17.博学たる銀獅子

 フレッタは扉をノックした。しかし、一向に返事が無い。


「さて。誰もいない、わけがない、踊ったら開くってわけでもあるまい、と」


 遠い東の国では、閉ざされた扉の前で裸踊りをすると開くという謎の風習があるとか何とか。

 気を取り直し、返事がないならばと扉を開ける。


「失礼しまーす」


 おそるおそる半身で覗き込むと、清潔さと無機質さの混ざりあった光景が目に飛び込んだ。

 細長い部屋だ。ガラス扉の戸棚がずらりと並び、資料類と共に様々な薬瓶や金属製の器具がしまいこんである。中央には数台の大きな金属机が据え付けてあり、用途など皆目検討がつかないような実験器具がその上を我が物顔に埋め尽くしていた。人工的な質感に溢れ、生命の匂いが感じられない。

 奥の方に目をやると、白衣姿の五人の男達が立っていた。金属製ののような、数メートルはあろうかという巨大な機械装置を囲み、ああでもないこうでもないと口論中の様子だ。


「あの、すいませ~ん」


 わざとらしい緊張感の無い声で呼びかける。ようやく五人が一斉にこちらを向くと、同時にどよめきが伝わってきた。

 そのうちの一人、もっとも歳上と思われる壮年の男が歩いてきた。大柄な体格に見合った、泰然たる足取り。逆立たせたオールバックと立派な髭が印象的で、野生の獅子を思わせた。


(……この人が)


 対峙し、こちらを見下ろす鋭い眼光を真正面から受け止める。その人相は、ジュネロやトリスから聞いて想像していた以上に、圧し潰すような迫力があった。

 この銀髪の獅子男がトリスの父親――ゼビアノ・ラフォレーゼ、その人に違いない。


「ラフォレーゼ教授、でしょうか?」

「いかにも。貴方は何者かね? 困りますな、勝手に入室されては」


 諭すような言葉。本人は自然体のつもりなのだろうが、よく通る低い声音もまた、威勢を助長するものでしかなかった。その無骨な手でかわいいペンギンのマグカップを取り、娘と共に昼下がりのコーヒーを楽しむ姿など、滑稽でも笑うに笑えまい。


「申し訳ありません。ノックしても返事が無かったもので、つい……」


 しかし事は想定通り。

 ペコペコと頭を下げ、こういう者ですと偽造身分証を示す。返してゼビアノは「ほう」と特に抑揚無く一言。他の四人に作業を続けるよう告げ、再びこちらを値踏みするように見下ろしてくる。この上背では、大抵の相手にはそうならざるを得ないに違いない。

 第一印象では、見た目も態度も、この父にしてこの娘――とは言いがたい。きっとトリスは母親似なのだろう。この父親から受け継いだのは、せいぜい髪と眼の色くらいのものだろうか。


「ジンギスブルグから参られたとは、ご苦労なことだ。それでラッザロ君、吾輩に何用かな?」

「あぁ、申し訳ありません。実は本日は、フェルミ教授への訪問の付き添いで来たんです。ぼくは、一介の助手でして」

「フェルミ? あの男は今、この研究所にはいない。受付も知っているはずだが……」

「えぇ。そう聞きまして、研究チームの方々に挨拶だけでもと。ただ、その……お花を摘みに行っている間に、ウチの教授が先に向かってしまいまして」

「部屋が分からなくなった、というところか。察するに、君は研究者としてもまだまだ見習いらしい。迷える内に、大いに迷っておくといい」


 方便にゼビアノは納得したらしく、ふむふむと鷹揚に頷いた。機嫌を損ねた様子も、追い出そうとする素振りも見られない。


「ぼくは、その、おまけなので……ゆっくり後から来て構わない、とは言われたんですけど」

「ふむ、ならばこれも何かの縁だ。少し話でもしていかれるかね。茶の一杯も出せはしないが」


 すんなり駆け出しと見くびってもらえたのはありがたい。フレッタは心中でニヤリと笑い、キョロキョロと周囲を見渡してみる。年若い見習い風情が、見慣れない研究設備に興味を持つことは不自然でも何でもない。


「ラフォレーゼ教授は、呪痕について研究されているとお聞きしています」


 呪痕症患者は世間的に蔑視されがちな存在だが、その研究までは禁止されていない。もっとも、それは拾い食いをしても法に触れないというレベルの話であって、あえて好き好んで手を出す者は僅かだ。表立って憚られるからこそ、マノンのようなはみ出し者達は裏で懐を潤せている。


「その通り。呪痕……まぁ我々の場合、より厳密には主に霊長亜目における星命光の剰集貸与に比例して変動するペアノ自由変数及びヴォルテッラ効果による非漸近性が人体に及ぼす影響について、といったところか」

「なるほどひじょうにきょうみぶかい」


 何一つ分からなかった。きっと『香草燻製仕立てのエヴェレアサーモンとカットローノ産生ハムのサワークリーム掛け~焼き立てのソルト・ロゼッタパンに乗せて~』みたいなものだろう。そう思っておく。

 あまり突っ込んだ会話はしたくない。彼の気が変わらない内に、知りたいことを知っておくべきだった。


「呪痕は専門外なのですが、とてもデリケートな分野ですよね。身内に発症者でもいない限り、話を聞くのも中々難しいでしょう」


 手近なビーカーに目をやりつつ、世間話のように言い放つ。こんなもので飲むコーヒーが美味いとは思えなかった。


「まさしく。生体、特に人間の呪痕症患者に対する風当たりは恐ろしく強い。臨床実験も不可能だ。……だが、ここの設備だけでも多様な因子設定のもとで十分な反復実験が可能。呪痕のメカニズムについて、いくつもの実証データが得られている」


 果たしてそのデータで患者を救いたいのか、未知なる真実を追究したいだけなのか、どうにも推し量りかねる。


「先日、ミューズ鉱山で発掘された雪もその実験に?」


 永久の白雪ビアンカネーヴェの存在自体は、すでに同業者にも知れ渡っていることだ。それを実験に利用するであろうことも、想像がつくことだった。


「もちろんだとも。あれは、吾輩の研究に多大な利益をもたらしてくれる存在。援助金を惜しまなかったカーディナーレ卿には、まったく頭が上がらない」


 一度強奪された挙句あたしに盗り返させたくせに、とは口が裂けても言えない。公には、永久の白雪ビアンカネーヴェの所有者は一貫してこの教授ということになっているのだから。

 教授からすれば、卿は喋るお財布でしかなかったわけだ。まったく美しい友情である。


「政府の木っ端役人どもとは大違いだろう。連中め、科学のカの字も語れぬくせに、ただでさえ少ない科学研究補助費用科研費を渋る悪知恵だけは一端ときたものだ」

「パトロンの羽振り、ずいぶん良かったみたいですね。これからの活動にも何か展望がありそうですが」

「あぁ、奴ら政府の首輪付きの端金はしたがねなどもう必要ない。涸れた険しい隘路あいろにようやく光が差した気分だ。あの雪が星命器物ミュステリオンに類する物質であることは、まず間違いない。……おっと、これ以上の詳細はお話しかねるな」


 彼の視線が一瞬だけ、部屋の奥のひょうたん機械に向いたのをフレッタは見逃さなかった。家畜から搾った牛乳を貯蔵しておくような、大きな円筒状の容器が近くに置いてある。あの中身に、何らかの作用を及ぼす機械だろうか。


「……すみません」

「いやいや、結構なことだ。今はさほど忙しくもないのでな。他愛ない雑談もたまには悪くない」


 研究スパイの可能性でも疑われるかと覚悟していたが、特に敵意は見られない。むしろ仕事続きで息が詰まっていたところで、つかの間のくつろぎを楽しんでいるようにさえ見える。悪い言い方をすれば余裕綽々、こちらの存在など歯牙にもかけていないということだ。

 フレッタは彼の目線と相対したまま、なおも考える。彼は『吾輩の研究に~』と言った。雪は研究所ではなく、彼個人が欲しているものであることが窺える。


「興味、好奇心こそ新たな発想の母と言っていい。吾輩など、この歳になってもそんな心根が未だ尽きることを知らぬ」


 その好奇心が猫をも殺したりするわけだ。人は仮面一枚かぶれば別人。冷静に努めて見える彼の内には、学問への黒々しい妄執が百足のごとく這い回っているような気がした。

 まだ、この男に聞きたいことはある。しかし、いかに変装しているとはいえ、あまり顔を覚えられたくもない。

 限られた次の問いを選ぶ迷いは、デスクの隅に目を向けた瞬間に霧散した。

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