愛してる、って言ってみて 1

「ねぇ、私のこと愛してる?」


 一瞬だけ、間があった。彼が私の顔を見る。


「愛してるよ、なんでそんなこと聞くの?」


 嘘だ。


「ありがとう」


 私はそう言って微笑んで、彼の腕の中にもぐりこんだ。


 でも私にはわかる。彼の言葉の半分以上は嘘で出来ている。彼はたぶん私を愛してなどいないし、さっきの質問にも少し面倒くさそうな雰囲気をにじませた。これ以上面倒くさそうな態度を取ると私はきっと簡単に切り捨てられてしまう。読み終わった雑誌を電車の網棚に放置してくるみたいに、簡単に、なんの感情もなく。


 彼は結婚していて家では可愛らしい奥さんが待ってくれているし、幼稚園の子供だっている。やることを終わらしたらさっさと帰りたがっているはずだけど、今私のそばに寝転んでくれているのは私の機嫌を損ねないため。そんなことは誰に説明されるまでもなくわかっている。


 わかっているのに。彼の腕の中は温かくて心地良い。汗の匂いと、首筋や背中に分泌された脂の匂いが混じりあって、彼の匂いになる。年齢の割に筋肉質な体は、いつもシャワーの後にぬりたくっている保湿剤のおかげだろうか、しっとりしていてさわるとすべすべしている。


「そろそろ帰らないと奥さんが心配してるんじゃない?」


 本当はそんなこと思ってもないけど、都合のいい女になるために私から口にする。すると彼はタレ目気味の目元を少し細めて、とても優しい表情になる。毎回思うんだけど、この表情は本当に卑怯。自分の持っている魅力に気がついている人にしか出来ない表情だよなぁ、と私は思う。中身があるにしろ、ないにしろ、自信に満ちた男の人は魅力的に見える。


「まだいいよ」


 よくないくせに。

 ああ、彼の言葉には嘘が多すぎる。



 自分で言うのも何だけど、私は若くて可愛い。そこそこモテるし家事だって下手じゃない。子供が好きな自信はないけど、結婚したらきっといい奥さんになる予感がしている。そんな私がどうして既婚者のそばで無駄に若さを浪費しているのか。


「いい、女の子の旬は短いの。迷っている時間なんかないのよ」


 母親に嫌というほど聞かされた言葉を思い出した。大学生の頃の私は、何度も同じことを繰り返す母を内心では笑っていた。まだまだ人生は長いし、彼女の言うことがどうしても信じられなかったからだ。だけど、母の言うことは正しかったのかもしれない。


 社会人になって一年目、忙しくて時間は取れなかったけど、好きな人はいた。彼には奥さんなんていなかったし、もちろん子供も彼女もいなかった。私の知っている限りでは。いや、きっと本当にいなかったんだと思う。嘘をつくのも難しいくらい、馬鹿正直な人だったから。だけど彼が私を好きになってくれる保証はなかった。下手をすると、趣味に費やすお金が減るから嫌だ、とかいって、女性を振りかねない男の人だった。


 付き合えるのか、付き合えないのか、微妙な位置取りで私は揺れていた。彼の態度も一向にはっきりしない。時々、友人を交えて何人かで食事をしたり、お酒を呑んだりはした。だけど彼は私のことを少しも特別扱いしてはくれなかった。かといって拒絶もされず、苛々した。


 そんなときに言い寄ってきたのが、今付き合っている佐田さんだった。佐田さんは私よりも九つ年上で、いかにも遊んでます、っていう見た目をしていた。はじめは私は佐田さんのことが全然好きじゃなくて、不倫とか受ける、こういう男は奥さんに刺されて死ねばいいのに、なんてことを考えていた。


 それがどうしてこうなったんだろう。いつ、どこで何を間違えたんだろう。私はただ、大事にされたいだけだったのに。


 佐田さんはびっくりするほど女性の扱いに慣れていた。動作に無駄がなくて、今まで見た誰よりも自然体で、こっちに気を遣わせる隙なんて微塵もなかった。そのくせふと真剣な顔をして話しだしたりして、いくら私が冗談や笑い話にしてかわそうとしても、しつこいくらいに諦めない。私のお断りパターンのすべてを上回る展開の速さと手練手管の攻撃で、気がつくとじりじりと距離が詰められていて、私の逃げ道は塞がれていた。


 佐田さんといるととても楽だ。気を遣わなくていいし、あれこれ余計なことを考えなくてもいい。私はただ目の前に提供されるあれやこれやに、驚いたり、喜んだり、はしゃいだりして見せればいい。

 一度側に立ってしまいさえすれば、同年代の男の子たちと一緒に過ごすのよりも遥かに楽なことに気づいた。


 だけど楽なだけ。佐田さんとの時間には中身がない。だから私はときどき虚しくなる。



 今度の土曜は、佐田さんとは会えない。娘さんの幼稚園で、学芸会があるらしい。午前中は幼稚園で、お昼は家族で食事、午後はショッピングモールで買い物をするのだと言ってた。絵に書いたような幸せになんとなく割の合わなさを感じながら、へぇ、そうなんだ、と彼の話を聞き流していたら、めずらしく佐田さんが娘さんの写真を見せてきた。なんだ、また親バカモードか。


 そう思いながら画面に写っている、女の子のおめかししてかしこまった姿を見ると、さすがに胸が痛んだ。佐田さんと奥さんのいいところを集めたような、整った顔立ちの可愛らしい女の子。入園式の記念写真だろうか、紺色のブレザーを着て、写真スタジオでお母さんと一緒に並んで棒立ちになっている。少女のお母さん、つまり佐田さんの奥さん。奥さんは生まれて数カ月の弟君を抱いて、スーツ姿でこっちを見て微笑んでいる。


 この赤ちゃんがお腹にいる時点で、すでに私達はこういう関係になっていたんだよなぁ。

 ほんとうに佐田さんは死ねばいいのに。将来この娘ちゃんが既婚者に口説かれてあっさりなびいてしまったら、佐田さんはどんなリアクションをとるんだろう。自分のしたことなんて棚に上げて、っていうか私に手を出したことなんかすっかり忘れて、泣いたり怒ったりするのかな。



<つづく>


©2016 aze_michi

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