ちいさなひと 3

 目の前の子供、結花は想像していたよりもなんだか小さくて、丸くて、不思議だった。三頭身のきぐるみの中に得体の知れない機械が入っていて、それが自由気ままに動いているような、そんな感じ。


 ぼくはおっかなびっくり結花の傍に腰を下ろした。手を伸ばして、一番高くに三角の積み木を積み上げようとする結花の姿勢は、なんだか頼りない。少しつついたらバランスを崩してこけてしまいそうな、不安定なフォルム。

 

「ほら、結花、こんにちは、は?」


 春香さんが愛娘の顔を覗きこんだ。鼻筋や唇の形が、確かにふたりはよく似ている気がした。だけど他の部分にはきっと、ぼくの未だ見ぬ春香さんの元夫の影がきっと映り込んでいて、それはもしかするとぼくの知らない、知り得ない、仕草であったり口癖であったり、考え方であるのかも知れない。


 そのことに思い至った瞬間急に怖くなった。いつの日かぼくは出会ったこともない男に嫉妬するのかもしれない。いや、もしかするともうすでに、


 春香さんが結花から積み木を取り上げて、ぼくの方を見るよう促した。

 それでも結花は頑なにぼくの方を見ようとはしない。ただじっと母親の取り上げた積み木を見つめている。


「お客様だよ」


 春香さんがもどかしそうに結花に声を掛ける。結花の態度は頑なだった。やがて春香さんは諦めたようにため息を吐いた。

 

「この子、誰に対してもこうなの」


 春香さんが首をかしげて言った。その姿にどこか悲痛そうな色を見たのはぼくの考えすぎだろうか。ふいに、公園で見た母親の謝り倒す姿が、目の前の春香さんに重なって、痛々しく映った。


 どうしてこのひとたちはこんなにも、申し訳無さそうにするんだろう。

 転んだ子供の傍にいなかったことがそんなにも悪いことなんだろうか。知らない誰かからアイスをもらうのがそんなにも悪いことなんだろうか。見ず知らずの大人に懐こうとしないことが、なんだっていうんだ。たかがそんなことが、どうしたっていうんだろう。

 喉の奥を掻きむしりたいような、もどかしい気持ちになった。けれどもぼくはその気持ちをうまく言葉に表現できない。


「あ、今お茶淹れるね」


 その場の沈黙に耐えられなくなったのか、春香さんがそう言ってキッチンに消えた。小さな賃貸の部屋で、ぼくは結花とふたりきりになった。相変わらずぼくたちの目は合わないし、結花は再び拾い上げた積み木を黙々と積み上げている。まるでぼくの姿なんか目に入らないみたいに。


「手伝うよ」


 ぼくも落ちている積み木を拾って、なんとか結花の興味をひこうとするのだけど、手渡そうとするのを大きく首を振るアクション付きで拒否されて少し悲しくなる。


「じゃあ、こっちは?」


 大きな円柱状の積み木がダメだったので、今度は長方形のにしてみる。けれども結果は同じだった。結花が体全体で拒否のリアクションをとった拍子に、おしりが積み木のタワーに触れて、タワーは崩れ去ってしまった。


「あー」


 結花が大きな声を上げた。地団駄を踏み鳴らす。足元に転がる積み木が結花の足を掬った。

 咄嗟に、ぼくは結花の体を抱きとめた。大きく見開かれた黒目がぼくを見た。ああ、初めて目が合った。唖然と開かれた口、桃味がかった鮮やかな赤い粘膜、透き通るように白い小さな歯。


 結花は悲鳴のような、咆哮のような、大きな叫び声を上げた。抱きとめた体はびっくりするほど柔らかくて、そして熱い。口元から透明なよだれが垂れた。喉の奥が見える。


「結花、結花」


 飛んで駆けてきた春香さんが、結花の体を揺すぶった。地面に投げ出された足を大きくばたつかせながら、結花は一層大きな声で泣いた。思わず顔が引きつるくらいの大声に、ぼくはどうしていいかわからず動けない。春香さんが結花の胸元を何度か穏やかに叩いた。とんとん、とんとん、ぼくは結花の足に弾かれた積み木が、部屋の隅に飛んでいくのをただ眺めていた。人差し指には結花のこぼしたよだれが透明に光り輝いている。ぼくはそっとズボンの裾でよだれを拭った。


 気がつくといつの間にか結花の泣き声は止んでいて、春香さんは結花の体をしっかりと抱きしめたまま背中をさすり続けている。春香さんの肩にもたれ掛かる結花の姿はすっかり弛緩していた。眠っている。


「ごめんね」


 春香さんが唇の動きだけでぼくにそう言った。また謝らせてしまった。ぼくはとうとう悲しくなった。子供なんて泣いて大きくなるものなのよ、ぼくがまだ小さな頃に、母が誰かにそう言われていたのを聞いた気がする。


 それが本当なら、なんで春香さんはこんなに苦しそうな顔でぼくを見るんだろう。

 そしてなぜぼくは、そんな春香さんになにもしてあげられないのだろう。


<続く>


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