13.その柔らかな頬に
「……ッ!!」
ビクンとトリスは跳ね起き、銃弾のような勢いで後ずさった。店棚を背にぴったり張り付き、ぶるぶると震え出す。およそ尋常な様子ではない。
フレッタは自然体のまま、立ち尽くす彼女を見据える。
「落ち着いて。どこに突き出そうなんて気も無い。あたしはキミの味方だ!」
よく通る声でフレッタは吼えた。心臓を揺さぶるような響きだった。
トリスは尚も怯えたまま、それでも一切逃げようとはしなかった。それを認め、フレッタは柔和に笑いかける。
「……どうなんだい、トリス?」
一秒、二秒――やがて、トリスの震えが止まった。ごくりとツバを飲み、何か言おうと口元がそわそわと動く。
しかし、何の言葉も形にはならず。代わりに、ただ黙ってコクリと首を下げ、肯定を示した。これでも彼女にしてみれば、十分に頑張った方だろう。
「この手のことに詳しい知り合いがいてね。まぁ、そうでなくともキミのただならぬ躁鬱を見れば分かる」
「……」
「知る限り、魔法を使う方法は二種類。あたしのブレスレット『
トリスは何も言わなかった。そこには沈黙――空気を震わすことなく示された、静かな肯定だけが感じられた。
「
長々と言葉を連ねる。拙い講義は言ってしまえば、聞きかじりの付け焼き刃に過ぎない。自分の中である程度噛み砕いたとはいえ、その辺の専門教本の第一章一ページ目でも読んだほうが、よほど有益かもしれない。仮にも星命力の研究者の証を持つ者に、この程度の知識を披露するなど、猿に木登りを教えるような真似だ。
しかし、紡がれる言葉によって浪費されゆく時間は、トリスの心を落ち着かせてもいた。それも狙いの一つではあったが――それ以上に、彼女の現状を理解したいんだという気持ちを、しっかりと言葉にしたかった。
「さっきキミが取り乱した気持ちは――想像するしかない。だってあたしは、キミじゃないからね。呪痕のせいで心が不安定なんだろうって、医者の処方みたいな味気ない言葉も、いくらでもかけられるよ。でも、あたしにできるのは所詮そこまで」
フレッタは静かに歩み寄る。決してトリスを視界から離さない。彼女の表情を覆うほどの前髪の長さは、世間への拒絶の表れなのかもしれない。しかし、それならば何故。彼女の潤んだ瞳は美しく、光を失ってはいないのか。彼女自身、気付いてはいまい。隙間から覗く
それだけでフレッタには十分だった。互いに心臓の鼓動さえ聞こえそうな距離。銀の前髪を優しくかき分け、その柔らかな頬に触れる。
「教えてくれないか。キミ自身の言葉で」
拒絶は無い。トリスは自身の頬に感じる暖かさへ眼を向け、すぐにこちらを見つめ直した。彼女の心の扉を開きたいという願いが、きっと己の視線にも表れていると、フレッタは信じていた。
その証拠に――トリスの身体の震えは止まり、猛獣の檻に放り込まれたかのような怯臆は、今や消え失せている。
手を離すと、今度こそ彼女は口を開いた。
「すべて、お察しの通りです。わたしは、呪痕症を発症しています。……昨晩も、ついさっきも、襲撃は全てわたしが勝手にやったことです。お父様……あなた方の依頼主は、全く関係ありません」
「だろうね。そう話し合ってたところだよ」
「……お父様が、盗賊さんに依頼をしたことは、知っていました。でも、盗賊さんがどんな人か知らないけれど、また、またあのお金持ちのわるい人みたいに、横から奪われるんじゃないかって。そう思うと、不安で、不安で、胸の奥が、痛くて。メスで鎖骨から肉を削ぎ落とすみたいに、腱の筋を裂かれるみたいに、たまらなく痛くて。……だから、わたしが先に、自分の手で奪って来ようと思ったんです」
妙に痛々しい例えに、傍らでルチアが顔をしかめた。
対照的に、自嘲するようにトリスは笑った。もう、これ以上に堕ちる先など存在しないのだと、半ば自棄になった響きは続いた。
「そうすれば、わたしの手から受け取れば、お父様もきっと安心するって。気が利く子だって。きっと、頭をなでてくれるって。わたしの魔法は、こんな時のためにあるのだから」
彼女が言い切ると、フレッタは押し黙った。
父を想うがゆえ。そんな美談で済まされるような話ではない。一歩間違えばフレッタとルチアは大怪我をしていただろうし、トリス自身もそうだろう。
偽名を用いてまで危ない橋を渡らずとも、ただ待っていれば良かったのだ。それが不可能なほどに、『わたしがなんとかしたい』という健気な一心を暴走させる要因など、呪痕以外に考えられない。その証は身体のどこかに表出しているはずだが、彼女を裸に剥いてまで暴く気持ちにはなれなかった。
ルチアを一瞥すると、彼女は悲しげに目を伏せた。トリスを害そうとまでした彼女の剣幕も、すっかり鳴りを潜めてしまっている。
「本当にごめんなさい。お願いです。厚かましい願いとは承知しています、ですが、一連の件を父にはこのまま内密にして欲しいんです。お父様の重荷には……なりたくないんです」
スカートをぎゅっと握りしめ、トリスは悲痛な声で訴える。父に負担をかけたくないという思い、父に嫌われたくないという我がまま――それは呪痕など関係無い、人間なら誰しもが持ち得る表裏一体の感情だった。
さてどうしたものか、と目を合わせる他ない姉妹に代わって、ジュネロが一つ咳払いをした。
「俺は、クライアントに余計な報告はしていない。ウチのお嬢様方が盗んだ目的のブツを渡し、報酬を受け取った。それだけだ」
そう言い、彼は窓の外に視線を逸らした。相手の心になんとか触れようとしたフレッタとは対照的に、あくまでビジネスを信条とする彼らしい、ドライで飾り気の無い言葉。
あとは自分で判断しろ――言外の意を汲み、フレッタはカラッとした満面の笑みを見せた。
「分かったよ、トリス。心配しないで。秘密にしたげるからさ」
「……フレッタさん」
「ルチアも、いいね?」
「お姉ちゃんがそう言うなら、ルチアも問題無しです。……ごめんね。フォーク投げたことも、謝るから」
そう言い、ルチアはぺこりと頭を下げた。トリスは潤んだ瞳のままポカンとそれを眺め、数拍置いて自分も同じように返した。
「ありがとう、ございます……」
「よし、仲直り。で、だ! あたし達にも、キミに条件がある」
「……?」
「絶対に、あたし達の正体はヒミツだよ。いわゆる一蓮托生ってヤツ。この約束が守れないなら、あたしだってキミのお願いを反故にしない自信が無い。そんな悲しいこと、させないでほしいな。分かった?」
「……はい!」
そうして――再び、やっとトリスの顔に笑顔が戻った。それは、子供が初めて作った粘土細工のような、どこか歪でへたくそな笑い方だった。
想いが本物であれば、ウィンディアの正体が彼女から漏れることもないだろう。
「えへへへ……」
「なに、その笑い方おもしろい。ほら、嬉しい時は、すまいるすまいる」
「えひゃ、でひゃはは」
ほっぺたをむにむにと揉まれ、トリスはより変な顔でフレッタとじゃれあうように笑った。先ほどまでの確執が嘘のように消え、まるで近所の子供と遊ぶお姉さんといった様相。もはや不安の霧は打ち払われ、やっと爽やかな朝の空気に相応しい、朗らかな一幕が広がり始めた。
これにて一件落着――といった雰囲気の二人を、傍らの二人も微笑ましい表情で見守っている。
ジュネロはさりげなく、ルチアにだけ聞こえるよう耳打ちした。
「呪痕持ちとはな。マノンに連絡するべきかね」
「あの子、星命研究所の関係者なんでしょ? 自分ちで定期検診とか受けてるんじゃないかな」
「その割には、随分とやんちゃしたようだが……まぁ、いいか。余計な詮索なんぞ、するだけ藪蛇だろう」
うりうり。むにむに。
スマイルの応酬を繰り広げるフレッタとトリスの仲睦まじい(?)やり取りは、それからしばらく続いた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます