雪月のマスカレード ー 舞盗は夜風に銀と舞う

あさぎり椋

プロローグ

01.舞盗(ぶとう)のウィンディア

 深く穏やかな夜の雲間に、銀の月が冴えている。きらびやかな星の海が広がる、静寂のひととき――しかし、月下には火急の様相が見てとれた。


「急げ! まだ遠くには行ってないはずだッ!」

「やられたのは『蒼宝晶サファイア』だ。退路を抑えるぞ、お前らはエントランス側に!」


 屈強を絵に描いたような男達が十数人ばかり、カンテラ片手に大屋敷の中を駆け回っている。誰もがその強面に焦燥の色をにじませ、口をいて飛び出すは怒号の応酬。

 いかに状況が差し迫っているか、一目で知れようというものだ。


「犯行予告を見た覚えはねぇ! くそっ、どこのどいつだ!?」

「現場にはが残っていました。このやり口は一体……!?」


 侵入者の正体がつかめず、飛び交う情報は錯綜していた。それでも、ただ一つの確信が彼らの走る足を止めさせない。

 たとえどんな名乗りを上げたところで、相手は忌むべきに他ならないと。


 真夜中の邸宅に忍び込み、大切に保管された蒼宝晶サファイアを盗み出す犯行。こうもたやすく警備の隙を突かれたとあっては、雇われ警備員である彼らが躍起になるのは当然だ。

 ましてや、この屋敷はシティ・アルムジカでも幅を利かせる富豪の本邸。金に物を言わせた名声に傷がつくことを、彼らの主人は何よりも怖れている。ご主人様のおこぼれ目当てで取り入った手前、万が一ご機嫌を損ねれば、苛烈なは免れないだろう。


 ただ一人――そんな惨状を、中庭に面する三階バルコニーから悠々と覗き見する人影があった。


「にひひ、やってるやってる。家ン中いくら探してもムダだっての」


 どこか中性的な女声の呟きが、澄んだ夜風に流れていく。独り月光の下に佇み、その身に纏うは闇へ溶け込む黒衣。明けの夜空を思わせる鮮やかな藍色アズライト・ブルーに縁取られた流麗な意匠は、たしかな凹凸のある少女の体貌をかたどっている。


 彼女は口元がほころぶのを抑えられなかった。目鼻周りを覆う仮面越しに、特等席から舞踏会の観覧を楽しむような愉悦が浮かんでいる。それでいて、目元に空いた穴から覗く両の碧眼は、男達の次なる動向を見逃すまいと怜悧れいりな色をもたたえていた。


「悪く思うなよ。キミ達はそうやって夜通し踊り明かしてるのが似合いさ」


 今宵のミッション、潜入そのものは決して難しいものではなかった。勘付かれ、つかの間の逃走劇を演じることになるのも想定の範囲内。統率された素早い対応に悪態をつくどころか、さすがの手際と褒める余裕さえあった。

 もっとも――手癖悪い乙女のハートを射止めるには、あと一歩の踏み込みが足りないようだ。


「これだけ揃いも揃って、にぶちんときたもんだ。……さーてと」


 中庭方面に目が向けられるのも時間の問題だろう。いつまでも、観劇の悦に入っているわけにはいかない。

 ひとしきり満足したところで、桃色がかった金ストロベリィ・ブロンドのツインテールが涼風になびいた。心地良い追い風を受け、薄手のロンググローブに覆われた手先で前髪をそっと漉く。垣間見える額には汗一つ浮かんでいない。

 彼女は黒衣のスカートを翻し、背後の手すりに後ろ向きのまま飛び乗る。さらに自分の身長を遥かに越える高度から、そのまま空中へ向けてためらい無く背面跳躍――そして落下。


 白銀の月光を照明に、怪盗少女の影が夜風と踊る。


 空中で、右掌が淡い薄桃色の光を放った。矢継ぎ早に右手をバッと天へ突き上げる、その勢いに乗せて光は伸長、駿馬しゅんめに打たれるウィップのごとくしなり、先っぽがバルコニーの柱に纏わりついた。

 光のウィップがピンと伸びきる。すぐに振り子の要領で壁際へと揺られ、ぶつかる間際でタイミング良く壁を蹴る。吊るされたまま、彼女は己の意思で光の鞭を少しずつ伸長させ、壁をトン、トンと蹴りながら軽やかに地上へと降りていく。露出した二の腕をそよ風が撫で、わきが少しくすぐったかった。


(ハデにキメても、誰も見てない寂しさよ。……ま、見られちゃ困るんだけど)


 のんきなことを考えながら、事も無げに着地する。光に消えるよう念じると、闇に灯った薄桃色は跡形もなく霧散した。

 万事、滞りなく進んでいる。微笑を浮かべ、腰に吊したポーチへ視線を落とす。中にはつい先ほど、屋敷の主である悪名高い成金卿から頂戴した宝物が収まっている。あとでゆっくり吟味するのが、今から楽しみだった。


(お家に帰るまでが盗賊だもんな。ここで落っことしでもしたらカッコつかないよ)


 ぽんぽんと愛でるようにポーチを叩き、緩んだ気持ちを引き締める。傷物にでもなれば目も当てられない。でこそないが、高価な宝石であることに違いはないのだ。


 おぼろげな月明かりの中で、改めて周囲を見渡した。豪奢な造りの噴水を中央に据え付けた、野外パーティでも気軽に開けそうな広い中庭だ。周囲を彩る春季の草花達は、今はそろって恥じらうように顔を伏せている。

 ただただ、露骨な絢爛さで財力をアピールしようという悪趣味な造りが、素人目にも見え見えだった。少女は不愉快そうにへの字口を作って、噴水の真ん中で微笑む女神だか天使だかの像に、なんとなくあっかんべーをくれてやった。


「さーて、盗賊戦線異常ナシ。あ、と、は、っと」


 脱出経路を改めて確認しようとした時だった。

 彼女は庭園の隅っこ、月明かりの死角となっている暗闇に向けて目をみはった。


(あらら)


 見れば何者かの人影があり、こちらをめつけているではないか。

 やれやれ、と面倒そうに彼女はうなじを掻いた。


「こんばんは。あたしを抱き締めにでも来てくれたの? お目が高い。今ならチャンスだよ、夜空の月しか見ていないもの」


 それなりに高くつくけどね、と戯れに天の月を指してみるも、返ってきたのはピリピリと刺すような敵意ばかり。

 そうして暗がりからのっそりと姿を現したのは、見上げるほどに背の高い大男だった。筋骨隆々とした体躯に鋭い眼光、ギリと歯を食いしばる様は、腹をすかせた猛獣さながらだ。

 少女は月光で改めて判別できた姿に、思わず目を細めた。巨躯に恐怖を感じたわけではない。大男の二の腕――そこに刻まれた、波打つ蛇のような紋様を認めたためだ。


「……呪痕症じゅこんしょうときたか。こんな人まで兵隊にしてるんだな。ただでさえ湧いた頭にカネが積もり積もって、悪どさも天井知らずってわけか」


 彼女はキッと振り向いて屋敷を見上げ、怒りに拳を震わせた。この白亜の大柱の一本一本が腐った倫理観を練り固めて作られていると思えば、反吐も出ようというものだ。

 彼女を打ち震わす怒気を戦意と捉えたか、大男は鼓膜をつんざく唸り声を上げた。丸太のような両足に裂帛の気合を込め、大地を踏み抜かんばかりの勢いで迫ってくる。


「ま、悪どさに関しちゃ人のこと――」


 少女は向き直ると、自嘲するようにニヤリと笑った。

 大男に比してあまりにも頼りない右の細腕で正拳突きに構え、半身をずらす。見れば蛮勇と人は呼ぼう。されど月光に濡れる少女の淀みない体捌きに、どれほどの怖気が見て取れようか。

 襲い来る大男が少女を拳撃の射程に捉え、肉薄、豪腕がついに唸りを上げる。

 しかし。


「――言えないけど、さあッ!!」


 ドォンッ――と、


 肉と肉とが激突する衝撃音を伴い目を剥いたのは、大男の方だった。誇張でもレトリックでもない。少女の渾身の右ストレートをみぞおちにぶち込まれ、巨体が宙を舞ったのだ。いっそ生身で砲弾でも受け止めなければ、普通こうはなるまい。

 なぜ、こんなパワーが――当然の疑問を持つ間もなく、大男は一撃の元にドサリと昏倒してしまった。


「……さて、デカい呼び鈴鳴らしちまった」


 しびれる右手をぷらぷらと揺らしながら独りごちる。先ほどの咆哮が聞こえないほど、警備員達も鈍くはないだろう。予定変更、最短ルートで一気に脱出だ。

 そうと決まればと、少女はすぐさま大男のそばにしゃがみ込み、バツの悪そうな笑みを浮かべた。


「ごめんね、加減が難しくて。でも貴方もさ、もうやめときなよ。お賃金安いんでしょ? こんなけちんぼの屋敷でこき使われるより、素直にその右腕診てもらった方がいいよ。お金少なくても特別に診てくれる診療所、この街にもあるからさ」


 もはや聞こえているかも怪しいが、気にせず言いたいことを言い切り、すくっと立ち上がる。


「さてさて。それではこの通り、【碧海王女の蒼宝晶マリアベルズ・サファイア】は舞盗ぶとうのウィンディアが頂戴いたしました。また来週っ!」


 夜風と共に舞い降りて、鮮やかに宝を狙う黒き影。

 大男と屋敷へ向け、最後の一瞥とサービスの投げキッスをくれてやり、少女はその場を忽然と去っていくのだった。

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