20.怪盗は『何故』を問う

 カラン――と、汗をかいたグラスの中で冷氷が涼しげな音を立てた。街の大通りを彩る街路樹は爽やかに茂り、どこからともなく夏花のザクロが甘く香る季節。いよいよ穏やかな春は過ぎ去り、ひりひりとした夏日の訪れを思わずにはいられない。


 フレッタはルチアと共に、トリスにプレゼントをした時と同じカフェテラスに座っていた。面持ちは険しく、白い丸テーブル上のアイスコーヒーを一滴も口にすることなく、氷が溶けていくのを粛々と見つめている。同席するルチアも物憂げに口をつぐみ、こちらは胸中の不安をごまかすように、眼前のレモンティーに何度も口をつけていた。


「やっぱり、少し早かったか。にしても日差しが強い」

「お姉ちゃん、おでこだけ日焼けしちゃいそう」

「かもな」


 お互い場を和まそうという気遣いは見え隠れしていたが、空回りに終止していた。口角は油を挿し忘れた歯車のように重く、出てくる返事も素っ気ない。

 やがて、通りを行く人の流れを観察していたルチアが「来ました」と呟いた。呼応してフレッタも目をやり、冷え切ったコーヒーの一口目を味わう。黒い苦味と甘味が喉を潤し、いくらかでも頭をすっきりさせてくれた。

 濡れたグラスを戻すと同時、待ち人は訪れた。


「フレッタさん、ルチアさん、こんにちは」


 トリス。今日も髪留めで前髪を右に寄せ、両サイドを小さくツーサイドアップに結っている。先日と一寸変わらないその姿が、よほど気に入ったらしい。赤と黒の細リボンは風にひらひらと揺れ、彼女の弾んだ心情を表しているかのようだった。


「やぁ。元気そうで何より」

「こんにちはー、トリスちゃん」


 フレッタは改まって座り直し、自然な調子で挨拶する。偽るのは性分だ。そう悟られるものではない。

 ――という思惑とは裏腹に、トリスの表情に微かな影が差す。フレッタは乾いた唇を舌で濡らし、繊細な観察力を胸の内で褒めた。


「……どうしたんですか?」


 彼女は店の壁際の席に腰掛けようと近付きつつ、きょとんと小首をかしげた。

 今日も楽しいお出かけだと思っているのだろう、身だしなみにも余念がない。ただ一点、かわいらしい空色のケープは、気温の上がってきた近頃の外套としては、いささか不自然にも見える。よほどお気に入りなのだろうか。


「小動物ほど危機には敏感ってやつかな。まぁいいや。早速だけど、いくつか確認したいことがあってね」

「確認ですか?」


 フレッタは目線をスゥッと細め、微笑を浮かべた。普段のルチアならば、魂の闇取引を持ちかける小悪魔のような顔だとでも評したことだろう。


「キミは知ってることと知らないことがあるはずだ。ミュステリオン、永久の白雪ビアンカネーヴェの正体について」

「……正体?」


 フレッタは有無を言わさぬ口調で問う。白刃の切っ先にも似た言葉の斬れ味が、トリスの身動きを制する。

 ただ目の前に意識を集中する。通りを過ぎていく雑踏など聞こえない。先ほどまで気持ちを安らげてくれていた、夏花の淡い香りも感じない。蝋人形のように硬直する彼女から、決して視線を離さない。


「まぁ聞きなよ。星命力アリアってのは素晴らしいエネルギーだよな。星をあまねく流れ、万物を活性化させる星の命の力。しかしそれも過ぎたるは毒――過剰に取り込めば人体を変異させ、呪いの痕を刻むこともある」


 トリスは当惑を露わにし、斜め下に顔を伏せた。その視線の動きは、背後に存在する何かを気にしているようにも見えた。後ろには店の外壁しか無い。拾ってきた子犬を背中に隠している、という程度ならば可愛いものだが――


「それは、知ってますけど……」

「あぁ、基礎知識だな。呪痕症患者でもあるキミが知らないはずはない」


 のらりくらりした物言いに対し、彼女は胸元にギュッと手を当てた。焦燥する様が手に取るように分かる。やはり本来、彼女はウソや隠し事が出来ない不器用な娘さんなのだろう。

 もはや、三人で楽しもうとやって来た少女の面影は既に無く。姉妹との狭間に、透明な分厚い壁が現れたかのような隔たりを感じさせる。


「だけどさ、これは見たことないだろう?」


 そう言ってフレッタは、テーブル上に置かれたを手に取った。

 一番上にあるのは、古ぼけた写真だ。紙質も画質も非常に悪く、かなり古いカメラで撮られたものだろうと推察できる。

 二枚目と三枚目は、経年ゆえか色あせて黄ばんでいる。写真と同時期の物だろう。最後の一枚だけが、真新しい紙だ。

 差し出されるがままに、トリスはまず写真を見た。


「ひっ……!」


 即座に小さな声が漏れ、空いた左手で口元を覆う。ありえない――歪んだ表情がそう訴えている。あまりにおぞましいモノからは逆に目が逸らせないものだが、まさしく今のトリスがそうだろう。

 フレッタとて、初見の反応は似たようなものだった。これを見て嫌悪が先行しない者などそうはいまい。


 そこには、頭頂からつま先まで全身を真っ黒な呪痕紋様に汚染された老男性の遺体が写されていた。


「これ、は」

「見ての通り、呪痕症患者の古い写真だよ」

「じ、呪痕は身体の一部分に発現する……はずの、ものです。こんな……ぜ、全身を覆い尽くすなんて、聞いたこと……」

「だが事実はそれだ。動かぬ証拠だろう?」


 淡々としたフレッタの言葉。事実を確信しているからこその諦観が、大気を震わせた。

 写真の老人が、全身に気味の悪い刺青を彫り込んだ好事家でないことは明白だった。マッゼオ薬剤店の一室で、何度も呪痕症特有の紋様を見たことがあったからだ。あののうたち回る蛇のような、禍々しく生え狂う妖樹のツタのようなパターンを全身に渡って筆致で再現できるなら、その人物は稀代の画家になれるだろう。

 急に空気が抜けてしぼんだかのような、衰弱しきった身体つきも生々しい。これほど汚染された場合、どれほど精神に影響が出るものだろうか。長時間に渡って発狂した末に死亡したのではないかと、イヤな想像をしてしまう。


「詳細は、二枚目以降の資料をザッと読んでみるといい」


 弱冠十四歳の少女が目にするには、あまりにもショッキングな写真。

 わずかな救いを求めるように、トリスは『資料』へと目を通す。わななく手は、ほんの数枚の紙をめくるのすらも手間取っている。

 そこに絶望しか無いことを知っているフレッタは、頬杖をつきながら嘆息した。


「……そんな」


 やっと絞り出した、蚊の鳴くようなトリスの声。とても演技とは思えない。本当に初めて見る内容だったのだろう。


 ――特定呪痕発症例八号に関する調査報告カースマンズ・ケースⅧ。それが、その写真と二枚の紙片から成る研究資料のタイトルだった。およそ四十年前、とある異質な呪痕症患者についての調査内容を記録したものらしい。

 発見時、患者は死亡から既に数日が経過。外見から××地方出身の七・八十代男性と思われていたが、遺体を可能な限り調べた結果、実年齢は二十代の若者であることが判明――以下、専門用語を交えた簡潔な報告が記されている。

 ただ、この不気味な研究は一体どこでなされたものなのか? 作成者は誰か? そういった、出典に関する記述が無い。あまりに眉唾な内容も手伝って、これでは仮にどこかでこの資料を入手したとしても、信憑性すら分からない。とりあえずホコリっぽい資料保管室に放置され、そのまま忘れ去られていたとしても不思議は無いだろう。


「昨日ちょっとばかし、ヴィヴィアーニ研で潜入調査ってヤツをして来たんだ。キミのことがどうしても気になってね。そこで、そいつをちょいと失敬させてもらったんだよ」

「そんなことを……た、ただのイタズラの類ですよ。わたしに、何の関係が」

「とぼけるのはやめてくれ。四枚目――一枚は、見逃すわけにはいかないね」


 そう、トリスも気付いていた。真新しい紙に記述された内容は、父しか知り得ないはずのものだと。よく見慣れた筆跡は、間違いなく父のものだと。

 それが謎の研究資料と一緒に纏められていた。そこにつながりを見出さないわけにはいかない。


「四枚目に書かれているな。可視状態に物質化した純粋な、それがあの【永久の白雪ビアンカネーヴェ】の正体だと。キミは、それだけは聞かされていたはずだ」

「……はい」

「だけど、似たような物質を浴びて廃人と化せば、その写真の男のようになってしまうってことは知らなかったんだろうね。今、資料を読んだキミの反応を見てハッキリした」

「……」

「おそらくキミのお父さんは、その『三枚の資料』を見つけて、ずっとその真贋に取り憑かれていたんじゃないか。熱心な呪痕専門の研究者なら、気にならないはずがないだろう」


 友達になれたばかりの少女、その父親をおとしめるような発言への躊躇が無いと言えば嘘だ。だが知ってしまった以上は、道半ばで戻ることは出来ない。例えそれが、一時でも友の心を傷つけることになろうとも。

 フレッタは右手首に巻いた【黎明の蒼アッジュリーテ】を横目に見やり、アイスコーヒーを一口飲んだ。


「ヘタなミュステリオンよりもタチが悪いな。たとえば人工的に、いとも簡単に呪痕症患者を作ることができそうだ。毒ガスを撒き散らす、化学兵器のような使い方もできる」


 トリスは一歩退いた。それを咎めるように立ち上がると、小さな悲鳴のようなものが聞こえた。彼女はイヤイヤをするように頭を小さく振っているが、やはりこれも『肯定』と受け止めざるを得まい。


「カーディナーレ卿から雪を盗んだ時、妙に警備の抵抗が弱かったのも合点がいったよ。珍しさと美しさに魅了されて、彼はゼビアノ氏から雪を横取りした……そこまではいいけど、卿はあとで『正体』を知ったんだろう。使用人が犠牲になったのか、まぁ何にせよ、その辺は金の力でもみ消したかな。それで怖くなって、始末に困ったに違いない。安易に処分するのもためらわれただろうさ」

「それを、ルチアとお姉ちゃんで盗んだ。向こうにとっては、むしろ都合が良かったんだよ」


 そう言って空を仰ぐルチアを見やり、フレッタは苦笑した。その心中もよく分かる。護られているモノを如何に盗むかに心血を注いできた身として、腑に落ちない思いは拭えない。盗む達成感が無いからしっかりしまっておけという、なんとも理不尽な話ではあるのだが。


 さらにトリスはこわごわと二歩下がり、いよいよ店の外壁に背がついた。逃げ道は左右にしかない。フレッタも合わせて二歩の距離を詰める。トリスの顔の真横から右掌を壁に突き、軽く寄りかかる。フレッタの方が頭一つ分は背が高く、トリスは完全にその影に隠れる形となる。

 フレッタは上目遣いのトリスを見下ろしながら、これから愛の言葉でも囁くようなていで、優しげに微笑んだ。


「聞かせてもらうよ、トリス。ハッキリ言うけれど……キミのお父さんは不穏だ。そもそも、あそこで一体どんな研究をしていたんだ? 危険なことなんじゃないか?」


 言ってすぐに、フレッタはズキリと胸の痛む思いがした。二つ目の問い掛けは、自身に返ってくるものでもあったのだ。

 自分の仕事は誰かからモノを盗むことであって、それ以上、首を突っ込む意味など無い。怪盗が黒衣に身を包むのは何のためか。偽りの仮面で月夜に語らうのは、戯れの酔狂だったのか。アイデンティティ、ポリシー、ロマン――そんな蠱惑的な響きを除いて突き詰めていけば、全ては、舞盗のウィンディアの正体を隠すためだ。

 今の自分は逆行している。仕事は終わったのに、こうして依頼主の身内に関わり続けるなど、それこそ危険極まりない。ただ己のリスクを引き上げるだけ。火中の栗の例えですらない。


 では、何故。どうして今、自分はこんなところにいるのだろう。己を問い直したい想いが渦巻く中、目の前の少女はうつむいた。

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