『建国の物語』の謎を追って
飛行機でオーストラリアに向かう途中、機内のテレヴィジョンでアリトシの船舶都市がイスラム勢力によって爆破されたというニュースを見た覚えがあった。
「ハヌルちゃん、今どこ」
「もうオーストラリアにいます」
「ああ、そう。よかった」
念のためだと言って渡された暗号無線の機械は鞄から少しはみ出る大きさで持ち運ぶには重かった。使わないだろうと思っていたが、到着早々クルドが通信を寄越した。
「アリトシに潜伏してる俺の部下から聞いた情報によると、アリトシはオーストラリアも包囲してるらしい。これから一切飛行機を飛ばせなくなる。ハヌルちゃんはやっぱりそこで待機ということになるから、よろしく」
「それは困ります。カンさんにもすぐに戻ると言いましたし、一人で安全な場所にいるのは気分がよくありません」
雑音がした後、クルドとは別の声がハヌルの耳に届いた。
「ハヌルさん。僕もあなたが帰ってくるのは危険だと思います。しばらく滞在していてください」
「でも、カンさん」
「ヴィナによると、帰ってくる方法はないわけではないらしいんだけど、それは危険すぎる。ハヌルちゃんを死体で帰国させるわけにはいかないでしょ」
「では、情報だけを送るわけにはいきませんか」
「とにかく、そこにいなさいって。サマーバケーション楽しんできて」
通信は一方的に切られてしまった。無線機の使い方がわからず、発信ができないハヌルは諦めて、連合王国政府からの使者に、用は済んだと言い、車に乗り込んだ。
道中、ハヌルは二色の色違いの軍服を着た兵隊達を見かけた。『建国の物語』に書かれている色と同じだ。退役近衛兵も軍服を着用しなければならない。退役近衛兵の軍服の色は緑がかった灰色だ。
「サウバーという方をご存じですか」
ハヌルは運転手に質問を投げかけた。黒いスーツに白い手袋を嵌めた、感じのいい男だ。バックミラーに映る目元から察するに、年齢はクルドやマルティンと同じくらいだろう。ハヌルは、『建国の物語』に連合王国王室付の運転手として出てきた時既に年配者だった男のことを、この若い運転手が知るはずないと思った。
「ええ、知っていますよ。僕の父はサウバー爺さんに運転を習ったんです」
「本当ですか」
意外な返事だった。
「本当です。サウバー爺は有名です。どんなに汚い車でも、運転手がサウバー爺ならマチルダ姫のお忍びの車だって誰もがわかったって話です」
「はあ、そうなんですか」
ここまでは『建国の物語』の記述と合致している。
「マチルダ姫はおてんば娘でしたからね、一五歳の時にエアーズロックから落ちそうになって、助けたのが同い年の新米近衛兵だったっていうエピソードまであるんです。本当の話なのか僕は知らないんですけど」
訊いてもいないのによく喋る運転手だった。だが、話の内容はハヌルの知りたかったことに関係しそうだ。マチルダ姫を助けた男がアーノルド・アームストロングという名前だったら、どんぴしゃだ。
「その近衛兵の名前はご存じですか」
「え、知らないなあ。オズワルドとか、そんな名前だったんじゃないですかね」
運転手は、僕もオズワルドって名前なんですよ、と言ってハザードランプの隣に置かれた運転手情報をあごでしゃくった。
「いい名前ですね」
ハヌルは適当に返事をした。
「ハヌルさんの名前は聞きなれないですね。どういう意味なんですか」
ハヌルは長くて黒い髪を手で梳きながら答えた。
「朝鮮語で
「へえ、スカイかあ」
オズワルドは交差点でゆっくり左折しながら返事をする。会話しながらでも全くブレない運転にハヌルは感心した。
「もうすぐ着きますよ」
ハヌルは窓外に城が見えないかと目を向けた。
オーストラリアに棲息する動物の名前がつけられたウォンバット宮殿は他の建物とは違い、真っ白な外観をしていた。赤茶けた土に深緑の芝生が覆っている庭を突っ切り、宮殿の中に入ると、そこは別世界だ。
寒冷化で大移動を始めた西ヨーロッパ諸国民と東ヨーロッパ諸国民との戦争を終結させた後、暗殺を逃れてヨーロッパを離れ、メルボルンに連合王国本部を遷都したサミュエル五世の要望で、ウォンバット宮殿にはバロック様式のデザインが採用された。異常気象で人が住めなくなった西ヨーロッパの面影を現在に蘇らせたその建築は、観光の名所になっている。
ハヌルは荷物を運んでもらい、紅茶で休憩させてもらった。庭に出ると、真っ白な椅子と机が用意され、その上に土と同じ色の紅茶が入ったカップが置かれた。
「あなたがハヌルさんですね」
二口三口、紅茶を啜ったところで、ハヌルは人影に気付いた。日傘を差していて顔が暗くてよく見えなかった。誰だろうと覗き込むと、女性はにっと笑って隣に座った。
「私がパミラです。よろしく」
「え、パミラ姫ですか」
ハヌルは思わず立ち上がった。
「そうよ」
パミラ姫は日傘を畳んで、自分で紅茶を注ぎカップに口をつける。
身分の高い人に会ったことがなかったハヌルはこんな時どう対応するのかわからなかった。てっきり荘厳な部屋に連れて行かれ、宣誓でもするものだとばかり思っていた。だが、それはおとぎ話の中のことだ。
「ごめんなさい、私、言われるままこんなところでゆっくりさせてもらってしまって」
「いいのよ、座って」
動揺するハヌルを見て楽しんでいるパミラ姫はどこから見ても外を歩いているオーストラリア人の女性達と変わらなった。肌が隠れる服装ではあるが、特に高価そうというわけでもない。
「王室が豪華絢爛で上品ぶってたのなんて、今じゃ昔の話よ」
「そうなんですか」
「それに私、民間人と結婚して王室を出るし」
王室の事情はよくわからないハヌルは椅子に座りなおして改めて挨拶した。
「あなたに会えて嬉しいわ。私、アフリカに留学していたことはあるけど、南半球から出たことがないの」
ハヌルが緊張していたのも初めの内だけで、すぐに二人は打ち解けた。本題に入るとパミラ姫は真剣な表情でハヌルの話に聞き入った。
「祖母はよく私に昔の話を聞かせてくれました。自然が大好きで、お忍びでオーストラリア中を旅したそうです。当時はまだ情勢が不安定でしたから、海外に行くことはできなかったそうですが、祖母にとっては充分すぎるくらい、オーストラリア大陸は広かったと言っていました。
その旅には近衛兵が何人も普段着で同行していました。多くの近衛兵は祖母が怪我をしないようにと、危険そうだと思える場所には近づかせませんでした。しかし、一人だけ祖母のわがままに答えて危険と思える場所にこっそり連れて行ってくれた近衛兵がいたそうです。彼の名前がアーノルド・アームストロングだったかどうか私は覚えていませんし、祖母が亡くなった今では確かめようもありません。祖母はその近衛兵のその後を話したがらなかったのですが、一度だけ、その近衛兵は徴兵期間が終わると他国に移民したと聞いた覚えがあります。それが新興国家を建国したということであれば、その近衛兵がアーノルド・アームストロングであった可能性はあります。あなたからのお手紙を読んだ時、真っ先にこのことが思い浮かびました」
「ここへ来る時、運転手の人からエアーズロックでマチルダ姫を助けた近衛兵の話を聞きました。その人は近衛兵の名前がオズワルドだろうと言っていましたが、それについては何かご存じですか」
パミラ姫は机に両肘をついて手に顎を乗せた。
「それはきっとオズワルドの冗談ですよ。彼はその手の噂に詳しいですが、彼が得意げになって話していることは都市伝説となって脚色されているものばかりです」
ハヌルは安心半分、失望半分で溜息をついた。
「『建国の物語』でアーノルド・アームストロングは、自分がマチルダ姫を助けたこともあると言っています。これがエアーズロックの事故であったのなら辻褄が合うと思ったのですが」
「それよりも、アーノルド・アームストロングが体力に自信があったのに役に立たなかったと言っていることの方が私は気になります」
パミラ姫は机に置かれた『建国の物語』の一文を指さす。
「祖母を危険な場所に連れて行くことができるとしたら、その人は相当自分の力に自信がある人でしょう。祖母を怪我させたら自分の地位が危ないからです。体力が役に立たなかったと自分で言っているアーノルド・アームストロングが、祖母のわがままを聞いて、なおかつ無事に祖母を城に帰すという重労働に挑戦したでしょうか」
ハヌルはパミラ姫の指の軌道上の文章を読み直した。建国の後ろ盾になってもらうようマチルダ姫に依頼しに行った時の車中でのアーノルド・アームストロングとロゼ・ミランの会話だ。自分の体力が役に立たなかったと言っているが、ハヌルにはそれでもアーノルド・アームストロングは自信に満ち溢れているように思えた。
「私が思うには」
パミラ姫が続けて言う。
「アーノルド・アームストロングは近衛兵として立派な男ではなかった。つまり、オーストラリアで彼は実績を上げることはできなかった。だから私や国民の記憶に残っていない。彼は体を動かすことより頭を使うことの方が得意だった。徴兵が終わると大学へ行き学問を学び、それを基に新興国家を建国した。こんな歴史だったのではないでしょうか」
ハヌルは落胆した。オーストラリアに来たのは無駄足だったのかもしれない。自分の身の安全のために疎開したかのような形になってしまった。
「パミラ姫、今日は本当にありがとうございました。アーノルド・アームストロングについての調査は白紙に戻ってしまいましたが、
「あなたの国が安全でないことは聞いていますよ。しばらく滞在なされるといいわ」
「いえ、私はすぐに帰ります。今日のことを報告しなければなりません」
「でも、あなたを運んでくれる飛行機がありませんよ」
ハヌルは、はっと気が付いて、立ち上がりかけて浮かせた腰を椅子に戻した。自分が帰ると言い張っても、交通手段が断たれてしまったら、どうすることもできない。
ハヌルは重要なことをもう一つ思い出した。
「もう一つだけ、質問していいですか」
ハヌルの申し出にパミラ姫は笑顔で承諾した。
「エデニウムという名前を訊いたことがありますか」
パミラ姫は首を傾げた。ハヌルは説明を加えた。
「『建国の物語』には
風が強くなってきた。パミラ姫は髪を片側にまとめ直しながら答えた。
「そのような資源のことを私は聞いたことがありません。お力になれなくて申し訳ないわ。それはきっとフィクションなのでしょうね」
「そうですか」
風が収まった。突発的なものだったのだろうか、揺れていた木々も次第に元の位置で固定され空に向かってぴんと張った。
「パミラ姫はキリスト教徒ですよね。
ハヌルは自分が長々と話してしまっていることに気付いて言葉を切った。パミラ姫は真剣に聞いていてくれたようで、ハヌルは青い目にじっと見つめられているのを感じた。
パミラ姫が口を開いた。
「神は私達を見ていてくださいます。あなたが辛い思いをしている時、それを知る人が地球上どこにもいなかったとしても、神だけはあなたのことをよく理解してくださいます。だから神に祈って、感謝するのです。あなたが生きている間辛い思いをしたままでも、死後の世界で神はあなたを祝福してくださる」
「死後の世界……」
パミラ姫の言った言葉をハヌルは繰り返した。それこそ、ハヌルが理解できないものだ。
「死んだら、私達はどうなるのですか。私は死んだ後のことを考えたことがありませんでした。前の戦争の時、私の周りの若い人達は死後の願いという遺言を残して戦死していきましたが、彼らも、自分自身の死後については何も書いていませんでした。
近衛兵が三人ハヌルとパミラ姫のいる庭の一角に現れて、ハヌルを呼んだ。パミラ姫が代わりに要件を聞いた。それはハヌルにとっては朗報だった。
連合王国空軍基地に
「ハヌルちゃん、久しぶり」
空軍基地でハヌルを出迎えたのは
「どうしてここに来ることができたの」
「私達は
ハヌルは後ろで控える特殊部隊の軍隊員とそのさらに後ろのステルス機に目を向けた。
「全体に色を自在に変えられるシートが貼ってあって、空を飛んでいる時も誰にも気付かれないの、すごいでしょ」
先程の突風はこの飛行機が着陸する時に起こしたものだったらしい。アンサはだぼっとして重そうな白い布製の鎧のようなものをハヌルに差し出した。
「さあハヌルちゃん。これを着て飛行機に乗ってね。私は別の飛行機で同行する。アリトシの包囲網を正面突破するから、万が一見つかった時は戦闘になるかもしれない。その時は私の乗った飛行機ともう一機が囮になってハヌルちゃんを守るから安心してね」
「ダメよ、そんなの。無理無理」
ハヌルは布製の鎧のようなものを掴み損ねて取り落とした。こんなものを着たら全く動けないだろう。
「
「ヴィナさんがどうして」
アンサは空を指さした。
「私達には、空から見守ってくれている
ハヌルは戸惑いを隠せず茫然としていたが、アンサの号令で軍隊員達が小柄なハヌルを軽々と持ち上げてあっという間に布製の鎧を着させた。
「その服も宇宙で着るためのものを改造して作ったの。気圧の変化なんかを最小限に抑えてくれる機能がついているからマッハで飛んでも何も感じないよ」
ハヌルの喚き声はフルフェイスヘルメットの中で反響してアンサには届かなかった。ハヌルは仕方なく指示に従いステルス戦闘機に乗り込んだ。荷物は足元に置いてベルトで固定した。恐怖でいっぱいになったハヌルは自分の視界いっぱいの青空に祈った。ああ、神様。私は無事に
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます