ちいさなひと 2
次に出会った時、春香さんは公園でアイスを売っていた。梅雨明けの蒸し暑い時期だった。
普段よりもアイスを買い求める人が多いように思えたけど、それが蒸し暑い気候によるものだったのか、少しでも彼女とふれあいたい男性陣の下心によるものだったのかは不明だ。
ぼくは一目で、あの受付の女性だ、と気づいた。一瞬で前回の失態を思い出し恥ずかしさに顔が火照った。逃げ出したいぼくの気持ちとは裏腹に、足が勝手に彼女の方へ進もうとしている。あああこんな履き古したスニーカーなんて履いてくるんじゃなかった。どうでもいいことばかり頭をよぎる。
無性にアイスが食べたくなった。暑いからだと思った。
「バニラひとつ」
ぼくは彼女に声をかけた。彼女は慣れた手つきでコーンを手にする。そのとき、公園中に甲高い泣き声が響き渡った。悲鳴のような声の元を目でたどると、三歳くらいの女の子が地面に伏せているのが見えた。少女の前方には、その手元から吹っ飛んだアイスが無残にも地面にたたきつけられていた。
どうやら勢い良くすっ転んだみたいだった。
「どうぞ」
唖然としているあいだにアイスが手渡される。
「あ、えっと、どうも」
アイスを口実に彼女と口をきこうと思っていたぼくは、思わぬ展開にしばらくフリーズして、無言でその場を離れた。
近くでは少女がまだわんわん泣き叫んでいる。ぼくの手元にはアイスだけが残っている。
あてが外れてがっかりした気持ちを持て余しながら、泣いている少女の方を見る。口を大きく開けて泣きじゃくる女の子。涙とよだれで濡れた口元には、砂利がついていて、なんだか可哀想だった。
サイレンのような泣き声は、耳が慣れてくるとなんだかとても悲しそうに聞こえてきて、少女を差し置いてアイスを食べることがものすごく悪いことのように思えてくる。結局、ぼくはアイスをその少女に渡すことにした。幸いまだ口をつける前だった。
傍に近寄って、アイスを差し出すと、少女は目を丸くしてぼくを見た。
「いいよ、あげる。食べて」
あまりの驚きに泣き声が一瞬で治まった。知らない男の人に突然話しかけられて怖かったのかもしれない。けれどもその目線は明らかにぼくのアイスに注がれていた。
向こうから母親らしき女性が駆け寄ってきて、少女を助け起こした。女性が少女の膝小僧を拭いている間、少女はぼくの目を疑わしそうに見つめたままアイスを受け取る。
「すいません、すいません。だめよ、知らない人から物をもらっちゃ」
女性はしきりにぼくに頭を下げた。叱られつつも、少女はアイスにかじりつく。その口元には涙の跡と、よだれと、砂とがこびりついていて、汚いなとぼくは思った。真っ赤な頬がりんごみたいで、おかっぱの頭はびっくりするほど黒かった。
なんとなく気まずくなったので、へらへらと会釈をして、その場から逃げるように遠ざかった。ダサいな、なにやってんだろ、自分。そんなふうに感じた。
けれどもその失敗が功を奏してというか、三度目に春香さんに出会った時、彼女はぼくの顔を見て少し笑った。それは職業上の作った笑いというよりかは、少し油断した、プライベートの彼女を想像させるような笑顔で、ぼくは増々彼女に惹かれた。
「覚えてます?この間の休日」
「ええ、アイス買いにきてくれてましたね」
「いつも売り子してるんですか?」
「いえ、知人に頼まれて、臨時のアルバイトです」
そんな他愛もない会話ができたことが、天にも昇るほど嬉しかった。その勢いのまま、帰りに
「今度一緒にアイスでも食べに行きましょう」
と言ったら彼女は
「ごめんなさい」
と頭を下げた。
その後も治療を受けるたび、連絡先を教えて下さいだの、食事がだめならお茶だけでも、だの、思いつく限りの文句を並べて彼女を誘った。断られるのが最初から決まっているようなものだったので、声をかけようか、言おうか言わまいか、などと悩む必要もなかった。ただ誘って、断られる。それだけのやり取り。けれどもそんな下らない言葉を交わせるだけで、ぼくは満足だったし、嬉しかった。
そして迎えた、治療最終日。何度も断られ続けたぼくは、いっそ清々しい気持ちで、彼女に最後の声をかけた。
「ぼく今日で治療終わりなんで、お祝いにどこか食べに行きましょう」
すると彼女は言うのだ。
「そうですね、今度の休日なら。いいですよ」
一瞬目の前の現実が信じられなかった。領収書と一緒に差し出されたのは、連絡先の書かれた一枚のメモ用紙だった。彼女は人差し指を口元に軽く押し当てると、ぼくの方を見て微笑んだ。
わっつびゅーりふぉーわーるど
バラ色っていうか虹色っていうか、世界が光り輝いて見えた。浮かれすぎて帰りに正面玄関の扉に激突してしまうほど、ぼくの頭の中はお花畑だった。
春香さんはものすごく忙しくて、月に二、三度しか会えない。それでもぼくは熱心にラインを送り続け、通話で彼女の愚痴を聞き、会えない時間を埋めた。年上の彼女との関係はぼくにとっても居心地の良いものだった。彼女は決して、わがままを言わない、嫉妬をしない、必要以上の詮索をしない。見返りを求めない。いつも控えめすぎるくらいの彼女の態度は、ぼくの頭の中を容赦なく占領していった。
会うとき。いつもあと一歩、もう少し、という名残惜しさが生まれる。限りある時間がぼくの気持ちを一層掻き立てる。
不安がなかったかというと嘘になる。彼女はいつもなにか奥歯にものが挟まったような物言いをしたし、デートの時だってふと時計を見るときの彼女の顔は何かに追われているようで、苦しそうだった。
だから
「子供がいるの」
と打ち明けられた時、混乱すると同時に、どこか安心しているぼくもいた。これ以上彼女を疑わなくて済む。どのようなかたちであれ、不信の原因が氷解したのはよいことだ。家に帰ってぼくはそのように自分に言い聞かせた。何度も繰り返し、頭の中で呪文のように唱え続けた。
「今度の週末にぼくと、君の子供と、三人で会いたい」
誘ったのはぼくの方だった。不安がなかったわけではない、彼女が母親だったということは全くの想定外だったし、そもそもぼくが自分のポジションを正確に把握していたかというと、それも疑問だった。
冷静に考えてみると、子どもと会う、というのはやはり彼女にとって重要な意味を持っているはずだ。つまりその、新しい家族になるとか、そういう。
けれどもその点に関してぼくはあまりにも楽観的だった。深く考えることが不可能だった、という方が正しいのかもしれない。ぼくは彼女と別れたくなかった。彼女といるうえで、子供が一緒に居たほうが都合がいいということなら、そうしよう、と安易に思い至っただけだったのだ。
<つづく>
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