愛してるって、言ってみて 2
ひとりになると不安になる。どうして自分がこんな感情になるのかよくわからない。
寂しいような、苦しいような、胸のどこかが欠けているような。そんな感じ。
佐田さんが帰ったあと、私はいつもひとりになる。
死にたいような、消えてなくなってしまいたいような、曖昧な感覚。
若さを浪費している。時間を無駄にしている。そんなことはわかっている。
だけど、佐田さんは私に優しい。私に都合のいい言葉をいとも簡単にくれる。
そのすべてが偽りだったとしても、ほんの少しだけ真実が混じっていれば、それでいい。
今は。
今はそれでいい。
とか言っているわけにはいかなくて、気がつくと私は佐田さんの娘さんの通う幼稚園についてネットで調べていた。教育理念、広さ、職員のコメント、正直全然私にとっては意味のない情報の羅列なのに、自分がなんでこんなことを調べているのかはよくわからない。ただ眠れなくて、胸に空いた穴のようなものを埋めたくて、そこになにか情報を放り込めば少しは楽になるんじゃないかと、そう思って。
佐田さんは酔うと家族の写真を私に見せてくる。大半は娘さんの描いたパパの絵とか、なんかの工作とか、海ではしゃいでいる姿とか、そんなのだけど、ときどき指で繰る写真の中には奥さんの顔やなんかが混じっていて、そういうのは私を傷つける。
佐田さんは私のことを情の薄い簡単な女だと思っている。私も以前は自分のことを同じように評していた。嫉妬したり激昂したりする、感情の量がそもそも少ない。そういう風に思っていた。
だけど今はよくわからない。佐田さんが幸せそうにしているとなんだか不安になる。もっと私のことを愛してくれればいいのに、そういう風に思う。自分のひどく効率の悪い思考回路が嫌になる。悲しくなるくらい頭が悪くなってしまったみたいで泣きたくなる。
佐田さんの優しさが私だけに向けられていたらいいのにな。
いったい私はいつからこんな面倒な女になってしまったんだろう?
っていうか佐田さんの情報管理の仕方も悪い。フェイスブックのページを見れば、彼の生活圏、住んでいるところ、娘さんの通う幼稚園の情報なんて簡単に手に入る。たぶんほとばしる自意識から、リア充アピールをしないと死んでしまう病気にかかっているんだろう。佐田さんは馬鹿だ。
次の土曜、朝目が覚めるといてもたってもいられなくて、私はシャワーを浴び、身支度をすると、外に飛び出した。電車に乗り込み、佐田さんの住んでいる町に向かう。車両のガラスに映る自分の姿を見ながら、なんとなく自分のことを他人のように感じていた。これは多分私ではない。では、私は一体、誰なんだろう。
グーグルの地図アプリを見ながら、この間調べていた幼稚園に向かう。駅からは徒歩十五分。間に合うだろうか、時計を見る。十時を回っていた。
幼稚園の周辺は、閑静な住宅街だった。土曜の午前、とても静かだ。園舎に近づくごとに、少しずつ人が増えてくる。あの人も、この人も、みんな誰かのお父さんで、お母さんなのだろうか。思ったよりもラフな格好の人もいれば、スーツの人もいる。なんだか自分がすごく場違いに思えた。
門の側には受付があって、女性が何人か座っている。職員だろうか、
行く人がみな首から何か下げている。保護者とか来賓とか書かれていて、そうか、身分を証明しないといけないのだと気づく。
当たり前のことに思い至らなかった自分が恥ずかしくて、幼稚園の周りを歩く。ある地点でふと足を止めて、なんとなくぼんやり、外から景色を眺めていた。小さな子供連れの女性もいれば、落ち着いた感じの、四十代くらいの女性も見える。あの中のどこかに、佐田さんと奥さんもいるんだ。柵の中と外がまるで別世界のように思えた。私、とても場違いだ。なんだかすごく、隔たっている。隔てられている。
「どうしましたか?大丈夫?」
年上の女性に話しかけられる。不審に思われたのだろうか。思わず嘘が口をついて出た。
「姉と待ち合わせしたんですけど、なかなか来なくって。下の子がぐずってしまったみたい、まだ家を出れてないっていうんです」
わざとらしくスマホを取り出したりして、私ホント、何をやっているんだろう。
「あら、大丈夫?開演には間に合う?」
「どうでしょう、ダメかもしれない」
「あなただけでも入ったら?一緒に行きましょうか」
「あ、いえ、あの」
女性が私の背中を押した。六十代くらいだろうか、優しいおばあちゃん、といった感じ。
「もう一度電話をかけてみます、なんだかすみません」
私は強引に女性から離れた。嘘をついているのに親切にされると、自分がすごく悪いことをしている気がする。だけど彼女の誘いに乗ることは出来なかった、どうしても。中に入ったら何かが終わる気がする。私の人間としての、何かが。
もう自分でも何をしているのかがわからなくなってきた。わざわざ休みまでとって、おばさんの親切を無下にして、何がしたかったんだろう。土曜の幼稚園の周りなんて悲しいほど家族連れしかいないし、私はひとりだし、年代も微妙にずれているし、ひたすら寂しくなって泣きたくなった。かばんの中に手を突っ込んで荷物を漁ってみる。なにもない。悲しい。
ひとり泣きそうになっていると、いつのまにか私は自分が、人の流れの中に立たされていることに気づいた。一幕終わったんだろうか、家路につく人の、波。波、波。
穏やかな微笑、カメラに写った我が子を確認する姿、どこもかしこも、夫婦ばかり。体が凍りついて動けなくなった。周りを見渡してみると、誰もかもみんな幸せそうに笑っているのである。なんだか私ばかりが悪いことをしている気分になって、帰ろう。そう思った。
そのときだった。
向こうから歩いてくる一組の夫婦、あれは。
佐田さんだ。
私はあ、っと息を呑んだ。佐田さんの手は奥さんの腰に添えられていて、奥さんはにこにこと佐田さんの顔を見上げている。やわらかなシフォンのブラウス、ボルドー色のロングスカート、上品なローヒールのパンプス。写真で見るよりも、ずっと綺麗。
一瞬だけ、佐田さんが私の方を見た。なにか言ってやろう、そう思ったけど、奥さんの抱えている、抱っこひもの中の赤ちゃんの表情を見たら、もう何も言えなくなってしまった。なんて無垢な表情をしやがるんだろう。
佐田さんは顔色一つ変えないまま、私のすぐ側を通り過ぎていく。
秋のひんやりした風が、プラタナスの並木をざざざっとゆりあげた。
私は佐田さんを振り返る。佐田さんはこちらを一度も振り返らないまま、通りをまっすぐ突き抜けて、駐車場の方に歩いて行った。
あ、なんか今、終わったな、私――
女としてとか、人としてとか、なんかもう、全部ひっくるめて、とりあえず終わった。
ゆっくりと正面に向き直る。それから一歩、また一歩、緩慢な足取りで、駅に向かって歩き始めた。
泣きたい、けど泣けない。私は目を閉じて、五年後の自分をイメージした。五年後と言ったら立派なアラサーじゃないか。とりあえず子供はほしい。男でも女でもいいから、一人目は産んでいたい。
その子供の父親はきっと、どう考えても佐田さんじゃなくて。っていうかむしろ他の人であって欲しくて。
だから私は。前を向いて歩く。まっすぐ前を向いて、胸を張って歩く。
さよなら、佐田さん。
<おわり>
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