第二章 肩慣らし
伊藤と川越の不安な日常
寝惚け眼でキッチンに行くと、そこにはいつも通りのエプロン姿で朝食の準備をする川越由樫の姿があった。
「おはよう、伊藤くん」
伊藤国久と川越由樫は同棲を始めてからも「伊藤くん」「由樫さん」とどことなく距離感のある呼び方を続けている。
「おはようございます」
伊藤は立体液晶画面でアリトシの広報課の発行している新聞の朝刊を読みながら川越の作った朝食を口に運ぶ。毎日同じスクランブルエッグだが、伊藤は気にしない。
「由樫さん、これから通勤には気を付けてください」
「どうしたの、急に」
伊藤は朝刊から目を離さず器用に卵を掬って口に入れる。三日前の会議でアリトシが北方新国とイスラム勢力を敵に回すことが確定した。まだその情報は新聞には書かれていないし、それを匂わす内容も見受けられない。大北京と未来社を占領して生産力が上がり、国民の軍事課に対する支持は右肩上がりだ。開拓地を目指して大陸に移住する人も出てきている。国民は企業戦国時代に勝利し、さらなる発展が待っていると信じ込んでいる。新聞もそう思うように誘導的に書かれている。
本当はイスラム勢力からのテロがいつ起きてもおかしくない状況だ。まだ宣戦布告していないとはいえ、2Lの極秘作戦だった電磁波ミサイル発射の情報を掴み、妨害したイスラム勢力が今回のアリトシと2Lの関係の変化を嗅ぎ付けないわけがない。彼らに宣戦布告などという形式ばったものは通用しない。予告なしの奇襲攻撃でテロリズムに走り、抵抗する隙を与えず相手に打撃を与えるのが彼らのやり方だ。移動する海底要塞
「事故が起きるかもしれないです。今年は流氷の量が多いらしいですので」
流氷のニュースなんて、本当は存在しない。気温が上昇傾向にあるアジア地域では滅多に雪は降らないし、北で流氷が作られてもこちらに流れ着く頃にはほとんど溶けてなくなっている。
「そうなの。私が乗る潜水艇は軍事課御用達の専用機だから大丈夫よ」
だからこそ気を付けてほしいのだ。
「油断は禁物ですよ。何が起こるかわかったもんじゃないんだから」
「伊藤くんこそ、怖いおじさん達に囲まれてストレス溜め込んじゃダメよ」
伊藤は向かいの椅子に座ってピーナッツバターを塗った食パンを頬張っている川越を見た。
「最近太ったでしょ」
川越は、伊藤くんもそろそろ中年だものね、と言って笑っている。
太ったのは、三食ちゃんと食事を取るようになったからだ。川越は仕事詰めの伊藤のために昼食用と夕食用の弁当を用意してくれる。一人暮らしをしていた頃食事は食べられる時に食べるという生活で、同期でヘビースモーカーの佐伯東城の次に痩せこけていると言われていた。今は一般成人男性の平均体重だが、生まれつき鈍いことに加えて、バランスの悪い脂肪のつき方をしたせいで余計に運動が苦手になった。
しかし、伊藤が会議続きでストレスを感じていることは間違いではなかった。最近では伊豆少将が会議に召集されたことが不安の種だ。伊豆少将がスパイ容疑のかかった部下を殺害し、しばらく
伊豆少将は実直すぎる。それについては伊豆少将の伯父にあたり、伊藤の
顔を合わせれば話をするような仲になり、伊藤の伊豆少将に対する信頼は増した。普段は他の女性社員と変わらない態度で、図体の大きさを感じさせることはない。上司への気遣いや後輩への面倒見のよさも評価できる。伊藤は、伊豆少将には同じアリトシの社員として人並の生き方をしてほしい、といつしか思うようになっていた。だからこそ、変に動いて有田社長に目をつけられてほしくない。
「ねえ、聞いてるの」
川越が伊藤を真剣な目で見つめる。伊藤は自分の抱えている公私両方の不安を悟られないよう、笑顔で返事をした。
「すみません、何の話でしたっけ」
川越は数秒黙って伊藤の目を見つめ続けた。何か不安がらせることをしてしまっただろうか。
「仕事のストレスはありますけど、由樫さんが心配するほどじゃないですよ」
「もうその話は終わったの。この前、織牙ちゃんと会った話」
「えっ」
伊藤は思わず声を漏らした。山本織牙少尉の専用機
「南日本の技術で赤ちゃん作るんだってよ。すごいよね」
伊藤はまさか川越も子どもが欲しいと言い出すのではないかと思った。しかし、川越の話はそれとは関係がなかった。
「真理ちゃんが欲しいって言ったんだってよ。それって、父性が芽生えたってことなのかな。それとも母性なのかな」
「僕に訊かれてもわかりませんよ」
「今度真理ちゃんに訊いてみてよ」
「セクハラで訴えられますよ」
「男同士でしょ、元は」
「いえ、絶対ダメです。伊豆少将にそんなこと言ったら僕生きて帰って来られませんよ」
「真理ちゃん強いもんね」
川越は笑っているけど、伊藤にとっては笑えない話だ。この前もちょっとした発言で不快に思わせてしまったというのに、もっと踏み込んだ質問をしたら今度は一生太陽を拝めない体にされてしまいかねない。
元から
「そろそろ時間ですよ」
川越は伊藤の言葉に反応して、エプロンを取って鞄を肩に掛けた。通勤時間五分の伊藤はまだゆっくり朝食を食べられる。
「行ってくるね」
「気を付けて」
「もう、わかってるよ」
川越はハイヒールを履いて玄関を出て行った。
*
午前一一時二八分、伊藤のデスクの備付の電話が鳴った。
イスラム勢力による爆弾テロに川越が巻き込まれたという連絡だった。川越はテロが起きた船舶都市内の病院に運ばれて緊急手術を受けているらしい。
連絡を受けてすぐ伊藤は病院に向かった。川越の手術は成功し、後遺症や怪我の後も残らず、三ヶ月の入院が決まった。
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