上手く歌えない©2017 aze_michi

 下手くそな歌だ、と思った。楽器だってめちゃくちゃだった。ギターを手にはしているが、まともな音なんて一音も鳴っていない。ちゃんと弦を張っているのか、指で弦を抑えているのか。どうしてこんなところで歌っているんだ、とも思った。人通りのほとんど少ない、夜の陸橋の上なんかで。

 

 トラックの騒音に声がかき消される。少女は声をはる。下手な歌がますます聞くに耐えない音になる。ちらりとギターケースの中を見ると、ガムの包が捨ててあったのが見えた。通行人が投げ捨てたのかもしれない。あわれ。


 自転車を漕ぐ足に力を入れる。川の上はバカみたいに風が強い。ときどき太ももがつるかと思うくらいの強風に煽られるときもある。もう冬も終わろうとしている季節の変わり目で、春一番が上空でごうごうと唸っていた。こんな日に、あほか。若さというのはあほさである。と俺は思った。たとえば強風の日に誰も聞いていない歌をがなりたてる。たとえば誰も見ていないコンサート会場でヲタ芸に命をかける。たとえば何の見返りも見られないのをわかっていながら女に貢ぐ。これらはすべて若さのもたらすあほさなのだ。


 けれどもあほさというのは長続きしない。儚いものなのだ。若さもまた然りである。

 俺は少女の金切り声ともつかない歌声を尻目にその場所を走り去った。





 以前あほさは長続きしない、と俺は言っただろうか。思っただろうか。だとしたらそれは訂正しておく。あほというのは客観的にものを見ることができないから、なんでこんなことを、ということに長く情熱を注げるものでもある。


 少女は毎日その場所で歌っていた。相変わらず歌は上達しない。自作なのか、とてもひどい歌を歌っている。本人は満足そうだが果たして彼女の青春は本当にそれでいいのだろうか。俺はふと心配になる。春が来てもう五月が終わろうとしていた。彼女くらいの年頃の少女には大きな変化をもたらす季節だと思うのだが、少女は今日も下手な歌を歌っている。少しも恥じるところがない真っ直ぐな姿勢は、見ていて少し不安になる。


 俺は通り過ぎさる際にちらりと少女の顔を見た。鬼気迫るものがあった。刺すような目をしている。十代特有の殺気だと思った。小柄で華奢な体型からは信じられないような凄みがあった。初めて見た時から彼女はあんなふうな目をしていたのだろうか。半袖のシャツから覗いた腕は信じられないほど痩せていた。あの痩せ方はものを食っていない痩せ方だ。自分も貧乏芸大生生活を送っていた時期があるので少しは覚えがある。好きなことをやっていられればいいとか、夢さえあればいいとか、そうやって自分で自分を食い物にしている悪い生き方だ。


 家に帰ってからしばらく少女のことを考えていた。ぼんやりと冷蔵庫の中身を覗く。ろくなものが入っていない。財布だけを持って外に出た。近所のコンビニで弁当を買い、本を立ち読みし、飲み物を手に、自転車にまたがる。


 どうしてだかそのまま家にまっすぐ帰る気になれなかった。頭の中では少女の下手な歌が響いていた。あの子はまだあそこに立っているだろうか。体を起こしペダルに体重を乗せる。車のヘッドライトが眩しい。


 


 少女は相も変わらず陸橋の上でひとりギターを抱えて孤独そうに佇んでいた。俺はその傍らにそっと自転車を停めた。少女が俺を見る。怪訝そうな顔だった。俺はどうしていいかわからなくなる。


「歌、うまいね」


 口から嘘が飛び出した。少女はノーリアクションのまま視線を正面にうつす。下手だという自覚はあるのだ、と俺は内心で驚いた。

 無愛想な子だと思った。19、18,あるいはもっと幼いのかもしれない。


「これ差し入れ」


 俺はコンビニの袋を少女に差し出した。少女は眉根を寄せて俺を見た。


「私、あなたのその自転車覚えてますよ」


 声が細い。とても歌を歌うのに適した声だとは思えない。こんな排ガスだらけの場所で歌っていたら喉にも悪いだろう。この子はあまりかしこくないのかもしれない。


「毎日この道、通ってますよね」


「自転車に特にこだわりはないんだけど。まぁ、覚えてくれてたなら、嬉しいよ」


「いつも私の歌を聞いて笑ってるから」


 少女はムスッとした顔でうつむいた。自分では笑っている自覚などなかったので驚いた。いや、でも、笑ってしまっていたのかもしれない。あまりに安直な歌詞を歌うから。


「いいんです別に、才能なんてないのわかってるし。誰も認めてくれてないし。自分でも、ダメだってわかってるし」


 少女は自分で自分を貶しだす。俺は特に何も言っていないのに、なんだか悪いことをした気分になる。


「いやわかんないよ、ほら、テレビをつけてご覧。君テレビとか見る? 君より下手な子いっぱいいるよ」


「でもそれって顔が可愛いとか親がコネ持ってるとか、歌を補う何かがあるんですよね。私には、そういうのないから」


「君が可愛くないとは言わない。だけど可愛いとも言わない」


「言われなくても、わかってます」


 少女は冷たい顔で俺から目を背けた。


「音楽を聞くのが、好きなんです。聞いてると自分でもなにか作りたくなって、声に出したくなって、だけどそんな才能は私にはなくて。たとえば、大きな声が出るとか、表現力があるとか魅力的な声質とか、誰も聞いたことが無いような詞が書けるとか。そういうの、何一つ、ないんです」


「じゃあカラオケでも歌ってればいいじゃん」


「それじゃだめなんです」


 少女が俺を見た。あの、刺すような目をしていた。どうしてダメなんだろう。カラオケボックスならいくら下手な楽器を鳴らしたって怒られないし、誰も歌をけなさない。音源だっていくらでもある。ひとりで入るのに配慮された店舗もあるから、友達がいなくたって平気なのに。


 少女は橋の欄干を握りしめた。それからそのまま橋の上によじ登ろうとする。俺は慌てて少女の体を羽交い締めにした。これ誰かに見られたら社会的に死ぬやつだ。彼女が死ぬか、俺が死ぬか。でっど・おあ・だい。

 少女の体は思ったとおり、引くほど軽かった。


「ごめんなさい、取り乱しました」


 じたばたともがいていた少女が、急におとなしくなる。俺は少女の体を離した。子供の頃に巣から落ちていたひな鳥を拾った時のことがなぜか連想された。結局ひなは飼いきれなくて死なしてしまったんだっけ。


「下手な夢見ないほうがいいよ」


 俺はつぶやく。誰に言っているのだろうと思った。

 夢を見ても傷つくだけだ。もがいたって溺れるだけだ。


「夢なんて私、見てないです」


 少女は真っ直ぐな目で俺を見た。


「ただ自分と向き合いたいだけなんです」


 耳が痛い、と思った。物理的に痛いというよりは、精神的に痛んだ。


「好きなことして何が悪いんですか」


 若いな、とも思った。


「もう、帰りな。あんまり遅くなると家の人が心配するから」


 俺は少女から顔をそむけて、そのまま自転車にまたがった。三年前に棄てた画材のことを思い出す。耳よりも今は胸が痛かった。


「おやすみ」


 俺は少女に投げかける。少女からの返事はなかった。空っぽのギターケースにノートが入っている。ノートのページには彼女が書いたであろう楽譜が記されていて、俺はなぜかそれを直視できなかった。







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