつでもその名を呼べば、それらはすぐにでも解消された。だから口にした。

 けれども今回は違った。

 それどころか少年は、いまこの場所へグレイスが戻ってくる事に、躊躇いのようなものさえ感じている。それは少年にとって、初めて経験する感情だった。

(僕は、この子を……?)

 戸惑いながらも、そう確信する。

 自分でも驚きを隠せなかった。生まれて初めて自分が父親の手から離れ、自らの意思で動こうとしているのだ。今朝の後追いとはわけが違う。

 自分は、この獲物を救いたいのだ。

 この傷ついた命の火は、風に飛ばされないよう、少年の腕の中で細々と燃え続けている。ふとこの手を離してしまえば、あっという間に掻き消されてしまいそうな、まるで糸のような、か細き炎。

「ッ……ん」

 乾いた唾を飲みこむ音が聞こえる。

 それが自分の喉から発せられたものであると気付くのに、少し時間がかかった。胸の鼓動が高鳴り、それは指先にまで振動として伝わってくる。

 命はいま、この手の中にあった。この小さな手の中に。

 それを生かすも殺すも、選ぶのは自分しかいない。

(……なら、僕は)

 少年の葛藤がぐらぐらと高まって、やがてそれは一つの頂点に達した。

 同時に、弾かれたように少年はその場へ立ち上がった。

 少年の黒い瞳には、自ら生み出した意思の輝きが宿っている。

「僕しかいないんだ、この子を救えるのは」

 強い決意の眼差しのまま、一歩を踏み出す。その道の先には、先程グレイスが出てきた大地の亀裂が、ぽかんと真っ暗な口を広げて待っていた。

「まだ自分では逃げられないだろうから、元の場所まで戻してきてあげる」

 腕の中の獲物に気を配りながら、縦に伸びる洞穴を、少年は危なっかしくも降りてゆく。途中、ごつごつとした岩壁に何度も頭をぶつけたが、そんな事は少しも気にならなかった。

 少しすると、その縦穴は足場の悪い平地へと変化した。

 中は意外にも広く、少年が屈んで歩けば難なく歩いてゆけるほどの高さがある。しかし深まる暗がりのせいで視界が利かず、今度は低い天井に頭をぶつけてしまう。

 運悪く同じ箇所をぶつけたのか、じんと頭の芯が痺れた。

 今度ばかりは空いた手でその部位を擦り、少年が顔をしかめる。

「もう……少しだからね。もう少し奥まで行ったら」

 ただ少年は、不思議と闇が嫌いではなかった。

 痛みに眉を寄せただけで、物怖じする事なく歩いてゆく。

 自分の指先さえ見通せぬ、圧倒的な闇。並大抵の子供なら、まず泣き出すほどの暗さだろう。大の大人でも気味悪がるに違いない。

 けれど、少年は違った。

 元々の育った環境が、光乏しき土地だったせいか。

 それとも、生まれながらにして闇に魅了された少年だったのか。

 少年の青白い肌は暗闇の中で淡い光を放っているかのようであり、周囲の闇に同調しつつも、一方でどれほどの暗闇にも屈さず、それどころか周りの闇を従え歩くような印象さえ感じさせる。

 少年は、闇が嫌いではなかった。

「あ……!」

 やがて暗闇に目が慣れてきた少年は、何かを発見し、声を出した。

 よく見なければ分からないほどの岩陰の隅に、何匹かの野兎が固まって、小さき侵入者の様子をじっと見つめていた。けれど暗闇の中でも少年と目が合った事に気付いたのか、彼らは闇の中に白い影を泳がせて一目散に散ってしまう。

 声をかける間もない出来事だった。

「……みんな、逃げちゃったね」

 獲物を置いていく場所に困ったように、少年はきょろきょろと周囲を見回した。

 群れがいるならその場所へ帰せるのが一番だったが、それも無理のようだ。薄情というよりも臆病な彼らは、人間が近づいただけで瞬く間に逃げ去ってしまう。

 一歩一歩、闇の中を進む少年。すると少し先の曲がり角から、ほんのわずかな光が漏れている事に少年は気が付いた。

 暗闇に差す、羽衣のように柔らかな光。

 それは幻想的な景色だった。

 まるで羽虫が松明の明かりに吸い寄せられるように、少年もふわふわとその光へ吸い寄せられてゆく。角の先の光が鮮明になってくる。

「すごい……!」

 そこには少年の気を引くに十分な光景が用意されていた。

 闇の中へ射し込む光──それは外から見た洞穴への入口であり、中でいう出口に他ならないが、大地に存在する亀裂同士は、こうして中で繋がっているものも少なくない。ただしこちらは開口が狭く、少年といえど直接の出入りは難しそうだが、それだけに天から射す一筋の光は収束され、より強く神秘的に静寂の闇へと射し込んでいた。まるで実感の湧かない話だが、この洞穴と比べれば、あれでも外はずいぶんと明るいらしい。

 そしてさらに面白いのは、その光に照らされるように地面から突び出している平たい石だ。大きさはちょうど少年の肩幅くらいか。それは小人の国の玉座のように、堂々たる居住まいで光の中心にある。

 言うまでもなく少年はこの光景を気に入った。

「ここを、君の場所にしようか」

 少年は地面に落ちているわずかな枝葉や小石を集め、それを台座の上に飾り立てた。なんて素敵で神々しいんだろう。少年は満足げな微笑みを浮かべながら、獲物が痛がる事のないよう、細心の注意で玉座の上に寝かせてやる。

 こちらも一見、優雅な光景がそこに広がっていた。

 しかしその時点で哀れな野兎がからに変貌を遂げた事に、少年は気付いただろうか。

 動く事も叶わず、自ら死ぬ事も叶わず、闇の台座に奉られた、生きる肉塊。

 生贄はこの場所で生きた血肉のすべてを捧げ、腹を空かせた来訪者のため、孤独に最期の命を燃やし続ける。

 まだ暗闇なら、自ら息を引き取る最期もあったかもしれない。まだ人間なら、苦しまずに殺してやるだけの慈悲もあったろう。

 しかしこれでは、ただ捕食者に発見されるのを待つようなものだった。

 飢えと苦痛に耐えながら、何処かの獣に、生きながらはらわたを喰い破られる。生贄の辿る未来に、それ以外の結末などない。

「……じゃあ、僕はこれで行くね」

 無邪気な笑顔で生贄に微笑む少年。

 時として幼子の無垢な心は、大人よりも残酷な一面を見せる。優しさゆえの行動が最も残酷な行為だという事に、少年はまだ気付いていない。

 少年は手を振り、物言わぬ生贄に最後の別れを告げた。

 次に何者かに発見される時は、生贄がその役目を終える時だろう。助けられたはずの生贄の視線が、闇に霞む少年の背中に注がれる。

 助けて。助けて。助けて。

 その悲痛な視線に、少年は気付かない。

 ぼんやりと闇に蠢く、透けるような白い輪郭。

 それもまた、黒の中へ消えた。

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