海とくらげ 1 ©2017 aze_michi
振られた。それだけのことなのに
私はまだ現実を受け入れられなくて、ただぼんやりとラジオに耳を澄ませている。
家へ帰るはずの道はとっくにはずれてしまっていた。どこへ行くんだろう。他人事のように車を走らせる。
当たり前にあると思っていた居場所はあっさりとなくなってしまって、夕方の道は走ったことがあるはずなのに、見知らぬ場所のように感じられる。翳る日がいつもより遠くへ行ってしまような気がしていた。そんなわけあるはずがないのに。
不意にラジオから失恋の歌が流れてきて、不快に思って電源を切る。他人の失恋を歌った歌なのに、どうして私が不快にならなくてはいけないのだろう、と気づいたところで、もう一度ラジオを聞く気にはなれなかった。
家からどんどん遠くなる。景色が見知らぬものになる。音楽のなくなった車内で私は窓を開けた。吹き込んでくる風はまだ冷たい。梅の花が咲く季節だというのに。
ごうごうと耳鳴りにも似た風の音に潮の香りが交じる。河口が近いのだ。髪を揺らす風は乾いていた。私はアクセルを踏み込む。家に帰る人の流れに逆らって、ひとりで海へ下っていく。頭の中は恐ろしいほど無音で、車内は容赦なく吹き込んでくる風のせいでひんやりとしていた。
駐車場に車を止めてとぼとぼと歩く。防風林の松が強風に煽られていた。季節の変わり目の風は容赦がない。川の水と海の水が混ざる地点は、川から流れ出る水と海から戻ってくる水がぶつかって複雑な潮目をなしていた。
海の香りがする。釣り糸を垂らす人の背中を見つめながら、私は黙って歩いた。耳元を風の咆哮がかすめる。つむじと逆向きになった髪が風と重力の間でさまよっている。手櫛で撫でつけようとするのを、私はすぐに諦めた。向かい風の中ではいくら直したところで同じことだ。
ふと、防波堤の間に黒い頭が見えた。細くて長い髪が体にまとわりついている。服装はジャージ、学校指定のものにありがちな、紺色の可愛くない、ジャージ。
女の子だ。しかも若い。まくり上げた裾から白い腕が覗いている。あまりの細さに見惚れてしまった。余分な肉のついていない、華奢な骨格。
少女は長い柄のついた網を持っていた。海水から網を引き上げては、何度も熱心に見つめている。一見網の中に何か入っているようには見えなかった。けれども、少女は何かを大事そうに瓶に閉じ込めては、また網を岩場の影や波の間に突っ込む。
「何が採れるんですか」
思わず声をかけてしまう。少女が頭を上げてこちらを見た。高校生くらいに見える。あまり日に焼けていない肌。薄い体つき。
「…げ」
返ってくる少女の声はか細くて、波や風の音にすぐにかき消されてしまう。
「え?」
「くらげ」
聞き返す私の耳元に近づくように、こちらに体を傾けて少女が叫んだ。
「くらげ」
考えるまもなく私は繰り返す。まだ水も冷たい季節に、あんな薄着で、採っているのがくらげ。
いぶかしがっている私のそばに、少女が網を持って近づいてきた。
「これです」
せっかく近くまで来てくれたので、網の中を覗き込む。何も見えなかった。
「いない」
私は少女の顔を見る。少女は無愛想な顔のまま、ポケットからフタ付きの小さな瓶を取り出して私の目の前にかざしてくれた。中には海水が入っている。それに、小さな小さな、くらげ。
「ほんとだ」
私は呟いた。少女は満足そうに頷く。少女の手は濡れていて、手の甲はところどころが紫色に染まっていた。
「どうして、こんな寒い日に」
「日課なんです」
少女が言う。日課。毎日自分に課した、作業。いやでも、何もこんな寒の戻りまっただ中の日に海にする作業ではないのではないだろうか。少女が鼻を鳴らす。やはり寒いのだ。
「帰ったほうが、いいんじゃ?」
「いや、大丈夫。大丈夫ですから」
そう言っているうちに、少女が大きなくしゃみをした。私もコートの下にもう一枚なにか着てくればよかった、と後悔する。春の海は、寒い。
「おいで」
私は少女を自分の車の方に招いた。
「今日は不漁でした」
少女が言う。そうですか、と私は、真水で洗ったばかりの真っ青な少女の手にタオルを渡す。
「風が強くて、ダメみたいです」
少女は思ったよりも背が高かった。猫背気味だったからさっきはわからなかったのだ。
「くらげなんて、採ってどうするんですか」
私の質問に、少女は僅かに首をかしげた。
「飼います」
「くらげを、飼う」
考えたこともなかった。くらげを飼育するなんて。そもそもくらげなんて見てどこが楽しいのだろう。芸をするわけでもなく、鳴き声をあげるわけでも、懐いてくるわけでもない。ただ水の中をさまよっている生き物とも漂流物ともつかないものを眺めて、楽しいのだろうか。
「可愛いですよ」
私の頭の中を見透かしたかのように少女は言った。
「何時間でも、見飽きないんです。手入れも簡単ですし」
「夢中になれるものがあるって、いいですね」
私は微笑む。理解はできなくても、少女のことを羨ましいとは思った。凍える体のことも忘れるくらい、熱中できるものがあるというのはいいことだ。たぶんとても、贅沢なことなのだ。
エンジンをかけて、暖房をつける。私はそばに置いてあったブランケットを、助手席の少女の肩にかけた。温風が少女の方に行き渡るように調節する。
「お姉さんは」
少女がフロントガラスを見つめながら言った。鏡越しに、目が合う。
「お姉さんはないんですか、夢中になれるもの」
私はなんと答えるべきか少し迷って、曖昧に微笑んだ。
「ないです」
隣の少女を見る。
「夢中になるって、ひとつの才能なんだと思いますよ」
「才能?」
少女が鏡ではなく私の方を見た。不思議そうな顔をしている。
「私にはそういう才能がありませんでしたから、普通に生きて、恋をして、それなりに、やって行きたかったんですけど」
自嘲を込めた笑いが漏れる。どうしようもなかった。
「だめでした。普通に生きることもできなくて、上手く行かない。あんまり得意じゃないみたいですね、他人とどうこうするのも」
子供相手に何を話しているんだろう。そう思った。
「そんなこと、ないですよ」
少女がうつむく私の顔を覗き込んだ。
「現に今、見知らぬ私と、どうこうしてるじゃないですか。お姉さんは親切だと思います。温かいです、これ」
少女はブランケットを指して言った。私は笑顔を取り繕う。
「これ、あげますね」
少女がポケットからプラスチックの小さな瓶を取り出した。
「人工の海水で飼えます。今日やっと見つけた一匹ですけど、でもお姉さんにあげます」
私はなんとリアクションしてよいかわからなかった。私はくらげに興味がないし、荒れた海で取れた一匹の価値もわからない。そんなものをもらっても、どうすればいいのか、わからなかった。
「私、行きますね。さよなら」
少女は私の手の中に瓶を握らせると、ぺこりと頭を下げて行ってしまった。私は呆然と、少女の後ろ姿と手の中の瓶とを交互に見つめた。
<つづく>
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