忠実な犬©2017 aze_michi
「手ぇつなごっか」
「嫌だよ、いい年して」
酔っ払ってやがるな、と思った。
普段は外だと借りてきた猫みたいにおとなしいのに、少し酒が入るとこうだ。
「いい年って、どんな年? いつだって今が人生で一番若いんだよ、知らないの」
「知らねぇよ」
出会ったとき、俺は四十を過ぎていて、人生折り返しだなぁとか、年金払ってるけどもらえるまで生きれるかなぁ、とか、そんなことを考えていた。こいつは俺よりも一周り以上下だが、実年齢の割には疲れ切ったような、くたびれた雰囲気で、なんていうか、枯れて見えた。今の職場しんどいんですよね、やめよっかな、他探そうかな、そんなことを言いながらカウンターで背中を丸めていたので、へぇ、とか、ふうん、とか、そうなんだ。とか、返した。俺とあいつの席は2つ分空いていた。
俺はその頃は長年食ってた仕事についていくのに精一杯で、転職だ何だのって言う話にはいまいち興味を持てなかった。今更新しいことを始める気力もないし、なにより頭と体がついていかない。世代が違う、話が違う、と言った具合で、半分以上他人事として話を聞いていた。それでも、なんとも言えない表情でスマホを眺める男に、バツが悪くなって、
「電話? 彼女?」
と尋ねると、
「あ、母親でした」
へらっと笑った顔がさみしそうで、興味がない話も打ちきれないまま、ぽつりぽつりとこぼされる愚痴を聞いている内に、なんとなく一緒に飲んでる気分になった。寂れた居酒屋で、大将の愛想が悪くて、静かなところが気に入っていた店だった。俺は元来人付き合いの良い方ではなく、店の人間に構われたり、常連ぶったやつらに馴れ馴れしくされるのは、苦手だった。それでも途中で席を立たなかったのは、目の前の男の、どこか間の抜けた雰囲気のせいだっただろうか。
「今度いつ帰ってくるのかとか、気にかけてくれるのはいいんですけど」
男はちびちびと盃を傾ける。
「結婚はまだかとか、うるさくて」
笑うと情けなく垂れる目元が、少し苦しそうに見えた。
「姉もまだ独身だし、母親も寂しいんでしょうかね」
「心配なんだよ、あんたのことが」
思わず口に漏れる。男は笑った。
「ですね」
「心配されるうちが花っていうかさ、そのうち見向きもされなくなるって」
「そういうもんですかね」
だといいですけどね、と言って男は酒を煽った。俺は席を立った。
その日に限って珍しく、いいことをしたくなったというか、人を憐れむ気持ちが湧いたというか、若いんだからそんなことでくよくよしてんなよ、と思ったのかもしれない。隣の男の分の勘定まで済ませて、俺は店を出た。
慣れないことをするからだろうか、次にその男の姿を同じ店で見かけた時、気まずくなって、気づかれない内に帰ろうとした。でも、店を出るより先に、男に見つかってしまった。
「ここ、空いてますよ」
隣の席を勧められる。バツの悪さを感じながら、勧められるがままに、奴の隣に座った。
「お兄さんにおごってもらってから、なんかツイてるんですよ。知り合いのつてで、他の仕事見つかって、そこすごい働きやすくて。お礼がしたいなってずっと思って、」
やっと、見つけた。と人懐っこく笑う顔を見ると、たしかに前よりも歳相応に見えるというか、妙に疲れた感じも薄れていて、それより何より、お兄さん、と呼ばれるのが居心地が悪くて、俺は一層背中を丸めた。
「今度は自分が奢るんで、なにか好きなもの、食べに行きませんか」
「いいよ、気にしないで」
「いやでも、俺の気が済まないというか、なにか食べたいもの、ないですか」
「いいって、そんな金があったら好きな女にでもおごってやってよ」
そう言うと男は困ったように笑った。
「そんな人がいたらいいですけどね」
「すぐ見つかるよ、若ぇもん」
「でも俺モテないんですよ。致命的に」
「そんなこたねぇだろうが」
「あるんですよ。今もほとんど振られそうですし」
「誰に」
「あなたに」
酒に口をつける前だというのに、頭がくらくらした。
◇◇◇◇◇
あなたに、なんて言われたのは何年ぶりだろう。頬がほてるのを、おしぼりで押さえる。それでも気分は落ち着かなかった。運ばれてきた日本酒に口をつける。どぎまぎする、というのはこういう様子のことを言うのだろうかと、思った。
しばらく男の横顔を見ながら考えていた。猪口を傾ける目の前の男になにか見覚えがあるな、と思ったら、以前実家で飼っていたゴールデンレトリーバーに似ているのだ。家の犬も、こんな風に、情けない顔で俺を見上げていやがった。実家での俺はどこか不機嫌で、犬はいつも、近くに寄っていいものか、伺うような顔をしていた。
その犬も、何年か前に亡くなった。可哀想なことをしたとおもう。もっと可愛がってやればよかった。そんなことを考えながら、酒に映った照明の滲んだ明かりを眺めた。
「なんか親しみのある顔だと思ったらさ、実家で飼ってた犬に似てるんだわ」
男が笑った。
「犬、ですか」
「そう。レトリーバー」
「どうです、犬。よく懐きますよ」
「いや……」
間に合ってる。と言おうとして、舌がもつれた。
「そりゃそうですよね、こんなデカいの、連れて帰っても邪魔なだけか」
「あんた、年の割に寂しがりなんだね」
「そうですよ。犬ってそういうもんじゃないですか」
犬、ね。面白くなって、笑いが漏れた。確かに、よく似てる。でかくて、遠慮がちで、小首をかしげて飼い主の顔色を伺うようなところ。
「犬だって寂しがりますけどね、そら。犬を飼うような人は、もっと、寂しがりなんですよ」
そう言って男は俺の手の上に手を重ねた。体温が高い。そういうところも、犬みたいだ。
「そうかもな」
そうかもしれない。犬は人間の隙を嗅ぎとるのが上手いってことなのかもな。
「でも俺はこんな歳だし。今更好きも嫌いもないよ」
「年上が好みだって言ったらどうします?」
「どうっつってもさ。未来ある若者が、俺みたいなのに時間取られて、馬鹿みたいだろ」
「馬鹿みたいなこと、したいです」
男の顔があんまり真面目なので、思わず笑ってしまった。
「ほんと犬みてぇ」
「犬はね、猫と違って忠実ですから」
一度受けた恩は忘れないんですよ、と男が言うので、そら怖いな。と俺も笑った。
◇◇◇◇◇
その日は男に支払いを持ってもらって、それで終わりのはずだった。それでも、月に何度か同じ店で顔を合わせて、少し話をして、帰る。そういうことを繰り返している内に、もっと安くて良い店知ってますよ、という男の口車に乗せられて、いつの間にか相手の生活圏内に足を踏み入れて、何度か家に誘われて、二人で呑んだ。
たまには腕を奮ってごちそうします。何が良いですか、と聞かれたので、鍋。と言ったら、そんなものでいいのか、と驚かれて、ふたりで土手鍋を肴に呑んだ。男の家は居心地が良くて、帰ろうとするたびに、もう少し、と時間が伸びていった。終電がなくなる手前で、さすがに帰ろうとすると、男は選別だ、と言って、キスをした。
こんなに他人の近くに寄ったのは何年ぶりだろうな、と思った。はじめは頬に、次に、唇に。男の唇が触れて、顎に、鎖骨に。体重を預けられてずるずると倒れるように体勢が崩れる。こういうときに手はどこに置くべきだったけ。そういうことばかりを考える。恐る恐る男の腰元に触れた。重いな、と感じた。
「こんなことして、嫌われるかと思った」
男が言うので、俺も嫌いになると思ってた。と言うと男は少し泣いた。いい年して、情けねぇな、と言うと、泣くのに年は関係ない、と言われて、それもそうだ、と思った。男の髪からはシャンプーの清々しい匂いがして、整髪料だろうか、香水だろうか、懐かしいような、どこか落ち着くような、不思議な感覚だった。首筋に鼻を埋めると、やはり香水だろうか、柑橘の香りと、ジャスミンの匂いが、男の体臭と混じって、どこか懐かしい匂いがする。耳の裏に、ほくろ。星座みたいに、大きいのと、すごく小さいのが、三つ。耳たぶをかじると、思った以上に柔くて、甘かった。
その日は結局男の家に泊まった。飯は旨いし、片付いていて清潔だし、居心地が良い。自分が犬小屋みたいな環境で暮らしていたことを思い知った。泊めてもらうばかりで悪いので、風呂を磨いたり、洗濯を集めたり、乾燥機をかけたり、掃除機をかけたり、食器を洗ったり動きまわると、男は俺が何かするたび嬉しそうに、笑いながら言う。
「ありがとうね」
なにが、と聞くと、何でもない。と首を振る。週に何度か俺は男の家に通い、男も俺の家に来た。男が手伝ってくれたおかげで、数年間見たこともなかったフローリングの模様と再びあいまみえることができた。一回りも年が下の男と、何をやってんだろうな、とふと我に返る。それでも、小首を傾げて俺を見上げる男の顔を見ていると、段々と歳の差も気にならなくなった。
賃貸の狭い部屋で、三年前のハリウッド映画を見ながら呟く。
「結局家に上げちまったな」
「犬?」
修司は不思議そうに俺の顔を見た。飲みかけの缶チューハイを机に置く。
「そう犬。とびきりデカいの」
修司はふふふ、と笑って、犬の鳴きマネをして見せた。
「なんとなく、この人は、押しに弱そうだなって、思ったから」
「わかるのかよ、そんなの」
「わかるよ。優しそうだった」
それにとびきり、寂しそうだった。と犬は言った。
「同情したつもりが、同情されてたとは」
俺が言うと、修司は犬っころみたいに人懐っこい笑顔を見せて、俺の肩に頭を乗せた。
「世の中はなんでも、鏡合わせになってるんだって」
「そら知らなんだ。そういうもんかね」
「らしいよ」
映画が佳境に入り、お互い無言になる。しばらくして、不意に修司が起き上がって、着ろ、とばかりにコートを投げた。
「なんだよ」
「散歩」
「え?」
「散歩に行こう」
◇◇◇◇◇
「手ぇつなごっか」
「嫌だよ、いい年して」
酔っ払ってやがるな、と思った。
普段は外だと借りてきた猫みたいにおとなしいのに、少し酒が入るとこうだ。
「いい年って、どんな年? いつだって今が人生で一番若いんだよ、知らないの」
「知らねぇよ」
「だってほら、散歩だから。リードがないと、逃げちゃうかもしれない」
修司が俺の手を取ってコートのポケットに突っ込んだ。外で堂々と手をつなぐのは、まだ慣れない。それに俺はもう、そんな年じゃねぇよ。という気持ちがどうしても生まれてくる。心のうちを見透かしたように、修司が言った。
「ならいつならいいの。俺がジジイになるまで待たす気?」
「わかった、わかったから」
ポケットの中で、握られた手を強く握り返す。こんなこと、十代の頃にだってしなかったよ。通行人の視線にヒヤヒヤする。まだ宵も浅い、通行人も、ちらほらいる。手を引っ張っていた力がふっと弱まった。修司が歩調を落とす。
「ねぇ、ほら、雪だよ」
「あ、ほんとだな」
目の前に、粗い、大きな雪の粒が、重そうに落ちてくる。一層寒く感じた。北風が体に堪える。
「散歩は終わり。寒いから、ほら、帰るぞ」
「えー、犬は喜び庭かけまわるもんでしょ」
「うるせぇな、風邪引きてぇのか」
「好きだよ」
「…。うん」
「照れてる?」
「照れてない」
「絶対照れてるね」
「だから照れてないって」
「…帰ろっか」
つないでいた手が、ふっと解かれる。本物の犬みたいに走りだした修司を見て、いつか本当に、犬みたいにどこかへ走っていったまま、帰ってこなくなるのかな、と思った。じわりと熱かった手が、汗が乾くのとともに急速に冷えていく。深々と降る雪が、足元を凍らせるようだった。修司が振り向いて、積もるかな、と叫ぶ。積もったら電車止まるかなー、寝坊できるかなという彼を見ながら、積もると良いな、と小さくこぼした。その声はたぶん、彼には、届かなかったと、思う。
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