13.その柔らかな頬に

「……ッ!!」


 ビクンとトリスは跳ね起き、銃弾のような勢いで後ずさった。店棚を背にぴったり張り付き、ぶるぶると震え出す。およそ尋常な様子ではない。

 フレッタは自然体のまま、立ち尽くす彼女を見据える。


「落ち着いて。どこに突き出そうなんて気も無い。あたしはキミの味方だ!」


 よく通る声でフレッタは吼えた。心臓を揺さぶるような響きだった。

 トリスは尚も怯えたまま、それでも一切逃げようとはしなかった。それを認め、フレッタは柔和に笑いかける。


「……どうなんだい、トリス?」


 一秒、二秒――やがて、トリスの震えが止まった。ごくりとツバを飲み、何か言おうと口元がそわそわと動く。

 しかし、何の言葉も形にはならず。代わりに、ただ黙ってコクリと首を下げ、肯定を示した。これでも彼女にしてみれば、十分に頑張った方だろう。


「この手のことに詳しい知り合いがいてね。まぁ、そうでなくともキミのただならぬ躁鬱を見れば分かる」

「……」

「知る限り、魔法を使う方法は二種類。あたしのブレスレット『黎明の蒼アッジュリーテ』のように、星命力アリアを宿した神秘の器物――ミュステリオンを使用するか。あるいは呪痕を発症し、体内の星命力アリアの流れを強制的に弄られたか。キミの雷撃の魔法は後者だ。さっきの粗相は、精神の平衡を失った、心の痛みの代償だろう」


 トリスは何も言わなかった。そこには沈黙――空気を震わすことなく示された、静かな肯定だけが感じられた。


星命力アリアの過剰吸収は人体組織を変異させ、『呪いの痕』を刻み込む。さらに人の精神に作用し、異常行動に走らせる。見返りに得られるのは人外じみた怪力だったり、不思議な魔法だったり。これを生命の進化の一種ととる学者もいるらしいけど……少なくとも現段階で、人間はその進化に適応しきれない。器が耐えられるように造られちゃいない。この星で生きるためのエネルギーでも、取り過ぎはいけないってわけだ」


 長々と言葉を連ねる。拙い講義は言ってしまえば、聞きかじりの付け焼き刃に過ぎない。自分の中である程度噛み砕いたとはいえ、その辺の専門教本の第一章一ページ目でも読んだほうが、よほど有益かもしれない。仮にも星命力の研究者の証を持つ者に、この程度の知識を披露するなど、猿に木登りを教えるような真似だ。

 しかし、紡がれる言葉によって浪費されゆく時間は、トリスの心を落ち着かせてもいた。それも狙いの一つではあったが――それ以上に、彼女の現状を理解したいんだという気持ちを、しっかりと言葉にしたかった。


「さっきキミが取り乱した気持ちは――想像するしかない。だってあたしは、キミじゃないからね。呪痕のせいで心が不安定なんだろうって、医者の処方みたいな味気ない言葉も、いくらでもかけられるよ。でも、あたしにできるのは所詮そこまで」


 フレッタは静かに歩み寄る。決してトリスを視界から離さない。彼女の表情を覆うほどの前髪の長さは、世間への拒絶の表れなのかもしれない。しかし、それならば何故。彼女の潤んだ瞳は美しく、光を失ってはいないのか。彼女自身、気付いてはいまい。隙間から覗く翠緑エメラルドグリーンの眼差しが、何かを求めるように見つめ返しているのは、覆しようのない事実なのだ。

 それだけでフレッタには十分だった。互いに心臓の鼓動さえ聞こえそうな距離。銀の前髪を優しくかき分け、その柔らかな頬に触れる。


「教えてくれないか。キミ自身の言葉で」


 拒絶は無い。トリスは自身の頬に感じる暖かさへ眼を向け、すぐにこちらを見つめ直した。彼女の心の扉を開きたいという願いが、きっと己の視線にも表れていると、フレッタは信じていた。

 その証拠に――トリスの身体の震えは止まり、猛獣の檻に放り込まれたかのような怯臆は、今や消え失せている。

 手を離すと、今度こそ彼女は口を開いた。


「すべて、お察しの通りです。わたしは、呪痕症を発症しています。……昨晩も、ついさっきも、襲撃は全てわたしが勝手にやったことです。お父様……あなた方の依頼主は、全く関係ありません」

「だろうね。そう話し合ってたところだよ」

「……お父様が、盗賊さんに依頼をしたことは、知っていました。でも、盗賊さんがどんな人か知らないけれど、また、またあのお金持ちのわるい人みたいに、横から奪われるんじゃないかって。そう思うと、不安で、不安で、胸の奥が、痛くて。メスで鎖骨から肉を削ぎ落とすみたいに、腱の筋を裂かれるみたいに、たまらなく痛くて。……だから、わたしが先に、自分の手で奪って来ようと思ったんです」


 妙に痛々しい例えに、傍らでルチアが顔をしかめた。

 対照的に、自嘲するようにトリスは笑った。もう、これ以上に堕ちる先など存在しないのだと、半ば自棄になった響きは続いた。


「そうすれば、わたしの手から受け取れば、お父様もきっと安心するって。気が利く子だって。きっと、頭をなでてくれるって。わたしの魔法は、こんな時のためにあるのだから」


 彼女が言い切ると、フレッタは押し黙った。

 父を想うがゆえ。そんな美談で済まされるような話ではない。一歩間違えばフレッタとルチアは大怪我をしていただろうし、トリス自身もそうだろう。

 偽名を用いてまで危ない橋を渡らずとも、ただ待っていれば良かったのだ。それが不可能なほどに、『わたしがなんとかしたい』という健気な一心を暴走させる要因など、呪痕以外に考えられない。その証は身体のどこかに表出しているはずだが、彼女を裸に剥いてまで暴く気持ちにはなれなかった。

 ルチアを一瞥すると、彼女は悲しげに目を伏せた。トリスを害そうとまでした彼女の剣幕も、すっかり鳴りを潜めてしまっている。


「本当にごめんなさい。お願いです。厚かましい願いとは承知しています、ですが、一連の件を父にはこのまま内密にして欲しいんです。お父様の重荷には……なりたくないんです」


 スカートをぎゅっと握りしめ、トリスは悲痛な声で訴える。父に負担をかけたくないという思い、父に嫌われたくないという我がまま――それは呪痕など関係無い、人間なら誰しもが持ち得る表裏一体の感情だった。

 さてどうしたものか、と目を合わせる他ない姉妹に代わって、ジュネロが一つ咳払いをした。


「俺は、クライアントに余計な報告はしていない。ウチのお嬢様方が盗んだ目的のブツを渡し、報酬を受け取った。それだけだ」


 そう言い、彼は窓の外に視線を逸らした。相手の心になんとか触れようとしたフレッタとは対照的に、あくまでビジネスを信条とする彼らしい、ドライで飾り気の無い言葉。

 あとは自分で判断しろ――言外の意を汲み、フレッタはカラッとした満面の笑みを見せた。


「分かったよ、トリス。心配しないで。秘密にしたげるからさ」

「……フレッタさん」

「ルチアも、いいね?」

「お姉ちゃんがそう言うなら、ルチアも問題無しです。……ごめんね。フォーク投げたことも、謝るから」


 そう言い、ルチアはぺこりと頭を下げた。トリスは潤んだ瞳のままポカンとそれを眺め、数拍置いて自分も同じように返した。


「ありがとう、ございます……」

「よし、仲直り。で、だ! あたし達にも、キミに条件がある」

「……?」

「絶対に、あたし達の正体はヒミツだよ。いわゆる一蓮托生ってヤツ。この約束が守れないなら、あたしだってキミのお願いを反故にしない自信が無い。そんな悲しいこと、させないでほしいな。分かった?」

「……はい!」


 そうして――再び、やっとトリスの顔に笑顔が戻った。それは、子供が初めて作った粘土細工のような、どこか歪でへたくそな笑い方だった。

 想いが本物であれば、ウィンディアの正体が彼女から漏れることもないだろう。


「えへへへ……」

「なに、その笑い方おもしろい。ほら、嬉しい時は、すまいるすまいる」

「えひゃ、でひゃはは」


 ほっぺたをむにむにと揉まれ、トリスはより変な顔でフレッタとじゃれあうように笑った。先ほどまでの確執が嘘のように消え、まるで近所の子供と遊ぶお姉さんといった様相。もはや不安の霧は打ち払われ、やっと爽やかな朝の空気に相応しい、朗らかな一幕が広がり始めた。

 これにて一件落着――といった雰囲気の二人を、傍らの二人も微笑ましい表情で見守っている。

 ジュネロはさりげなく、ルチアにだけ聞こえるよう耳打ちした。


「呪痕持ちとはな。マノンに連絡するべきかね」

「あの子、星命研究所の関係者なんでしょ? 自分ちで定期検診とか受けてるんじゃないかな」

「その割には、随分とやんちゃしたようだが……まぁ、いいか。余計な詮索なんぞ、するだけ藪蛇だろう」


 うりうり。むにむに。

 スマイルの応酬を繰り広げるフレッタとトリスの仲睦まじい(?)やり取りは、それからしばらく続いた。

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