おいしいごはん ©2017 aze_michi
地球最後の日に何が食べたいですか。と聞いたら、ゆずちゃんの作った餃子。と返ってきた。またこの人はくだらない冗談を言っているなぁと思っていたら、いつのまにか私たちは結婚していた。
出会った頃のことはもはや思い出せない。桜の咲く季節だったような気もする。私は誰かの主催したお花見に呼ばれて、そこに居合わせたのが岩城さんだった。たぶん。
岩城さんはふざけてばかりいた。軽薄な人だな、と思った。それがどうしてこうなったのか。思い出せない、怖いくらいに。
「恋のはじまりって、覚えてます?」
「どうしたの、熱でもあるの?」
「いや、すいません、なんでもないです」
最近スマホで少女漫画を読むのにハマっている。とは言い出せなかった。先輩は死んでも少女漫画なんか読まないんだろうなぁ、と思いながら、せっせと野菜の下ごしらえをする。開店前の、仕込みだ。
漫画の中では毎日が初恋だった。自分はこの年頃のときは一体何をしていたんだろう。読んでいるとそんな気分になる。恋とか、遠かった。そんな気がする。みんなのする楽しげな話をうんうんと聞いているのが精一杯だった。
恋ってどこからはじまるんだろうなぁ。
「思うんですよ、少女漫画みたいな恋愛をしてる人なんているのかな、って」
「岩城もついにそっちの世界の住人になってしまったか…」
「いや、そういうわけでは」
ないとも言い切れなかった。
「大木さんは、こういう恋したことあります? それとかあの、どこからが恋、なんでしょうか」
「いやそんなの、人の数ほどって話でしょ」
「ですよね」
「岩城は旦那さんがいるんだから。 恋。っていう期間を通り過ぎてきてるんでしょ」
「恋。だったんですかね」
「だったんでしょうよ」
「それがよくわからないんですよね」
お互いどこが好きなのかよくわからないまま一緒にいた。気が合うとか、なんだか楽だったとか、そういう理由で。
「私、付き合う前に言われたことがあるんです、旦那に」
「なんて」
「俺とお前が地球上に残ったたった一組の男女だったとして、絶対何も起こらない自信があるって」
「起こったから結婚したんでしょ」
「まぁそうなんですけど。手違いだって、言いはるんですよね」
手違いとはなんなのか。まさか手違いで結婚までこぎつける人もおるまい。なんだその逆少女漫画みたいなセリフは。思い出したらムカムカしてきた。当時も笑いながら「それはこっちのセリフですよ」と受け流していたけれども、実際にははらわたが煮えくり返っていた気がする。
鍋の中に刻んだ野菜とすりおろしたしょうがをぶっこんで、弱火にかける。鶏ガラが浮いてくるのを、菜箸でつつく。細かい気泡が鍋底から続々と浮き上がっては消えていく。頬をたらりと汗が伝った。知り合いの知り合いがはじめたラーメン屋で、私はなぜかオリジナルカレーを作っている。野菜多めの、辛さ控えめ、鶏ガラチキンカレー。まかないがいつの間にかレギュラーメニューになり、いまやラーメンを超える人気メニューになってしまった。人生何があるかわからないものだな。そんなことを思った。
仕事終わりにコーヒーを飲みながら漫画を読む。スクリーントーンがきらきらしている。現実にこんな効果がつけられたら、町のなかはさぞ騒がしいだろうな、と周囲を見渡してみるけど、そもそもそんな漫画みたいな現象はなかなか見られない。みんな下を向いて、つまらなさそうにスマホを見ている。
「柚葉じゃん」
不意に名前を呼ばれて、声のした方を振り向くと、高校の頃の同級生と目が合った。
「みったん」
みったんはにっこり笑った。メイクは多少濃くなったけど、笑顔は昔と変わらない。なんだか嬉しくなって、私は向かいの席を勧める。
「何見てたの」
「これ」
「読みホーダイのやつだ」
「そう」
みったんは顔はあどけないけど、リスクをかえりみない性格というか、男性関係は激しかった。
「わー、やってるやってるw」
「ちょちょ、やめてよそういうの、恥ずかしい」
「照れてる、おもしろー。意外だね、ゆずは漫画とかあんまり読まなかったじゃん」
「最近ひまでさ。小説も読むの疲れるし、ドラマは時間とられるし、これが楽でいい」
「結婚したんでしょ、ご主人やさしい?」
「まぁね。ふつう」
「いいなー。私も結婚したい」
「意外だね、みったんは結婚願望とかないと思ってた」
「なかったんだけどさー、けどさー」
美奈子が私のコーヒーに口をつける。
「ひとりって、寂しいじゃんね」
「そうかな? 最近思い始めてきたんだけど、ふたりってめんどい」
「えー、贅沢だな」
そういって美奈子は笑った。
「私気づいたんだけど、ひとりだと喧嘩も出来ないのね」
「へ?」
「ひとりってそういうことなんだって。思った」
美奈子は珍しく真面目な顔のままつぶやく。高校生の頃の美奈子はとにかく、落ち着きがなくて、いつも誰かと一緒で、男関係も途切れたことがなかった。なんだかんだ親しみやすくてそこそこ可愛い美奈子はモテる。多少わがままでも、気が強くても、モテるのだ。
「私も漫画でも読むかなー。なんか面白いのある?」
「昔流行ってた奴がいま無料で読めるよ」
「まじか、ちょっと見して」
会うのは三年ぶりくらいだった。それなのに、こんなに気楽に話せるなんて、美奈子はすごい。どちらかというと人見知りな私には信じられないことだった。
「じゃあ美奈子今ひとりなんだ」
「そうなのひとりー。身軽」
「今度また遊びに行こうよ」
「いいよ。いつでも誘って」
久々に友達と会って話したからだろうか、帰りはなんとなく足どりが軽かった。心が軽くなった感じ。
「ただいまー」
コートを脱いで、カバンを片付けて、それからキッチンへ向かう。買ってきたものを冷蔵庫に片付けて、まな板と包丁を取り出す。料理は嫌いじゃない。春先は特に、なんだか野菜もみずみずしくて、香り高くて、気分がよくなる。包丁を入れた瞬間にんじんの香りが強くなった。道具を通して伝わってくる手触りもやわらかい。家で作る料理は、自分が食べたいものを好きなだけ作れるから、好きだ。予算も採算も考えなくていい。手間だってお金だっていくらかけてもいい。目的もはっきりしている、自分が美味しいと思えるものを、食べたい。
「ただいま」
玄関の方で物音がする。帰ってきた。
「おかえり」
鍋をかき混ぜながら、声を掛ける。
「いい匂いだね」
と彼が言う。幸せなんだろうか。幸せなんだろうな。自分に言い聞かせる。
鍋の中には昨日の夜仕込んでおいた牛すねに、いい具合に火が通っている。トマトと玉ねぎと、ズッキーニ。細かく切った野菜もとろとろになっていた。もう少し煮詰めたら、きっと美味しい。
「もう食べる?」
「うん、じゃあ」
会話という会話も、あんまりしない。楽器を打ち合わせるのと似た、なんていうか、間の手みたいなもの。
春野菜の入ったサラダボウルを机の真ん中に置いて、彼と私の、白いお皿に、赤いトマトベースの煮込みをよそう。買っておいたバゲットを軽く炙って、バターとバターナイフを食卓に置く。
「いただきます」
「いただきます」
声は揃わない。ばらばらと。
彼は滅多に自分から、美味しいとか、まずいとか、言わない。ただ食べるスピードで、気に入ってるか、気に入らないかは判断できるようになってきた。今日はテレビを見入ってるから、よくわからないけど。
彼は仰天映像ベスト百! みたいなよくわからないテレビをよく見る。私はそういうのは心臓に悪いから、食事中はやめて欲しいと思っている。でも録画してまで見る時間はない、という彼の言い分もわからないでもないので、黙ってキャベツと人参を生のまま噛みしめる。春野菜は舌触りまで優しくて、甘い。呼吸をすると豊かな香りが鼻に抜けて、ああ、春なんだな。って思う。
結婚したのは冬のことだった。
その頃私たちはよく一緒の部屋でおでんをしたり、焼き肉をしたり、鍋を囲んだり、していた。ひとりで食べるには寂しいし、作りにくい料理たち。寒さは人肌が恋しいような錯覚を加速させる。食事のあと体を寄せあって、知らないうちに、会えばセックスをするような間柄になっていた。ご飯を食べて、ときどきは一緒に眠って、そういう生活を送るようになって二度目の冬を越したとき、入籍を決めた。
今はそれから、三度目の春。
私はときどき少女漫画の世界に逃げ込んで、気が向いた時だけ現実に帰ってくる。
ご飯を作って、掃除をして、洗濯をして。それから。たまに、セックスして、それだけ。
美奈子はけんかはひとりじゃできない、って言ってたけど、私たちはほとんど喧嘩もしない。けんかもしないし、子供もいないし、他にすることがないから、私は漫画を読む。
漫画の中には、砂を噛むような甘いセリフや、お姫様抱っこや、日常生活からは想像も出来ないような、小さなきらきらが溢れている。だけど、そうだな、そう言えば、漫画の中に幸せな結婚生活、っていうのはあまり出てこない気がする。少女漫画は少女が読むためのものだから? その後のことなんて、描かれないものなんだろうか。だけどだとえば、シンデレラ、白雪姫、美女と野獣。世界で指折りに有名なお姫様たちだって、結婚したあとの姿は、知られていない。
きらきらは、結婚すると消えてしまうんだろうか。万国共通で、そういうものなんだろうか。
私はお箸で切れるくらいに柔らかくなった牛肉を口に運ぶ。トロトロに溶けた腱が、口の中で解けて甘かった。筋肉の繊維がひとつひとつほどけていく。肉汁と、野菜の甘味があふれだす。
「おいしい」
ひとりで呟いた。
「そうだね、おいしい」
返事がある。顔をあげると、彼のお皿の中はもう空っぽで、残ったスープをバゲットにつけてさらえているところだった。
「そんなに美味しかった?」
「うん、おかわりまだある?」
「あるよ」
席を立とうとして、止められる。
「自分で入れてくる」
私はなんとなく嬉しくなって、もう一口、牛肉を口に入れた。
おかわりを入れて、席に戻ってきた彼に、声を書ける。
「たくさん食べてくれて、よかった。また作るね」
「うん」
あ、でも。彼がそう言ってスプーンで宙を切る。
「あれ食べたいな。餃子。白菜のやつ」
最近食べてないから。と言われて、そう言えば、と気づく。このところ自分の欲求の赴くままに料理をしていて、彼のことなんてあんまり意識に上っていなかったかもしれない。
「もしかして、あれ、本気だったの?」
「あれって?」
「最後の晩餐の話」
彼の視線が宙をさまよう。それから、唇がふっと緩んだ。
「覚えてたんだ」
「覚えてたよ」
「実質のプロポーズだね」
「へ?」
そういうつもりだったの? というのは言葉にならなかった。
「てっきり、ふざけてるんだと思った」
「俺はそういう冗談は言わない」
「嘘、いつもふざけてばっかりいる人だな、と思ってたんだけど」
っていうか、
「私のこと異性として見れないって、あなた言ったよね」
あれ、私すごい傷ついたんだからね。というと彼は鼻の先に触れた。
「だって、友達でいなくなったら、もう会ってくれないかと思ったから」
「は?」
「ゆずちゃんに会えないのは、嫌だと思ったから」
「ばかなの?」
なんでそういう浅知恵で墓穴を掘るかな。あほなんじゃないの。
「もっと早く言ってよ。私だって、ずっと好きだったのに」
涙がでた。ふたりとも頭が悪すぎると思った。
「ごめん、泣かすつもりは」
「好きとか、愛してるとか、もっと早く言ってくれたら良かった」
そうしたら、
「そうしたら?」
「もっとたくさん一緒にいられたかもしれないのに」
もっと、もっとたくさん美味しい餃子も作ってあげられたのに。だけどその部分は言葉にならなくて、 私は声をつまらせた。
「ほんとはもっと、いっぱい喋ったりしたいよ」
忙しいのはわかるけどさ、漫画じゃやっぱり、寂しいんだよ。
泣いている私を見て彼が笑う気配がした。
ふいにぎゅっと抱きしめられて、頬に唇が触れた。
「しょっぱい」
ゆずちゃんの涙はしょっぱくて、甘い。目を開けると彼の笑顔が飛び込んできて、私は自分の心臓からなにかきらきらが飛び散るのを目にした。
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