第18話:ケアンズの夜ー4
今日の部屋割りは森田と大竹が同室だ。部屋に入ると、2人は几帳面らしく、部屋には少しの乱れもない。表に出ている物といえば、テレビ台の上に行儀良く重ねられた日程表やチェック票などの書類位のものだろうか。大竹はともかく、森田も普段からきちんとしているのか、それとも大竹が怖くてそうせざるをえないのか……。
ともかく2人とも、部屋に入るなりきちんと荷物をクローゼットの中に仕舞い……それでも今日は、大竹は手を洗わずにベッドの上に座り込んだ。
「そしたら、ナイフでやられてる大竹先生から見てあげて」
「森田先生も血だらけなんだけど。その腕の傷はナイフじゃないの?」
「いや、俺のは壁に擦りつけちゃっただけだから」
ケロリとしてそんな事を言う森田に、大竹と設楽は即座に顔を歪めた。
「……そっちの方がひどいんじゃないの?痛まない?」
「ナイフほど深くないから平気だよ」
森田の神経はどうなっているのか。だが、ここで言い争っても仕方ない。設楽も心情的には一刻も早く大竹の傷の確認がしたいのだ。設楽が応急キットの蓋を開けると、森田に促されて大竹がベッドの縁に腰を掛け、シャツのボタンを外した。大竹が目の前で、ベッドに座ってシャツを脱ぐ。こんな状況でなければ夢のようなシチュエーションなのに。
「先生、そのまま横になっちゃって良いよ」
「いや、ベッド汚すわけにもいかねぇだろ」
脇腹の傷を見てみると、大竹が言ったとおり、確かにナイフは軽く掠めただけのようだ。もう血は止まっているが、それでも傷痕は15cm程も伸びている。
「もう血止まってるだろ?固まってる血糊落とすだけだから、後は自分で出来るぞ。それより森田先生の手当をしてやってくれ」
「いや、せめて消毒くらいしてもらって下さいよ、先生。ガーゼで押さえておかないと何かの拍子に傷口開いたらどうするんですか」
言われなくてももう脱脂綿と消毒薬を取り出している設楽に、森田も一緒になって脱脂綿を取り、2人がかりでこめかみやら脇腹やらの血の塊をこそげられる。
「先生、その傷、痛くない?」
設楽が怖々と脇腹の血糊を消毒液で湿らせると、大竹は少しだけ顔をしかめた。
「あー…少しぴりぴりする程度だな」
こめかみの傷痕を拭っていた森田が、大竹の背中を見て「うわ」と声を上げた。
「背中、結構でかい打撲になってますよ」
「そこ蹴り入れられたとこだ」
実は蹴られた時に首への衝撃が強くて、一番痛むのは首なんだと大竹が打ち明けると、森田は「俺湿布持ってます」と自分のスーツケースを開けた。
「先生、それ明日むち打ちになるよ?」
「……そんな感じだな……」
設楽が唇の血をふやかしている間に、森田がうなじから首にかけて湿布を貼ってくれた。それから設楽が唇の脇に絆創膏を貼り、こめかみと脇腹の傷にはガーゼを当てて、他に手当が必要なところがないかをチェックする。腕や脚にも痣が出来ているが、手当てするまでではないようだ。
「ん。それじゃあ先生、後はほっぺたアイシングして」
「おう、ありがとうな」
新しいシャツを取り出して袖を通し、貰った氷入りのビニールをタオルで包んで頬に当てる。森田が「先生、横になってて下さい」と言うので、遠慮なくベッドに横向きに寝そべった。
「……あのさぁ、先生。あんま俺に……生徒に、心配かけないでよ」
横になってじっとしている大竹に、設楽が口をへの字にして声をかける。大竹がじっとしているのは、痛みかのせいか、疲れからか、それとも設楽の機嫌が悪いからなのか……。
「先生、聞こえてる?」
「いや、あの状況じゃ仕方ないだろ?」
「仕方ない?」
大竹の反省のない言葉に、設楽が目の色を変える。
「あのさぁ、ナイフが出てきたときに俺がどれだけ心配したか分かってんの!?」
「おい」
「こっちの心臓が止まるかと思ったよ!教師だからってあそこまで無茶しないきゃいけないってことはないんじゃねぇの!?」
設楽は涙目になっていた。
大竹も森田も、体を張っても生徒を守るのは当然だと思っている。だが、今日大竹が守りたかったのは、自分の生徒ではなく、その生徒を庇うように立っていた設楽だ。設楽がそこに立っているというだけで、大竹は自分がどんな無茶でもしてしまうことを、今日改めて思い知らされた。
本当なら、もう少し冷静になるべきだったのだろう。5対2だ。いくらなんても多勢に無勢だった。森田があらかじめ大場に連絡をして、大場が駆けつけてくるのは分かっていたのだから、それまで時間を稼ぐのが本当だったのだ。
だが、すぐそばに設楽がいると思うと、殴りかかってきた相手を、何も考えずに大竹は殴り返してしまった。そうなってはもう時間稼ぎだの話し合いだのの余地などあるはずもない。
あの時、それを脇で見ていた設楽がどれだけ心配をしたかにまで頭が回っていなかったのも事実だ。自分が設楽の立場なら、言いつけを守っておとなしくなんてとても出来なかっただろう。
「悪かったよ、設楽。ごめん」
それでもすぐ後ろに森田がいる。本当なら設楽を抱きしめてもう大丈夫だと安心させてやりたいが、それもできない。そんな大竹の歯がゆさ気づいたのか、設楽はぐいと目元を擦ると「次は森田先生だよ!ほら座って!」と森田の脇に膝をついた。
「森田先生は、怪我しすぎだよ!」
「えぇ!?5対2だぞ!?俺健闘したよね!?」
設楽の台詞に、森田はショックを隠せない顔をした。
「先生は自分の腕力を過信しすぎだよ!頭から突っ込んでくから、たくさん喰らっちゃうんじゃん!!」
「俺を大竹先生みたいにケンカ馴れしてる奴と一緒にしないでくれ!」
「え?先生、そうなの!?」
設楽が驚いて大竹を見ると、大竹が慌てて森田を睨みつけた。
「ケンカ馴れなんかしてねぇよ!森田、おかしな事生徒に吹き込むな!」
「嘘ですよ!大竹先生、生徒のケンカの仲裁の時も平気で乱闘騒ぎの中に入ってって、自分はちっとも貰わないじゃないですか!今日だってその位の怪我で済むってどんだけですか!俺こんなボロボロなのに!!」
大竹と並ぶと、森田のやられっぷりは確かに目立つ。設楽の言うとおり、森田は体全体で突っ込んでいくから、反撃を喰らいやすいのだろう。
「俺はほら、ガキの頃から8つ年上の兄貴と本気でガチプロレスしてたり、柔道家の友達が何故か柔道だけじゃなくてシステマを教えてくるから、まぁ、多少は体の動かし方を知ってるだけだ」
「システマ?なんですか、それ?」
聞き慣れない単語に森田が聞き返す。大竹は、時々こうして謎の外国語を当たり前のように口にする。
「え……ロシア軍の軍隊格闘技?」
大竹の答えを聞いて、設楽と森田の顔が即座に曇った。その顔が「そら見たことか」と言っているようで、大竹は慌てて首を振り、首筋がズキリと痛んだ。
「格闘技だよ!ただの格闘技!だいたい俺、うちに就職するまで大してケンカしたことないぞ?ストリートファイトなんかして、死にたくねぇし!」
大竹がそう言い訳すると、まだ納得のいっていないらしい設楽がギロリと睨んできた。
「今日のは死ぬかもしれないパターンの奴だよ!!ああいうときは金渡して逃げるのがセオリーだろ!?」
「俺らが行ったら問答無用で殴りかかってきたんだぞ!?逃げようもないだろうが!」
「痛い痛い設楽!そんなきつく擦んないで!!大竹先生、今設楽を刺激しないで~~~!!」
森田が情けない声を出すと、2人は慌てて口々に森田に謝った。
「とにかく、今日のは不可抗力だったんだよ。こんなドすごいこと、まずないから!ね、大竹先生」
「……ああ」
だが教師2人の台詞に、設楽はまるで聞く耳を持たなかった。あんなことを当たり前のようにやってのける2人の言葉など、どうやって信じろと言うのだ。
「信用できねぇよ!もう今度から修学旅行シーズンは俺一生心配するからね!立派なトラウマになったから!」
「悪かったって。ごめんな、あんなとこ見せて」
「ほら、落ち着けって。コーヒー淹れてやるから」
2人がかりで何とか設楽を宥めすかす。大竹がコーヒーを淹れてやると、設楽はそのカップを両手で握りしめるようにして持ち、しばらくじっと固まっていた。
昔、大竹が「コーヒーは恋を忘れた男をその気にさせる魔法の飲み物だ」と言っていた。あれ以来、設楽にとって大竹のコーヒーは、魔法の薬になった。丁寧に淹れられたコーヒーの香りを嗅いでいると、気持ちが和らいでくる。良かった。やっと落ち着いたようだ。
「じゃ、もう遅いから部屋まで送ってくな。森田先生、ちょっと出ます」
「あ、俺頭洗っちゃうんで、鍵持ってって下さい」
「ああ。傷口にシャワー当てないでくださいよ」
「分かってます!」
大竹が設楽を促して外に出る。扉がぱたんと閉まるなり、設楽は腰が抜けたようにその場にしゃがみ込んだ。
「おい、大丈夫か!?」
「大丈夫じゃないよ……!俺がどれだけ心配したと思ってんだよ……」
声が、涙声になっている。大竹は辺りをそっと見回して、設楽を抱えるようにして立たせた。それから階段室のドアを開け、設楽を2フロア下の階まで連れて行くと、その階段に2人で並んで腰を下ろす。
「……先生に何かあったらどうしようって……俺、俺……!」
2人きりになった途端にまた泣き始めた設楽を、大竹は抱き寄せた。もう12時を回っている。こんな時間にこんな所に来る生徒もいないだろう。それに、今はそんな事に気を回しているよりも、設楽を安心させたかった。
「ごめん。ごめんな、設楽。驚かせて悪かった。でもほら、俺何ともなかったし。な?」
その位で設楽が安心するはずもない。設楽は大竹の胸に額をグリグリと押しつけている。いやいやをしているようにも、大竹の台詞を拒否しているようにも見える仕種だった。
「もう2度とこんな無茶しないって、約束しろよ!」
「分かった」
「生徒も大事かもしれないけど、自分のこともちゃんと大事にしてくれよ!」
「分かったから。ごめん。ごめんな。俺もこんな経験初めてだから」
だが、設楽はそんな大竹の台詞の矛盾をすぐに突いてくる。こんな時だというのに、驚くほど設楽は冷静だった。
「嘘だよ!大場先生馴れてたじゃん!」
「いや……それは……過去に1度だけ?でもほら、そん時はケンカになる前にそれで相手が逃げてったから」
「先生修学旅行の引率何回目!?」
「……4回目?」
畳みかけるような問いに一瞬何か口ごもったが、それでも大竹がなんとか正直に答えると、設楽は更に大竹に噛みついてきた。
「確率半分じゃねぇかよ!」
普段良いように設楽を煙に巻く大竹だが、今日ばかりはいつもと立場が反対になっている。設楽の心配はしごくまっとうな物で、大竹が設楽の立場であったとしても同じ事を言っただろう。
それでも大竹は、立場を逆にしたまま何とか設楽を納得させようと言い訳に努めた。
「いや、あんな乱闘騒ぎになったのは初めてだから。な?信じてくれよ」
「あんなすごいケンカ見せられたら、信じられるわけないだろ!?」
設楽は涙目になって大竹の胸元に頭をグリグリと押しつけた。すごい力だ。背中と首が痛むが、この痛みが設楽の不安の大きさだと思えば、やめろと言うつもりもない。
「もう2度とケンカはしないって誓って!」
「……いや、それは……」
「誓えよ!」
設楽にシャツの胸ぐらを掴まれ首に圧力がかかる。だが、それ以上に設楽の目から流れ落ちた涙の方が気になって、大竹は小さく頷いた。
「分かった。次にこういうことがあったら、ちゃんとうまくやるから」
「……その顔は嘘ついてる顔だろ!適当なこと言って誤魔化そうとして!」
「そ…そうじゃねーよ。ただ、生徒の身が危険に晒されてたら、俺らが体張るしかねぇだろ?」
「教師の仕事にそこまでの内容は含まれてないだろ!!お願いだから!お願いだから危ない真似しないで!俺をちゃんと安心させてよ!!」
「分かったよ。分かったから……」
大竹は何度も何度も「危ない真似はしないで」と言い続ける設楽を抱きしめ、背中を撫で続けた。そのうち嗚咽を漏らした設楽は、しばらく泣きやむことが出来なくなった。どれだけ心配をかけてしまったのか。ああ、この不安の大きさが、設楽の気持ちの大きさだ。こんなにまで自分を想ってくれる人がいて、こうして俺を諫めてくれる。俺は何て幸せな男なんだろう。
「分かった。ごめん。お前のために、俺もちゃんと気をつけるから。な?泣きやんでくれよ。お前に泣かれると、俺本当にダメなんだよ」
「先生、先生……」
「大丈夫だよ。お前がそうやって泣くって分かってたら、俺ももう無茶な真似なんてできないから。約束する。約束するよ、設楽」
泣きじゃくる設楽を、大竹はずっと抱きしめていた。非常階段のほの暗い電気が、こんな時はひどく優しい。「大丈夫」「大丈夫」と何度も繰り返しながら、2人はいつまでもそうして抱き合っていた。
そして僕らは手をつなぐ(結晶シリーズⅦ) イヌ吉 @inu-kichi
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
フォローしてこの作品の続きを読もう
ユーザー登録すれば作品や作者をフォローして、更新や新作情報を受け取れます。そして僕らは手をつなぐ(結晶シリーズⅦ)の最新話を見逃さないよう今すぐカクヨムにユーザー登録しましょう。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ネクスト掲載小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます