やさしくさわって。 2
彼女の耳の形が好きだ、と打ち明けたら、人はぼくを変態だと思うだろうか。
けれどもぼくは事実、彼女の体の中で一番好きな箇所を挙げるとすれば間違いなく耳を選ぶ。
普段は髪に隠れていて見えないけれども、なにか作業をするときや、風呂上がり、性行為のときなんかに露になるなる彼女の薄い耳の形。色の白い薄い繊細なその形がぼくは好きだった。子供の頃に縁日でやった型抜きを思わせるような質感、触ると壊れてしまいそうだ。
薄い胸より、華奢な腕より、真っ白な脚より、ぼくは彼女の耳の形が好きだった。
いつものように、シャツの襟元から顔を出す彼女の乱れた髪を直すふりをして、ぼくはそっと彼女の耳に触れる。ハリのある軟骨に水滴のように垂れ下がる耳朶は、噛むと菓子のように甘い。
「彼と別れた」
と彼女は言った。理由を尋ねると、彼女はわからない、とだけ答えた。
ぼくのことがばれた?と尋ねたら、彼女は水に濡れた子猫が身震いするように首を振った。
「わからないの」
彼女がぼくの顔を見上げる。彼女の目にぼくは映っているけれども、彼女はぼくのことなど見てはいない。きっと他のことを考えている。ぼくが彼女の話を聞いている間、その耳の感触だけを思い出しているように。
彼女と話していると、特に根拠もなく、若いな。と感じることがある。ぼくだってつい数年前には彼女と同じ年齢であったにも関わらず、だ。くまのない目元やハリのある頬、みずみずしい四肢の蛍光灯に輝くさま。なにもかも自分とは違う次元に存在しているような気がする。元来ぼくたちは生息域を同じとする人種ではなかったのだろう。そんなふうに、感じる。
「じゃあ、俺と付き合う?」
だから自分がなぜそんなことを口走ったのか、よくわからなかった。頭が理解する前に口が動いていた。言ってから、あ、しまった、と思った。なにがしまったかのかもあまりよくわかってはいなかった。
彼女はぼくの言葉を聞いてから少しだけ首をかしげ、それからかすかに口元を震わせた。
「付き合うって、本気?」
ぼくは頷いた。夢心地だった。自分に酔っていたのかもしれない。
彼女は首ごと視線を下に落とし、それからまた、ぼくの方に目をやった。少し悲しそうにも見えた。
「ごめんね、それは、無理」
「そっか」
何がそっかだ、と内心は思った。思ったけれど口には出さなかった。
それからしばらくのあいだ無音だった。彼女もぼくも下半身に何も身に着けていないまま、身じろぎ一つしなかった。いや、できなかったのかもしれない。それから段々自分たちがそんな格好でいることが滑稽に思えてきて、ぼくは少し笑った。彼女はぼくが笑ったのを見たけど、表情は変わらないままだった。
少しだけ体感温度が下がる。目の前の彼女がなにを考えているのかわからなくなった。それは恐怖に似ていた。
「ごめんね、私、帰るね」
「もう終電ないよ」
「タクシー呼ぶから、平気」
日常生活でタクシーを足に使う彼女の感性と、ぼくの感性とはやはり相容れないようにも思う。だからきっと、彼女の判断は正しい。それでもぼくは、最後にもう一度だけ彼女に触れたくなって、タクシー会社に電話する彼女の背中を背後から抱きしめた。
彼女の手がそっとぼくの腕に触れる。自制を促されているような気もした。それでもぼくは彼女を離すことが出来なかった。
明日からぼくの傍には彼女はいない。彼女はそれでも平然と日々を過ごすのだろう。
ぼくは、ぼくだけが彼女の陰に、感触に囚われたまま。この喪失感に恋と名付けることができたら、ぼくもまた平然と日常に戻ることが出来たのに。ラベリングする言葉も探せないまま、きっとまたぼくにひとりの夜がくる。
せめてあなたを愛していると言えたらよかった。
<おわり>
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