海とくらげ 2
ペットショップで店員さんを捕まえて、「くらげを飼うにはどうしたらいいですか」と聞いてみる。はぁ、という薄いリアクションののち、若い男の子が呼ばれてこちらに駆けてくる。お兄さんはくらげですか、と言って、スマホとにらめっこしながら一生懸命こたえてくれた。
でもそれなら、自分で調べるんだけどな。やっぱりくらげを飼うということは一般的ではないのかもしれない。色とりどりの熱帯の魚を見ながらそんなことを考えた。
勧められるままに色んな買い物をして、結局まとまった出費になってしまった。少し痛い。でも、テラリウムとか言うのには興味があったし、よく考えてみれば、くらげも植物もそんなに変わらないようなものだから、いつか始めようと思っていたものを今日始められたのは良かったのかもしれない。そういう風に無理やり頭を切り替えて、家の中に水槽を設置する。これが結構めんどくさくて、配線もややこしい。誰か頼める人がいればいいのに、そのときふと、元恋人だった人の顔が浮かんで、私は苦しくなる。
水槽の中は水が循環するようになっている。くらげは自分で泳ぐのは下手らしい。普段は海流にのって漂っているのだそうだ。LEDライトで照らされた水の中に、小さな小さなくらげの赤ちゃんが寂しそうに漂っている。けれども寂しそうにみえたところで現実に寂しいのは私だけで、くらげは多分何も考えていないのだ。そう思い至って悲しくなる。
少女はこんな生き物のどこに惹かれたのだろう。返事もしない、こちらの顔も見られない、ただ漂っているだけの生物。却って寂しくなったりはしないのだろうか。
餌のプランクトンの生臭さとか、扱いの面倒なところ。水換え、そういう手間がくらげも生きているんだと思い出させてくれる。私は生き物を扱うめんどくささに嫌気を覚えながら、それでもその手間をどこか喜んでいる自分がいることも否定できない。どうして、いつからこんなふうに感じるようになってしまったのだろう。うんともすんとも言わないスマートフォンを握りしめて、部屋の真ん中に立ち尽くす。
ひとりだった。どうしようもなくひとりだった。ひとりは嫌いではないと思っていたのに、今の私は自分が何をして過ごせば満たされるのかとか、そういう簡単なことすら想像することができない。ただしんとした部屋で時間が染みこむように過ぎていくのを眺めている。
部屋の灯りを消して眠ろうとして、そういえばくらげは一日中同じ灯りの中で退屈しないのだろうかと考える。飾り棚の上が青紫色に鈍く照らされているのを眺めながら、いつの間にか私は眠りに落ちていた。
朝になってもくらげはまだ水の中をぼんやり漂っている。私は孵化させたプランクトンを水槽の中に垂らしてみる。水の流れに沿って広く漂うように、そっと。
食べているのか、わからなかった。くらげは小さな体をふよふよと頼りなさ気に震わせるだけだ。
「行ってきます」
私はくらげに語りかけた。なにをしているのだろう、と自分でも思った。
お昼休みにくらげの動画を見てみた。ミズクラゲのように見慣れたかたちのものもあれば、光り輝く深海のくらげや、奇妙な形をした毒のあるくらげ、色々な姿のものがあって、少女が惹かれるのも少しわかる気がした。
ふと検索結果に、近くの水族館でくらげの展示をしているという情報があって、行ってみようか、と考える。それでもひとりで水族館に行くのはなんだか怖くて、迷う。一人が嫌なのか、それとも自分の知らないところへ行くのが怖いのか、よくわからなかった。
帰り道、水族館の方へ足を向けるか、まっすぐ家に帰るか、少し考える。結局私はどちらの道も選ばなかった。昨日と同じ道を、ぼんやりと進む。少女が今日もいるという保証はなかった。もしかすると風邪を引いて寝ているかもしれない。それでも私は海の方へと向かっていく。
海の景色は昨日とは一転して穏やかだった。風が凪いでいて、静かだ。どんより曇った空が海に蓋をしているように見える。海は曇り空を映し込むように鈍い色をしていた。
「あ」
昨日とは別のところで、少女の姿を見つける。河口から離れた場所で、波打ち際に足をつけていた。まくり上げたジャージの裾から細いふくらはぎが覗いている。まぶしい。
「あ」
砂浜を歩いて行くと少女がこちらを見た。
「どうも」
私は頭を下げる。子供相手にどうして敬語になってしまうんだろうとふと考えたけど、でもわざわざタメ口に直すのも変だったので、気にしないことにする。
「元気にしてますか、くらげ」
少女が尋ねるので、私は苦笑いで返した。
「見た目ではわからないですけど、多分、元気ですよ。色々調べて、頑張って飼います」
今日は、何か取れました、という質問に、少女は持っているバケツを傾けて見せてくれた。中にはヤドカリや巻き貝が入っている。
「これも、飼うの?」
私が驚いて聞くと、少女は少しだけ笑った。
「飼ったり、餌にしたりです」
餌というのが少し気になったので、他に何を飼っているのか尋ねると、ミズダコとミズクラゲと小魚を、と教えてくれた。
「たこ」
「そうです。シャイで可愛い子ですよ」
「シャイ」
シャイなタコというのがなかなか想像できずにいる私を見て、少女はまた笑った。
「脱走癖があるので、管理が大変なんです。タコってすごいんですよ、頭がいいんです」
「頭がいい」
「くらげと違って餌の時間もちゃんと覚えてるし、好物だってあるんです。とても賢いです」
退屈な環境で飼育するとうつ状態になったりするらしいです。猫科の哺乳類と同じですね。と少女は言った。
「好きな人とかは」
「え?」
「好きな男の子とか、いないんですか?」
少女は少し考えて、私を見た。真顔だった。
「いないんです」
それから少しして、おかしいですか?と聞いてきた。いいえ、と私は答える。おかしくない、ちっともおかしくない。
「クラゲみたいな人か、今飼ってるタコみたいな人がいればいいんですけど」
冗談だろうか。私は考える。少女の表情を見ている限り、冗談にはとれなかった。
せっかくの高校生なのに。と言おうとした言葉を飲み込んで少女の長い手足を見る。キレイだった。造形的に美しいというよりも、生き物として美しいと思った。くらげの漂う姿が優雅に映るように、少女の生きている姿もまた同じように美しいと思った。
もったいないとか、そういう風に思うのはきっと大人のエゴなんだろう。彼女は幾つの時点でもきっと彼女だし、その時々で別の何かに情熱を傾けて、生きているだけなんだろう。私はたまたま高校生の彼女に出会って、その美しさに心打たれている。それだけなんだ。そういう風に思った。
「お姉さんは」
少女の声にふと我に返る。
「お姉さんにはいないんですか、好きな人、とか」
私はふっと笑った。
「いないんです。この間いなくなりました」
「嫌いになった?」
「そういうのじゃないんですけど、いなくなっちゃったんです」
そうなんですか、と少女は視線を砂浜に落とす。黒い髪はつややかで、自然光を浴びて虹色に光を跳ね返す。癖のない自然な髪。私の髪とは違う、色味、質感。作為のない美しさ。そのままの。未加工の。それでも彼女は自分が美しいとは夢にも思わないのだろう。そう思った。水槽の中のくらげと同じだ。
「でも」
私の声に少女が顔をあげる。真っ黒い目が透き通っていて海の底みたいだった。
「くらげをもらえたから。なんとか元気になりそうです」
さっきまではそんなこと考えたこともなかたのに、口に出した途端、なんだか本当に元気が出てきた気がして、私は笑った。少女も恥ずかしそうに笑う。
「力になれて、よかったです」
お姉さんはキレイな人だから、きっと大丈夫ですよ。少女が言った。思いもよらない言葉に、私は一瞬固まって、それから笑ってしまった。なんだか、何も考えずに、笑い声が漏れてしまった。こんなふうに笑ったのはいつぶりだったろう。随分長い間忘れていた笑い方のような気がして、笑いすぎて涙が出た。少し戸惑っている少女を置き去りにして、私は体を折り曲げて笑う。それからふと、少女の足首が海水に浸かりっぱなしだったことに気づいた。
「バケツ、重そうだから。家まで送りましょうか」
少女は首を振る。
「自転車なので」
そう、と私は息を整えて、少女に会釈をする。
「さようなら」
少女が頭を下げると、長い髪がそれに合わせてしゃらしゃらと鳴った。なんだかもう彼女には会えない気がして、私は少女を振り返る。少女はもう、私には目もくれず、じっと海の水の中に目を凝らしている。私は砂浜の砂を踏みしめながら、自分の帰る道を目指して歩いた。ときどき混ざる海の音が、誰かからのさようならの声に聞こえた。
<おわり>
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