さよならの重さ 1
彼のいなくなった部屋に掃除機をかけてる。
フローリングの床、絨毯の染み、彼のこぼした、コーヒーの染み。
ドラマだったら、これを見つけた私はその場に泣き崩れないといけないのかな。そんなことを考えながら、汚れをクッションで覆い隠した。
彼のいなくなった部屋に掃除機をかけてる。人のひとり減った部屋はどこか冷たくて、温度が以前よりも低いように感じる。それは夏が去ってしまったせいだったのかもしれない。
彼は私の、いわいるヒモだった。彼は私の家に暮らしていたけど、生活費を入れたこともなければ、私になにかを買ってくれたこともなかった。彼が私にしてくれたこと、家の中を清潔に保つこと、帰ってきた私に温かい食事を用意していくれていたこと、落ち込んでいる私に、キスをくれたこと。
出会った時の彼は、文無しだった。財布の中には小銭すら入っていなかった。デートの費用はいつも私が払っていた。そのたびに彼は申し訳無さそうな、寂しそうな、すこしひねくれたような表情を見せた。どうしていつもそんなにお金がないのかと尋ねると、学生時代の仲間と立ち上げた事業が失敗したとかで、まだまだ借金を返さなくてはならないのだと、彼は言った。私は彼を可哀想に思った。
彼はいかにもお人好しで、押し売りのようなセールスも断れなくて、優柔不断で、優しかった。
私はいつの間にか彼を家に住まわせ、生活費を出すようになっていた。
「里美さんに悪いから」
家を出る前に、彼は言った。
悪いというのが、私に生活費を入れていないことなのか、お祝いの際の食事代を払わせていることなのか、はたまたクリスマスや誕生日のプレゼントがいつも道端の花だとか、手作りのケーキであることに対してなのか、私にはよくわからなかった。そういえばあのケーキだって、材料費は私の財布から出たものなのに。
「ごめんね」
そう言って彼は私の元から去っていった。とうとう彼は私のために一円も支払わなかった。
涙を流す準備はできていた。なのに、私の眼球は乾いたままで、心の中にまで荒涼と風邪が吹いていた。
愛が枯れてしまっていたのかしら、そんなことを、他人事のように、思った。
彼のいなくなった部屋は、物静かで、以前よりも広く見えた。実際彼の私物が減った分、スペースが増えていたのだ。彼の集めていたミニカーの並んでいたガラスケース。彼の服の詰まっていたラック。コートも、靴も、背広も、なくなった分、がらんとした空間がそこに広がっている。
スペースを埋めるような余分な荷物を私は持っておらず、かといって買い物に行く気力もなかった。そのため空間はそのままそこに捨て置かれた。
彼のいなくなったベッド、彼のいなくなったキッチン、私が一生使わないような、エスニック料理のためのハーブ。冷蔵庫の中の、瓶詰めの保存食、彼の好きだったおつまみ。
彼の残していったものもまた、私の空間を埋めてはくれなかった。むしろ彼のいなくなった今では、ほとんど不要品に近いようなものばかりが部屋の中に残っている。
それでも、ものがなくなった分掃除は以前よりも楽になった。こんなふうにただ掃除機をかければいいだけだ。ガラスケースのほこりを拭ったり、ミニカーの向きに気を配ったりしなくてもよい。思えばずいぶんと楽になったものだ。洗濯物だって半分になったし、クリーニングに出す洋服も私ひとり分。経済的で、身軽で良い。
掃除機をかけ終わった私は、彼の残していったスパイスやハーブの瓶、用途のわからない調味料や油漬けになったなにかの瓶などを、まとめて処分することにした。ゴミ箱の中が刺激的な香りで一杯になる。ちょうど虫除けになって良いかもしれない。使い方のわからないキッチン便利グッズも、思い切って捨ててしまうことにする。まだ十分使えるものを捨てるのにはやはり罪悪感があったけれども、置いておいても使わないのだ。しかたがない。
こうして不要品の取り除かれた冷蔵庫とキッチンは、やはりとても殺風景だった。
けれども私の料理のレパートリーなど、野菜炒めと味噌汁くらいであるので、やはり必要のないものを置いておくわけにもいかない。
せっかくの休日だというのに、清掃作業に大半が潰えてしまった。疲労感と倦怠感を少しでも緩和させようと、絨毯の上に身を投げ出した。あいかわらず部屋の中では物音一つしない。私が動かない限り、誰も、何も、音を立てない。じっとしているとキッチンの方から冷蔵庫のモーター音が聞こえてくるほどの静けさである。
慣れない、どうにも居心地が悪い。
彼と暮らした期間は一年にも満たないのに、私はどうやら一人の時間の過ごし方を忘れてしまっているようだった。
<つづく>
©2016 aze_michi
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