ばかだな。

©2016 aze_michi


 今なにしてたの、と聞くと、

「セックス」

 といって彼女は笑う。私はそれを聞いて、心の奥で醜い何かがふつふつと音を立てながら湧き上がってくるのを感じる。それは意識に上る前に弾けて、悪臭を放って。

 このあいだまで私の隣にいた人と今彼女はいる。

 電話の向こうでふたり。

 さいわい彼女の自宅から私の今いる場所とは遠く隔たっていた。突如思い立って乗り込める距離ではない。よかった。どこか冷静につぶやく自分がいる。

 通話口のむこうで囁くような笑い声が聞こえた。鳥肌が立った。

 衣擦れの音、彼女のそばにいる誰かを想像して気持ちが悪くなる。


 そもそもどうしてそんなプライベートなことを軽々しく口走ってしまうのか。親しき仲にもという言葉を彼女は知らないのだろうか。

 彼女には恥じらいとか知性とかそういうものが、はじめからごっそり抜け落ちている。

 他人への配慮とか思いやりとか、生きていくのに必要なものが、もろもろ。

「それで、なんだっけ」

 尋ねられて言葉がすぐに出ず戸惑った。相手がどこまでもいつもの調子なので、対決姿勢だった私は戸惑ってしまう。

「そう、旅行。あれ、キャンセルしとくからね」

 若干のタイムラグとともに、私の理性がまた顔を出す。理性は鎧になって私の本心を覆い隠してくれる。そうだ、これでいい。

「え、なんで」

 相変わらず無邪気な声で、ちょっと鼻にかかったばかっぽい喋り方。

 神経に障る声。

「いや、行かないでしょ、ふつう。それで、キャンセル料が、」

「なんでなんで、行こうよ」

 たのしみにしてたのに、そう呟いたあとの頬をふくらませる動作をありありと想像できる。

 彼女の言動はいつもワンパターンだ。まるでゲームかなにかのキャラクターみたいに。

「行かないよ、よくそういうことが言えるよね、どういう神経してるの?」

 冷静に話すって決めてたはずなのに。声を荒らげている自分に絶望してる。

「なんかしたっけ。」

 手からスマホが滑り落ちた。世界から音が消えた気がした。落下した先は柔らかいラグの上で、画面はなんとか無事だった。スマホは無事だったけど、私は全然無事じゃない。

 *

 雨が降っている。せっかくの休日なのに。

 恋人もいないし友達だって久しく連絡を絶っている私の脳裏には、ざまぁ、という言葉がちらつく。世の中のすべての恋人たちの頭上に三日三晩雨が降り続けばいいのに。


 不意に、チャイムが鳴った。立ち上がるのも憂鬱な気分だったけれども、気力を奮って体を起こす。ああ、面倒だなぁ。他人の存在しない世界に行きたい。誰とも顔を合わすことなく過ごせる場所があればいい。

 重い体を引きずりながら、玄関にたどり着きドアを開けた。そのとき初めてまだ自分が部屋着姿なままのことに気づいたけど、まぁいいか。別に誰に見られたって。なんだかもう、投げやりだった。すべてがどうだってよかった。

「しのぶちゃん」

 ドアの向こうには、エリが立っていた。ふわふわの猫毛が雨に濡れて一部は広がり、一部はぺしゃんこにへしゃげている。薄手のブラウスは水気を帯びて体に張り付いていた。派手な下着の色が丸見えで、無遠慮にでかい肉の塊が突き出ている。

「何しに来たの?」

「電話、でてくれないんだもん」

 くるくると丸い瞳は猫のようにつぶらで。ピンクの唇は小振りなのにふっくらとやわらかい。

 こういうの、男の人は好きなんだな。

 自分の鋭利な刃物みたいな目つきが急に恥ずかしくなった。エリの丸っこい鼻に比べて、高く尖っている私の鼻。私の持っていないものすべて、彼女は手にしている。そんな気分になる。

 ドアを閉めようとする私の手を彼女が掴んだ。柔らかくて、あったかい手。雨に濡れて湿っている。勢いよく振り払おうとした瞬間、エリの前髪から雨のしずくがぽたりと落ちた。勢いを失った手は行き場を見失って。

「入れば」

 急速に気分が萎えて、私は彼女に家の入口を明け渡した。


「ドライヤー、洗面台の棚にあるから使って」


 




「濡れて行ったら部屋に入れてくれるかも、とか考えたんでしょ」

 私の淹れた紅茶を飲みながら、彼女はえへへ、と笑った。

「どうせ家の近くまで傘さしてきて、あと三百メートル、とかってとこで傘しまったんだ」

「なんでわかるの?」 

 彼女が目を丸くする。ばかだなこいつは、そう思いながら私は髪をまとめる。濡れた衣服の代わりに貸してあげた私の部屋着は、彼女の胸には窮屈そうで見ていてイライラする。

「で、なんの用だったの?」

 私はコーヒーをブラックのまま口に運ぶ。

「だって、連絡とれなくなっちゃうんだもん」

「そりゃなるわ」

 危うくコーヒーを吹き出すところだった。しかしこの場合被害を受けるのは私の家財や衣服に限られているので、じっとこらえる。熱いコーヒーを無理に喉の奥に流し込むと、舌の奥がひりりと痛んだ。

「私しのぶちゃんの他に友達とかいないんだよ、相手にしてくれないと寂しくて死んじゃう」

 同性の友達がいないのはあんたの素行が悪いからだよ。あと寂しいと死んじゃう、とか口走る奴は大抵寂しくても死なない。

「男の子はホテルとか部屋とかしか連れて行ってくれないし。私だって遊びたい」

 ばかだなー、遊ばれてるんじゃない。彼女のでかいおっぱいと童顔目当てに近づいてくる男は多い。しかも大概バカそうなの。彼女は誰にでもほいほいついていくので、ハードルが下がりすぎてデフレーションが加速しすぎてやばいことになっている。

「でもね、ゆうきくんてすごく優しいね。今度買い物連れて行ってくれるんだって。しのぶちゃんの好きになる人はみんな優しい」

 今度こそ本当に、コーヒーが口から散水されるところだった。私は手の甲で口元を強く抑え、ティッシュでこぼれた液体を拭った。

「えりね、しのぶちゃんのことが大好きなの。しのぶちゃんの好きな人だって大好きだし、しのぶちゃんを好きになる人だって、大好きなんだよ」

 二の句どころか一の句も出ない。きょとんとしたまま私は彼女の顔を見る。目を覗き込んだ瞬間、ああだめだ。と思った。何の悪気もない目だ。純粋にバカすぎて泣きたくなる顔をしている。


「だからね、もっとたくさん一緒にいてね」


 私は大きく息を吐き出して、静かに呼吸を整えた。このまま相手のペースに巻き込まれたら、死ぬ。死亡する。


「えりちゃん、私と一緒にいたかったら、日本語と道徳の授業をやり直してから来てね」


 彼女はきょとんとした表情で私のことを見てくる。そんな顔でこっちを見るんじゃない。


「いやだ、怒ってるの?ごめんね?」

 急に泣きそうな顔になった。

 おろおろと私の腕に触れる柔らかい手の平。私は自分の腕につきまとうその手を振り払う。

「ごめんじゃないの、いいの、もういいの。付き合ってた男がただのバカだって判明してよかった。うまく行ってるようでなによりだし。だからね、もう帰って、この服は洗濯して郵送するね」

 小さな洗濯カゴを手に席を立とうとする私の腕を、更に彼女が掴んだ。想像していたよりもずっと力強いその手に私は一瞬ひるむ。彼女の顔を見た。いつになく思い悩むような真剣な目をしていた。普段から浮ついた顔ばかり見ている私はぎょっとして固まってしまう。

 机の上に身を乗り出した彼女の顔が私にぐっと近づく。吐息のかかる距離。彼女の吐き出す息は甘い、コットンキャンディーの香り。


 いちごみたいな、チェリーみたいな、リップの香り。甘い、舌触り。


 彼女の吐息はいやになるくらい甘かった。多分あんなに砂糖たっぷりの紅茶を飲んだせいだ。舌の上を刺激する甘み、リップの味なのか、溶けきれなかった砂糖の粒が残っていたのか。


 やわらかい、どこまでもやわらかい、唇の上の、感触。

 呆然とする私の目の前で、彼女が大粒の涙をこぼした。漫画みたいにきれいなまま、歪まない顔。真珠みたいな大粒の涙が、まばたきもしないまま、机の上に、ぱたぱたとこぼれ落ちて。蛍光灯の灯りを受けて、大きな目が潤んだまま光を捉える。

「しのぶちゃんが好きだから。」

 だから。声が震えている。か細い声、私は固まったまま、身じろぎも出来ずに。

 キスされたんだ、という実感がようやく脳内に受け入れられて、私は更に固まった。

「え、いや、いつから?」

 彼女は大きく頭を振った。まるで駄々をこねる子供のように。

「もうずっとまえから」

 え、だって、そんな、彼女男好きで有名だったし。今まで何度も他の子に忠告されて、それでも私は彼に限ってって、自分の彼氏のことを過信してた。愛し合ってると思ってたし、信じあえてると思ってた。

 なのにあっさり裏切られて、捨てられて。信じられなくて、泣き叫びたかったけど、この、目の前の女に負けたんだと思うと悔しくて、だから声を殺して泣くしかなくて。シャワーを浴びながら涙を流して、そう、お湯が止まったら泣き止むんだって自分に言い聞かせて、結局お風呂からでられなくって風邪を引いて。それもこれも全部今目の前で泣いているこの女のせいで。

 私は多分今ここで彼女を刺してもおかしくないくらいなのに平静を取り繕っているのは幼少期から培ってきたヒマラヤ山脈並みのプライドのせいで。ほんとうはあの電話のあとすぐにでもこいつの家に怒鳴り込んで部屋をむちゃくちゃにしてやりたかったのに。そんなことをするのははしたないから。こんな安っぽい女に負けるのは悔しいから。だから、だから、枕を殴りながら自分の皮膚を引っ掻いたりして。

「だから、どこにもいかないで」

 彼女は震える声でそう言い切るなり、わんわん泣き出した。抱きかかえた洗濯籠から甘い匂いがする。彼女の好む柔軟剤の香り。甘い、ベリーの、女の子みたいな。

 その場から逃げ出したい気持ちと、彼女を抱きしめたい気持ち。どうして自分がそんな風に感じるのかわからなかった。ただその肩を抱きしめて慰めてあげたくなった。どうして? 私あんなに傷ついてどこにも行きたくなかったのに。

 彼女の隣に行きたくなった。泣いている彼女を撫でていたい。殴り飛ばしたってほんとうはかまわないくらいなのに。どうしてだろう。

 私は彼女の手をそっと握って、その顔に額を寄せた。

 えりちゃんは私が嫉妬するくらいに女の子らしくてばかで可愛い。

 白い肌はもちもちで柔らかくて、おっぱいだって大きくて、それなのにこの細い肩。

 ああ、ばかなんだなぁ。こいつも、私も。きっとばかなんだ。その頬に唇を寄せると、しょっぱい涙の味がした。彼女の赤く泣きはらした目が、驚いたように見開かれて、私は大きく息を呑んだ。

「ばかだな」

 呟いた言葉に呆れる前に、もう一度彼女が私にキスをした。

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