第四章 呪いの烙印

15.魔法使いのお医者さん

 『マッゼオ薬剤店』と書かれた看板を提げた、小さな一軒家。その最奥に、壁一面を雪色に染め抜いた小部屋があった。

 椅子も机もベッドも、全ての調度が歳老いてくたびれている。天井に吊るされた、大きなガスランプだけが唯一の光源だ。そんな殺風景に染み込むのは芳香剤のジャスミンの香り、そして薬品と血肉の入り混じった異臭――健康優良な人間には縁遠い、医術の残り香。

 概して『治療室』の体裁は繕っているものの、咎人の収容所と言われても納得してしまうかもしれない。

 フレッタは、来るたびに気が滅入るこの部屋が嫌いだった。


(あと少しだ。これは忍耐力の修行、忍耐力の修行……)


 夜でもないのにウィンディアの黒衣姿で、平常心を保つよう努めていた。人より鼻が利くことを、この時ばかりは恨めしく思う。

 傍らでは白衣の女が机に向かい、無表情で書き物をしている。


「ほんと、ふーちゃんってばぴっかぴかの健康優良児だわねぇ。医者の儲けのことも考えてほしいわ」

「よく食べ、よく寝て、よく運動し、よく妹を愛でる。日々の積み重ねの賜物だよ」

「るーちゃんから謎の栄養でも摂取してんのかしら。イモウトニウム的な。一人っ子も気楽でいいわよぉ」


 そうぼやく彼女の辞書に『換気』の二文字は無いらしい。『ふーちゃん』が言外に抗議の一瞥をくれてやっても、返ってくるのは三白眼の眠たげな眼差しだ。ごてごてした機械仕掛けのモノクルに覆われた左眼の奥に、吸い込まれるような黒い光を湛えている。今頃、パステルメロディの売り場では『るーちゃん』がくしゃみでもしていることだろう。

 自前の黒髪をもしゃもしゃと弄くりながら、彼女は「よし」と呟いた。


「それじゃ十回目。これで最後よぉ」

「あぁ」


 星を巡り、あまねく生命の根源を成すエネルギー、星命力アリア――全身へ行き渡る、その力の流れを己の意思でコントロールする。

 こうと脳裏に描く瞬間、薄桃色の燐光が右掌に淡く灯る。何度か開け締めして感触を確かめ、一気に正面奥の戸棚へ右腕を振り抜いた。光のウィップがかまいたちのごとく駆け、透明な小瓶に引っ掛かる。


「ほっ!」


 右手首を反対にスナップし、ウィップを瞬時に収縮。光に導かれるよう小瓶が宙を舞う。

 それを瞬時に空中で切り離す。小瓶は緩やかな放物線を描き、天井ギリギリで重力に引かれ始める。頂点に達する一瞬、それを見極め再びビュンとウィップを奔らせる。


 ――バリィンッ!


 小気味良い音が響き、粉々になった無数のガラス片が床に降り注ぐ。ウィップの先端は小瓶をキャッチすることなく、あたかも本物の鞭打のごとく破砕した。

 ウィンディアへの変身時だけ使用可能となる、破砕の鞭――苦労して使い分けられるようになったが、今でも細かな力加減を必要とすることに変わりはない。だからこそ彼女は、ウィップを殴打用の武器としてはほとんど使用せず、もっぱら三次元機動の補助に用いるのが常だった。


「こんなもんかな」


 軽く言ってのけ、ウィップをリボンのようにひゅんひゅんと振り回す。手首のしなりとて、泡立て器でクリームを混ぜるようにしなやかだ。

 白衣の女はそれを見て満足そうに頷き、さっきまでの無表情が嘘のように破顔する。


「んふふ、相変わらず精度バッチリ。伸び盛りねぇ。何度見ても飽きないわ」


 彼女はモノクルの機械仕掛けをカチャカチャと弄り、顔から取り外した。一息つくや否や、今度は目にも留まらぬ速度で手元の用紙に何かを書きつけていく。二十歳と少しといった妙齢の面立ちが、ひとたび笑うと一気に幼く見える。


「そりゃどうも。大事な商売道具なんでね、衰えてもらっちゃ困る」

「イイ歳した娘っ子が枯れたことゆーもんじゃないのぉ。星命力アリア集光値も依然として微増傾向よ。貴女の特盛りお乳と同じねぇ」


 余計な一言を付けなければ気が済まないのか、このヤブ医者は。そう思いつつ、フレッタは目の前にいる女の首の下あたりを見下ろした。何がとは言わないが、自分の方が勝ってる。


「まったくこの人は。才能だけはあるってのに」

「このまま進化したら、もっとスゴい魔法だって使えるかもしれないわ。ぜひ人間のさらなる限界を見せてほしいものねぇ」

「これ以上マノンの実験台にされるのはゴメンだよ。頼むから検診だけしてくれ」


 フレッタは苦笑した。白衣の女――マノン・マッゼオの薬剤師としての腕前が確かなのは、こうして一端の店を構えている時点で分かる。加えて持ち併せた、魔法使いの体調変化をチェックできる知識。魔法を多用する身として、信頼の置ける専門医の存在は、とても心強い。

 とはいえ、いかんせん知的好奇心が過ぎる。


「ジュネロの旦那も貴女の母親フェデリカさんも、頭かたいのよぉ。私のメス捌きでちょぉっとお腹裂いて腑分けしてぇ、調べたらすぐに詰め戻してあげるだけよ? 婚前の生娘きむすめに傷痕残すようなヘボじゃないってのよ」

「こちとら盗賊。クルミひとつぶ摘まれるようなノリで内蔵でも盗られた日にゃ、笑い話にもなりゃしないよ」

「んなことしないってばぁ。私だって貴女の主治医やってかれこれ二年よ。そろそろ信用してくれてもいいじゃない」

「大丈夫、してるって。闇医者も盗賊も、お天道様に睨まれてる同志だしな」


 薬売りを隠れ蓑にした闇医者兼研究者の名目で、怪しげな研究をどれだけ行ってきたのだろう。部屋に交じる血肉の匂いから、それを想像するのははばかられた。


「るーちゃんの義眼の調子は?」

「問題無いみたいだ。手入れも毎日ちゃんとしてる」

「んじゃ大丈夫だわね。たまには顔見せてって言っといてねぇ」


 ルチアはフレッタに輪をかけてこの部屋が大嫌いで、めったなことでは来たがらない。夢あふれるメルヘンとは対極に位置する暗黒空間だ、無理もない。

 マノンはモノクルの機械仕掛けをかちゃかちゃと弄り始めた。星命力アリアの濃度を計測する機械だという。ルチアの義眼を調整したのも彼女だった。部屋の隅にある得体の知れないガラクタの山も、その類友といったところだろう。


「ところでさ、マノン」

「なんじゃらほい」


 検診が終わったら適当に雑談でもして帰るところなのだが、今日は違う。


「ヴィヴィアーニ星命科学研究所って知ってるか」

「え、知ってるけど。藪から棒にどしたの。ドロボーやめて研究者でもやるぅ?」

「グラス・リドッティオの海鮮フルコース、週イチで食えるくらい給料出るなら考えるよ。……その研究所が一体どんな所なのか、ぜひ知りたいんだよね」


 人生で一度は腹一杯食べたい高級レストランの名を挙げつつ、フレッタは強い口調で迫った。

 さすがに真剣味を汲んだか、マノンの口から薄いため息が漏れる。


「……規模も研究内容も、平々凡々な研究所よ。主な研究分野は星命力アリアと生態系の関わりについて。所長さんがたしか、えぇと。深海に星命力アリアを用いた危険感知能力を持つ魚類がいるとか何とかって有名な論文出してる。んんでもまぁ、私はどっちかというと技術利用の方に興味あるから、たとえスカウトされてもお断りだわね。だいたい私の才能を――」

「そこの所員の娘に、呪痕症患者がいるんだ」


 よどみない早口を遮るフレッタの一言に、マノンは目を大きく見開いた。

 彼女は倫理観こそズレているが、トリスのことを言いふらしたりはしない。そう信頼できるからこそ切り出せた。


「驚き桃の木そいつは初耳。直接会ったわけ? 娘って何歳? ちょっとちょっとドロボー風情がさぁ、なに面白そうなことに顔突っ込んでんのよぉ」

「企業秘密。顔の広いアンタが知らないってことは、あの娘、外の医者の世話にゃなってないってことだな。……予想通りだけど」


 その言葉にマノンは鼻息荒く立ち上がると、戸棚から一冊の薄いファイルを持って戻ってくる。


「それは?」

「この街にいる呪痕症患者リストの最新版。どっから手に入れたかは聞かない約束ねぇ。商売柄、あると便利なのよこういうの」


 開かれたファイルには、幾人もの個人名とプロフィール、覚え書きが書き連ねられていた。どのページも筆跡が一定でなく、何人もが後から後から書き足していったものらしい。


「そんなに大した人数はいないんだね」

「そりゃそうよ、アレ発症するなんて何千人に一人ってんだし。しかも、この名簿はあくまでウチらが把握してる限りよ」

「発症を隠そうとする人は多いからな。あの娘と父親もその口ってわけか?」


 差別――不愉快な二文字が脳裏をかすめた。

 一週間前、蒼宝晶サファイアを盗みに入った際の出会いを思い出す。あの日を未だに忘れられないのは、決して下弦の月の美しさのせいだけではない。

 大男の凶暴極まる獣性。父を慕うがあまり、凶行を選んだ少女。呪痕のはらんだ恐ろしさに、あらためて背筋の寒くなる思いがした。


星命力アリアって、何なんだ。人の活力、魔法の源、しかし過剰であれば呪いとなる……」

「星の命の力。世界の血の流れ。進化の促進剤。エネルギーが何考えて人を進化させるかなんて、ウチらにゃあと三百年経っても理解できんと思うけどねぇ」

「呪痕って、人の進化なのか?」

「都合の良い能力獲得だけが進化ってのは、結構なエゴイズムだわね。退化だって進化の内よ。星命力アリアさんにとってみれば、魔法も呪いも違いなんて無いんじゃないのぉ?」


 何ごとも人間本位に考えてしまうのは、人間の悪い癖だ。自然とその泥沼にハマりかけたことに気付き、フレッタは小さく唸る。

 やがて、ファイルをめくるマノンの手が止まった。


「載ってないわねぇ。そんなちっこい患者の話、聞いてたら忘れるはず無いし」

「そっか……。どのみち、ワケ有りなのは間違い無さそうだな。ありがとう、参考になったよ」

「どういたしまして」


 マノンは上体を反らすよう大きく伸びをしながら立ち上がった。本来なら患者が使うであろう固いベッドに移動し、仰向けに寝転んでしまう。


「ふーちゃんお疲れぇ。検査結果良好っす、もう帰ってえぇよ」

「そうするよ。また今度よろしく頼む」

「あんま変なことに首ツッコむんじゃないわよぉ?」


 天井を見たまま、手だけ振って別れを告げるマノン。相変わらずスイッチのオンオフが激しい彼女に苦笑しつつも、フレッタは診察室を後にした。

 表の業務用である薬剤売場を経由し、店外へ出る。そこでジュネロが待っていた。視線を合わることなく、フレッタは少し距離を取って壁に寄りかかる。


「マノンもやっぱ知らなかったみたいです」

「そうか。で、?」

「もちろん。気になったら気が済まない性分なもので」


 ふふん、と鼻息を鳴らしてフレッタは答えた。

 ルチアがいたならば、同調して持ち上げていたことだろう。


「それじゃ、明後日はどうだ?」

「あら、随分とお早い」

「俺としても都合がいい。今夜にでも詳しい打ち合わせをしよう」

「あたしの考えはお見通しってわけだ。分かりましたよ、夕飯いらないってルチアに言っとかなきゃ」


 ちゃっかりしやがってコイツ、と苦笑するジュネロ。こういう時、入った店で特に高いメニューをおごらされるのがお決まりだった。

 ヴィヴィアーニ星命科学研究所への潜入作戦が決定したのは、その夜の会食でのことだった。

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