上手く歌いたい

©2017 aze_michi


 家に帰るとまず部屋にこもってノートに詞を記す。とても読めたものではないことはわかっている。わかっているのに、私はシャープペンシル置くこともできず、呪いにかかったようにノートの前から移動することができない。


 次こそは、っていつも思う。もっとまともなものが書けているんじゃないかとか、道行く人をはっとさせるような歌詞ができたんじゃないかとか、今度こそは。って毎回のように思っている。祈るような気持ちで歌詞にメロディをつける。完成した曲はたいていとても幼稚で、聞きかじりのメロディをつぎはぎたしたフランケンシュタインで、産んだことのない胎児の呪い。って感じでとても聞けたものではない。


 だけどどうしてだろう。私はこのくだらない歌を破って捨てる気持ちにはならない。



 


 家で楽器を演奏すると叱られるので、曲ができると私は外に飛び出す。もういてもたってもいられなくて、宿題どころではなく、夕飯も取る時間なんてない。ノートとギターケースを掴んで、家を飛び出してしまう。


 色んな場所を試した。公園や空き地、駅前の広場。どこへ行っても居場所はなくて、うるさくして怒られてしまう。たどり着いたのが、川の上だった。これでも私は女の子なので、河川敷にいる心もとなさというか、夜の闇になにが潜んでいるかわからないという不安はとてもではないけど耐えられるものではなく、その点いつだって車の通っている高架はなんだか安心できた。


 人々がみんな私を無視して通りすぎてくれるのも良い。時々あからさまに笑われたり、変な男の子に絡まれたりもするけど、今まで試した中ではこの場所がダントツだった。


 歌だって全然上手に歌えなくて、自分のか細い声は風やエンジンの音にすぐ負けそうになるから、私は意地になって声をはるのだけれど、そのせいで下手な歌が一層下手に聞こえる。車の排気は声に悪くて、喉の奥に絡みついては私の声を枯れさせる。


 それなのに、どうして私はこんなことをしているんだろう。




 ところで最近、私にもギャラリーがついた。ファンというか、なんというか、とにかく変な人だ。最初は私のことを笑っていたくせに、そのうち飲み物を持ってくるようになったり、お弁当を持ってきてくれるようになった。ときどきギターが調子外れな音を奏でるたびに、著しく苦痛に顔を歪めている。そんな顔をするなら聞きに来なければいいのに。そう思うけれど、口には出さない。


 なんというか、少しだけ、心強かった。一人ではないような気がして。


 その人は私が楽器を触ったり、発声練習をしている間に、色々話しかけてくるようになった。ネットアイドルに入れ込む中年男性というのはこういう感じなのだろうか。


「ちゃんと食べてる?」


 とか


「勉強してるの?」


 とか、とにかくくちうるさい。けれどもさすがに食事を差し入れてもらっているうちに私も心を開くようになって、いつの間にか自分の家庭環境や進路について色々話してしまっていた。こういうのって、危なくないかな。これでも未成年なので、あんまりそういうの、よくわからないや。とにかく一緒にご飯を食べるというのは恐ろしい行為だと思う。勝手に打ち解けてしまう。


 私はごはん粒のついた割り箸を振り回しながら、即興の歌を歌う。その人は相変わらず聞くに耐えない、という顔で見てくる。


「そういうの恥ずかしくないの」


「恥ずかしくないです。おとなしくすまして社会人ですって顔して、毎朝必死こいて自転車漕いでるあなたよりは全然、恥ずかしくないです」


「見てて痛い」


「あなたが痛みを感じるのはあなたの勝手ですけど、私の歌を止めることはできないです」


「高三なんでしょ、もう少し落ち着いたら」


「落ち着いたらなんですか?落ち着いたら、成績が良くなったり、奨学金の審査通ったり、奨学金が無期限貸与になったり、します?そういう見た目だけなんですか?大人が見てるのは全部そういう上辺なんですか?」


「そうです」


 いつになくはっきりと言い切るので、私は二の句がつげなかった。


「やることやらないでブラブラして好きなことやってるっていうのは、単なる逃避でしょ。好きなこと汚して楽しい?」


「汚してるという自覚はないですけど」


「無自覚ならなお悪い。好きなことやりたいなら、自分のやることやってからにしなさい」


 ぼんやりした人だと思っていたのに、めずらしく、叱られてしまった。私は中身が年齢に不相応に子供なので、むっとした感情を隠すことができない。


「だって、だって。できないんですもん。みんなみたいに勉強も、部活も、なにひとつ熱心に打ち込めなくて、家には居場所もないし、できることだってなんにもなくて、なんにも、ほんとになんにも持ってなくて、怖くて」


 言っているうちに感情が激高して、鼻がつんと痛くなった。ああ、やばい、泣く。


「そんな下手な歌を大声で歌う勇気があれば、なんでもできると思うけど」


 ずんと心臓が重くなって、動機がした。不規則な拍動が目から涙を押し出した。

 ぼろぼろと泣き出した私から、彼はめんどくさそうに目をそらした。


「お節介ですよ」


 私はつぶやく。顔を下に向けると、中途半端に伸ばしている髪が視界にかぶさる。私の泣き顔も、隠してくれているだろうか。男がつぶやく。


「そうだね、悪かった」


 がさごそと物音がする。自転車の動く音。がしゃん、ごと。


「おやすみ」


 人のいなくなる気配がする。私はその場にしゃがみこんで、声を出さずに泣いた。夜の湿気った空気が、星をずっと遠くする。こんな気持ちで、眠れるわけないのに。おやすみなんて、馬鹿げてる。私は泣きながら荷物をたたんで、家に帰る準備をした。


 夜遅くなるまで帰らないことが多いので、母親には「娘が非行に走った」と思われている。家の中ではなんだか腫れ物だった。「ただいま」とリビングに入ると、小さな妹が無邪気にテレビを見てはしゃいでいる。母と再婚相手の子だ。私は母と前の父の子なので、なんとなく、彼らといるとのけもののような気分になってしまう。


 母は小さな妹にかかりきりで、進路や成績について相談する時間をとってもらうのも、難しかった。私は泣きはらした顔を腕で拭い、黙って二階の自分の部屋に向かう。扉を閉めると、空気がどんよりと淀んでいる気がして、私は窓を開け放った。滲んだ空に星が出ている。


 涙を流したのは久しぶりだった。私はあの人のことを考える。ただの他人に、どうしてあんなことを言うんだろう。地面に座り込んで、自分の膝に顔を埋めた。じんわりと痛んだ胸が妙に熱かった。


 不思議な気持ちだった。悲しいわけでも怒っているわけでもなくて、妙に心が軽く感じる。あの人は明日も来るだろうか?いつか私がこの気持ちを歌にしたら、あの人は聞いてくれるだろうか。笑わずに、聞いてくれるんだろうか。


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