夏の終わりに 2


 夜中に、息苦しさで目が覚めた。アルコールを呑んだあとの体臭ーー。


「おかえり」


 のしかかってくる体を押し返しながら声を掛ける。今日も彼はずいぶん酔っているようだった。ここのところ、ずっとこんな風に酔いつぶれて帰ってくる。よほど面白くないことがあったのか、それとも。


 疲れているのはわかるけれど、シャワーも浴びず、着替えもせずに寝具に入ってこられるのには抵抗がある。なにしろこっちは寝ているのだ。彼が酔うと人恋しくなるのは知っている。それでも無遠慮にベッドの中に入ってこられるのは嫌だった。


 酔っていて力の加減がわからなくなっているのだろう、抱きしめられるけれど苦しくて息が出来ない。


「いたっ」


 肩に激痛が走る。まただ、噛まれた。くっきりと残っているだろう彼の歯型を想像しながら、痛みに目を閉じる。酒臭い息、彼の体臭と混じって、脂くさいような、不思議な臭いになる。乱暴に胸を鷲掴みにされながら、固く閉じた目の裏で、何も考えないよう息を止める。

 

 自分が物のように扱われているみたいで、嫌だった。惨めだったし、悲しかった。

 彼が男性の割に繊細な感性を持っている事は知ってる。用心深くて繊細だから、細やかな仕事ができるし、男性ばかりの職場でもうまくやっていけてる。だけどそのぶんストレスを溜め込みやすくて、お酒を呑むともう歯止めが効かなくなる。そんなの、付き合う前から知ってたことだった。


 彼は本当は人一倍優しい人で、私のこともとても大切に思ってくれている。


 つらいのもわかってる、疲れてるのも知ってる。でも、だから、自分になにもできないことが悲しい。こんなふうに寝転んでいることしか出来ない自分が嫌だ。


 鈍い痛みをとどめたままの肩に触れると、熱をもっているのがわかった。明るいところで見るときっと、赤くなっているんだろう。

 いつの間にか彼は、私を抱きしめたまま寝息を立てている。朝になればきっと、今夜のことなんか忘れてしまっているに違いない。私だけが覚えていて、私にだけ跡が残る。


 彼の下からそっと這い出して、寝ている彼の背中にタオルケットをかけた。

 壁に添うように、彼に背を向けてまた目を閉じる。じんじんした肩の痛み、豚の悲鳴のような彼のいびき。

 恋に落ちた瞬間が、もうずいぶん昔のことに思えた。実際それは遠い昔の話だったのかもしれない。


 目を閉じて眠る努力をする。それでも一向に眠くはならない。しかたなく起きてベッドを抜け出し、明日の朝食の準備をすることにする。


 ごぼうとにんじんの笹掻き、きんぴらに豚汁。白米を研いで濁った水を捨てる。ご飯は水に浸しておいて、きんぴらは冷蔵庫で保管、豚汁のもとは味噌を溶く前にふたをして置いておく。

 あらかた下ごしらえの終わったところで、手を止めて寝床に戻った。


 ふと金魚が気になって、鉢のほうをスマホのライトで照らしてみた。

 金魚はぷっかりと水面に浮かんでいて、もう二度と動き出しそうにはなかった。


「ほら、やっぱり保たなかったでしょ」


 頭の中で彼の声がする。ああ、本当に、あなたの言う通りだったのだ。

 寝る前までは平気そうに泳いでいたのに、なぜ。


 私は割り箸でつまんだ金魚の死体をティッシュに落とすと、そのままくるんでゴミ箱へ捨てた。

 空になった金魚鉢は水を洗面所で流して洗った。せめて冬になるまでは、いや、あと一週間でも良い、一緒にいてほしかったのに。


 ガラス容器にはもう何も入ってはいない。

 なぜだかすごく、悲しかった。


<おわり>

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る