第一短編集:みんな誰かを愛してる

阿瀬みち

ち・よ・こ・れ・い・と

 口の中に入れた途端鼻の奥に抜けていくミルクとカカオの香り。甘くて少し苦い、舌の奥をツンと刺激する酸味。噛み砕いたアーモンドが口の中に微細な傷をつけた。甘みの最後にわずかに残る苦味、飲み込んだそばからもう、わずかに唇が腫れてる。

 腫れると言ってもそんなにひどい腫れではなくて、唇の薄皮と粘膜の間が、曖昧にざらざらと逆立っている。舌の先がほんの少しだけ、ひりりとした。


 ああ、まただな。と私は思う。


 以前にも似たような経験をしたことがあった。あの時の原因は蟹だった。

 私は幼い頃から蟹やエビに目がなくて、その時もいつものように、嬉々として回転寿司店のレーンを回る、生の蟹の乗ったお寿司を口に運ぼうとしていた。

 口に乗せるとほのかに甘い、透明で淡いピンクがかった身。引き締まったその身を噛み砕くのもほどほどに飲み込んだ後、口腔内の違和感に気付いた。


 腫れてる。唇が、口の中が、今日と同じような、曖昧な違和感を訴えてくる。


 アレルギー症状を発症したのだと気づいたのは、回転寿司屋を出た後のことだった。それでも、はじめは気のせいかと疑うほどの軽い症状だったのが、いつの間にかどんどんひどくなっていって、嘔吐、歯茎の腫れ、息苦しさをともなうようになり、最終的に私は大好物だったエビ、イカ、カニ、タコ、そして貝類、すべての甲殻類が食べられなくなってしまった。


 今ではもう、甲殻類を口にしたいとは思わない。口に含んだが最後、自分がどんな目に遭うか、痛いほどわかっているから。


 口腔内の微細な傷が、カカオに反応して腫れているのを感じる。数年前初めてアレルギーに気付いた時には、まさかここまで症状が広がるとは思っていなかったのに。


 チョコがダメになったと気づいたのは、去年のバレンタインデーのことだった。バットにココアパウダー敷いて、丸めたチョコトリュフを転がしていた時に感じた、喉の奥をしめつけるような息苦しさ。口の中の痛み。多分、いつもより多く吸い込んだココアパウダーが引き金を引いたのかもしれない。ばかだな、と思った。柄にもなく手作りのチョコなんて作ろうとするから、バチが当たったんだ。私は多分もう開くこともない、バレンタインデー特集のレシピブックのページを閉じた。



 口の中の痛みに気がつかないふりをしながら、私はもう一つアーモンドチョコを口に含んだ。奥歯で少し挟んだだけで、柔らかいチョコは簡単に割れた。もっと力を加えると、中のアーモンドがパッキリと割れる。舌の両端に痺れるような痛みを感じた。でも。私は次の包の袋を破き始める。ミルクとカカオの混ざった甘い香りがツンと鼻腔を刺激した。甘み・苦味・酸味のバランスの取れた刺激的な味わいを想像しただけで、甘美な気持ちになる。


 大好きだったものが、食べられなくなっていく。私の意志とは関係なく、食べられなくなっていく。あんなに大好きだったのに、もうからだが受け付けてくれない。どうしたって、こうしたって、治らない。


 うわあごのヒリヒリした痛みが、私を戒めているような気がした。

 もうこれで最後かもしれない。チョコレートを頬張りながら思う。

 やけになって、二、三個のチョコを一気に口に放り込んだ。チョコは相変わらず甘くて、なめらかで、美味しい。口の中の温度で容易に解けて、芳醇な香りを解き放ってくれる。


 昨夜また彼と喧嘩してしまった。あんなに大好きだったのに。いつからだろう、喧嘩の後にひりつく痛みが長引くようになったのは。以前はなんでも話し合えると思ってた。だけど今は、彼の全てを理解できるわけじゃないと、諦めてしまっている自分がいる。

 同時に私も自分のことを理解してもらう努力を怠るようになった。話し合いという名の、互いを罵倒しあうだけの時間が苦痛だった。


 いつの間にか、彼の小言を聞くことが苦痛に感じるようになった。何気ない時間にもいつまた怒られるかとビクビクしてしまう。彼の声が、それ自体が、私の精神を逆撫でする。あんなに大好きだったのに。何時間聞いていても飽きない麻薬のように、大好きだったのに。

 イライラが毒のように体を蝕んでいく。もう治らない、そんな予感が高まっていく。


 食べ過ぎたんだ、欲望に任せて摂取量の限界を超えてしまったんだ。その結果が今のこの状況なんだ。悲しみが雪のように積もっていく。取り返しようのない時間だけが重なっていく。愛していたのに。確かに、愛していたのに。もう届かない。


 空っぽになったチョコの包みを捨てた時、あのひとの足音が聞こえた。

 ヒリヒリした痛みが喉の渇きを加速させる。これが終わったら水を飲みに行こう。

 さようならを言ったら、あの人はどんな顔をするだろうか。


©2016 aze_michi

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