ちいさなひと 1

「はじめまして」


 彼女は答えない。さっきから積み木を積んでは壊してを繰り返している。


「こんにちは」


 正面から顔を覗き込んで声をかけても、こちらには目もくれない。その間にもできあがっていくかたち、完成を見たか、と思ったらもう跡形もない。コツコツ、木の触れ合う音。少し高価そうな、多様な木材を加工した目にも美しい積み木。


「ごめんなさいね、人見知りなの」


 春香さんが言う。謝ることではない、とぼくは思う。

 春香さんは、困ったような、疲れたような、曖昧な笑みを浮かべてぼくたちを見ていた。



 子供がいる、と打ち明けられたのは、交際をはじめて三ヶ月が経った頃だった。ぼくは動揺して、何も言えなかった。春香さんはまだ若い。二十五歳で二歳半になる子供がいるというのは、驚くべき事実だった。ファミレスの騒がしい座席で、ぼくは返事が出来ないまま、箸先から鳥の唐揚げが転げ落ちた。


 子供の名前は結花。結花が生まれて半年の時に、離婚が成立した。


 そう打ち明けられたときのぼくの気持ちは複雑だった。でもそんなことは付き合う前に言って欲しかった、とは言えなかった。春香さんだって随分迷ったんだろうし、実際苦悩している様子も見えた。そう言えば一度も家にあげてくれなかったし、やたらと時計を気にしてるのもそういうことだったのか。

 あまりに不審な行動に、もしかして遊ばれているのか、と疑ったこともあった。けれど、まさか子供がいるとは考えもしなかった。


 それにしても二十五歳の若さで結婚、出産、離婚を経験しているなんて、人生というのは奥深い。急に自分が子供に思えて、恥ずかしかった。ぼくはまだ学生の身で、何も成し遂げたことなんかない。中学高校と部活も勉強も中途半端で、成人したって自分が何をやりたいかなんてひとつも定まっていないのに。

 春香さんは、子供を産んで、ひとりで人生に立ち向かおうとしている。


「黙っててごめんね」


 春香さんは言った。ぼくはそれにも答えることが出来なかった。しばらく考える。それだけ言って、その日は別れた。


 考えると言ったって、なにを考えれば良いのか見当もつかなかった。子供がいる、と聞いたのは確かにショックだったし、離婚歴があったのも受け入れがたい事実だった。家路をたどりながらぼんやりと、春香さんの花嫁姿を想像して、きっと綺麗だったんだろうな、とか考えていた辺り、あまりにシビアな現実はぼくの処理能力を超えていたんだろう。


 そもそも子供の存在というのがまずイメージ出来なかった。ぼくは一人っ子だし、近所にも親戚にも小さな子供なんかいない。家に帰った春香さんは子供とふたりきりで暮らしているのだという。まるでそれは、どこか別の国の、おとぎ話のようでもあった。


 

 はじめて出会った時、ぼくは歯科の患者で、彼女はそこの受付だった。綺麗な人だと思った。薄化粧の映える整った顔立ち、にこやかな表情。症状を聞くときも親身になってくれたし、感じはすごくよかった。悪いとは思いつつも、ついついその顔にじっと見入ってしまう。どきどきした、というよりは、目が離せない、という表現がしっくり来た。いつまでも彼女を眺めていたい。


 事実ぼくは会計を待つ間こっそり彼女の方を何度も見た。カルテを取りに来た歯科助手の女性に怪訝そうな顔をされるくらいに何度も見た。どうにかして彼女に声を掛けたかった。けれども何を言うべきなのか見当もつかない。そうこうしているうちに、名前を呼ばれた。ああ、これが終わったらここを離れなければならない。ぼくは焦った。焦るあまりに、


「今度食事でもどうですか」


 ついそんな言葉が口をついて出た。ナンパなんて初めてだったし、自分でも驚いた。


「仕事中なので」


 慣れているのか彼女は顔色一つ変えなかった。さすが美人は違うな、とぼくは思った。きっとそんな言葉は飽き飽きするほど聞いているのだろう。多少の恥ずかしさも手伝って、ぼくは無言で会計を済ませた。


「お大事に」


 彼女の声は上品で、澄んでいて、いつまでもぼくの心に響いた。


<つづく>


©2016 aze_michi

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