さよならの重さ 2

 こんなふうに寝転んでいるときにも、首の下に支えてくれる腕がほしくなる。もたれかかる背中が恋しくなる。

 だけどそれは、彼が恋しいというよりは、家に居着いた猫の来なくなるのを寂しく思う気持ちと同等な感情のような気がした。


 ふぅ、と口から漏れた溜め息が、不意に部屋の中で大きな音をたてて怖くなる。人工物ではない、生き物の出す音。聞き咎める人もいない、誰のためでもない私のためだけの、溜め息。手探りでテーブルの上のリモコンを探す。テレビの電源を入れて、私以外の人の話す声を聞きたかった。


 だけど、見つからない。いつもならリモコンはちゃんとテーブルの隅に置かれているはずなのに、あるべき場所に、ない。体を起こして探してみるけど、見当たらない。しばらく探すと、タンスの角の方に不安定な姿勢で斜めに立てかけられているのを見つけた。こんなところに一体だれが置いたものかと考えるけれども、部屋の中には私以外いないのだ。答えは明白だった。


 私にはすぐものを失くす悪い癖がある。ものを移動させて、元の場所に戻すのを怠るからそうなるのだ。携帯、リップ、日焼け止め、リモコン。私は色々なものをすぐに失くす。それでも彼と暮らし始めてからずいぶんとものを探す頻度は減った。今思うと彼がいちいち元の場所に動かしてくれていたのだろう。リモコンだって、そうだ。


 今にも倒れそうな、リモコンに手を伸ばす。ふと、傍に置かれたガラスの小皿の中身に目が留まった。自転車の鍵、友達にもらったハワイ土産のキーホルダー、そして、無造作に置かれた、安物の、指輪。


 一応銀色に輝いてはいるものの、ひどくチープな色合いをした指輪には、バラやあるいは牡丹を思わせる花のモチーフがついていた。指にそっとあてがうと、おもちゃのような華奢な作りの花は、かすかに花びらを震わせた。


 ああ、ひとつだけ、彼が私にお金を払ったものがあった。ガシャポンの指輪だ。カプセルの中に入ったおもちゃの指輪。確か二百円だか三百円だかをいれると出てくる、花の指輪。


「何色がいい?」


 パッケージをみて彼は私に聞いた。もちろん色など選べない。ただ中にあるどれかが、お金を入れると出てくる、それだけだ。それなのに私は少し真剣に考えて、


「白」


 と答えた。出てきた指輪には青い花がついていた。私の欲しかった白とは違う。指がつるつる滑ってなかなかカプセルを開けられなくて、彼に開けてもらったような気がする。中には袋に入った指輪と説明書が入っていて、指輪以外の全ては傍にあったゴミ箱に捨ててきた。頼りない作りの指輪は、指にはめると驚くくらい軽かった。はたちのお祝いに自分で買った、いつも身に着けているプラチナのリングと比べると、頼りないほど軽かった。


 それでも私は彼を見て微笑んだ。それを満足気に見届けた彼は、自分のために自動車の入ったカプセルトイを、私のお金でお目当ての賞品が出るまで回し続け、大量のカプセルを大事そうに仕舞って持ち帰った。


 今思うと阿呆以外の何物でもない。彼はそういう食玩とかガチャガチャとか、少額の無駄遣いをやたらとしたがった。コンビニスイーツも大好きで、寄り道すると必ず無駄な出費をさせられる。当時は子供のように無邪気な彼を見ているのが楽しかったけれども、彼に費やした金額をまとめて考えてみるとなんとも愚かしい。殴ってでも止めておけばよかった。むしろ何発か殴っておけばよかった。


 二百円のリングが私の掌の中で嘲笑っている。強く握り締めると、花びらがぱっきりと音を立てて割れた。


「これね、特注なんだって」


 同僚が見せびらかしていたエンゲージリングのことを思い出す。プラチナの土台に納まった、世界で一番硬い石。裏には愛の言葉とふたりの名前が彫ってあって、聞き覚えのあるブランドのものらしい。彼が準備をしていたのを私は全く気が付かず云々、サプライズデートのことを延々と聞かされていたあのときの気持ち。なんとも言えないあの気持ち。

 愛の価値はお金では測れない、とは言うものの、私には二百円の価値しかなかったのかと思うと笑えてくる。悲しいを通り越して、笑えてくる。


 壊れたリングを不燃ごみの袋に入れて口を縛った。

 彼の痕跡を消し去った部屋で、今夜も私は眠る。ダイヤモンドもスワロフスキーもプラスチックも。抱いて寝たってきっとちっとも温かくないのに。私はきっと明日自分のために宝石を買うだろう。ささやかな虚栄心を満たすために。彼のいない時間に慣れるために。



<おわり>

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