私達の平和を壊すもの
「真理ちゃん」
真理は後ろから声をかけられ、振り返った。ちょうど今、足を滑らせながら通り過ぎていく伊藤を見たところだった。
「武蔵さん。この前はどうもありがとうございました」
春川武蔵は車椅子を真理の横につけて並行した。
「有田社長が考えていることは真理ちゃんもわかってるんだろう。織牙ちゃんの手前、平和的解決に持っていきたい気持ちはわかるが、あまり派手に動きすぎるなよ」
真理の声のトーンは自然と落ちた。
「織牙は何も、武器を放棄しろと言っているわけではないんです。アリトシがアジア太平洋の盟主になって、平和な世界のために他国を引っ張っていくというのであればいいんだと思います。アリトシが平和維持軍の指揮を執る、というような。有田社長にはそのことがうまく伝えられなかったと思って」
「だから、それがまずいんだよ」
真理は武蔵の言葉を待った。武蔵は続けた。
「有田社長は世界を意のままに操りたい。自分が世界の頂点に立って、祭り上げられたいだけだ。それがいいか悪いかなんて関係ない。力を持った者が正義だってわけだ」
「それではいつまで経っても平和は来ません」
「これが今の世の中だ。俺達は自分が弱者に立たされないよう、自分のできることをやるまでだ」
それでいいのか。真理は武蔵に訊こうと思った。だが、もうじき会議室に到着する。誰に会話を聞かれるかわからないと思った真理は押し黙った。
会議では伊藤が軍事課の今後の動きについて説明することになっていた。目が充血し、隈も作った伊藤はよろけるように立ち上がった。川越がテロに遭ったことは真理も知っていた。それが原因で伊藤の心境に変化があったことは一目瞭然だった。
「大北京と北方新国の国境に間宮海峡班の人型兵器を三機と歩兵八千人を派遣、ベーリング海班は二手に分かれて、ほとんどは北極海の警備に、
飯島の説明は伊藤と変わらず、イスラム勢力に対して強硬姿勢を強めるといったものだった。前回の会議で、アリトシ国内で好き勝手はさせないと息巻いていた飯島だったが、テロを防げなかったことで参っているらしい。
「イスラム勢力から犯行声明はあったのでしょうか」
真理が質問した。
「爆弾テロを行うような団体が、イスラム勢力以外にいるのか」
言ったのは伊藤だった。
「イスラム勢力を装っただけである可能性は否定できません」
「状況から察して、イスラム勢力であると断定した方がいいでしょう」
真理の反論に答えたのは飯島だった。
「何にせよ、人型兵器を大陸に送るには時期尚早です。国防を強化するところから始めなければテロには対抗できません」
その質問にも、飯島が早口で答えた。
「国防は
「敵の憎悪を逆撫ですることになりませんか」
「伊豆少将、ここは上の判断に従え。お前は間宮海峡と朝鮮半島の心配だけしていればいい」
真理と飯島の議論を止めたのは瀬戸内中将だった。
「中将、それでは……」
「いいから、お前は黙っていろ」
瀬戸内中将に諭され、真理は発言を控えた。伊藤は頭に血が上っているようだし、他の出席者達も命令に反抗するつもりはないらしい。ベーリング海班を担当する沖大将でさえ、総動員を命じられているにもかかわらず黙っている。
おかしい。真理は寒気を感じた。少し前の自分なら、この会議で話されていることに何の疑問も持たなかっただろう。それなのに今は戦いに突き進もうとしている様子に、否定的な感情を抱いている。前回の会議の直後瀬戸内中将が真理に耳打ちした言葉を思い出した。南日本の悪い虫とは、サクのことだろう。平和活動家としてアリトシの妨害をしに来たことが彼女との出会いだった。真理は今でもサクの思想を肯定する気はないが、一緒にサクの思想を聞いていた織牙が考えたことには賛成できた。軍事課は死ぬのも仕事の内だと頭ではわかっている。だが、本当に大切な人が目の前で死んだら嫌だ。
会議が終わった。戦争が始まる。早く帰って織牙にも知らせなければならない。真理は解散が言い渡されると足早に会議室を出た。エレベーターに乗り込み、一階エントランスで降りる。本社ビルを出たらタクシーを拾って一〇分で我が家だ。織牙は今日非番だから家にいるはず。
エレベーターの扉の前で待ち構えていたのは、エレベーターに乗ろうとしていた人間ではなかった。
五人の黒服の男が真理を囲んだ。
「伊豆真理少将ですね。ご同行願います」
真理はその男達を知っている。野良犬のようにどこにでも湧いて出る
「罪状は」
真理は反射的に訊いていた。
「国家反逆罪です」
これはまた大きく出たものだ、と真理は思った。国家を危機に向かわせた大犯罪者扱いか。
「ご安心ください、春川大将から言伝を預かっております。しばし動きを封じられるだけで危害を加えるつもりはありません」
「一度家に顔を出したいんだが、ダメかな」
「山本少尉とはすぐにお会いできますから、ご帰宅される必要はありません」
織牙も拘束するというわけか。真理はこれ以上の抵抗は織牙の身の危険にも影響すると考え、大人しく従うことにした。
*
電話に出る時は世帯主の苗字を名乗った方がいいと思い、家の電話が鳴ったら伊豆と名乗るようにしている。本当はお嫁さんごっこがしたいだけなのだが、訊かれても本心は言わない。
「伊豆って。織牙ちゃん、すっかりお嫁さん気分だね」
はっきり言われてしまうとそれはそれで恥ずかしい。
「武蔵さん、どうしたんですか。電話なんて珍しい」
武蔵は低い声で言った。
「真理ちゃんが国家反逆罪で捕まった。織牙ちゃんの方にももうじき
国家反逆罪という言葉の後は聞いていなかった。真理が捕まった。どういう経緯かわからないが、きっと自分のせいだ。平和主義を言い出して真理にわがままを言ったせいだ。
「おい、織牙ちゃん。聞いてるか。もうすぐ
インターホンが鳴って電話の前の液晶画面が光った。二人の黒服の男が映っている。カメラの視界からうまく外れているだけで、実際はもっと多いだろう。織牙は電話の受話器を置き、インターホンの受話器に持ち替えた。
「はい、なんでしょうか」
「山本織牙少尉ですね」
「そうですが、誰ですか」
織牙は物音に気付かれないよう静かに玄関まで行き、ドアにもたれかかった。非番とはいえいつ召集がかかるかわからないから、戦闘服を着用していたのが功を奏した。ブーツを履き、小銃を構え、ドアの鍵に手をかけた。
「医療課の者です。健康診断の結果が出ましたので、お届けに参りました」
医療課が健康診断の結果を手渡しで持ってくるわけがない。それに黒服で威圧感丸出しなのがカメラにも映っている。嘘が下手にも程がある。もしくは、初めから抵抗されることを見越して無駄な芝居は打たない作戦だったのか。
ロシアンコンバット相手に生身の人間とは舐められたものだ。こんな時に思い出すことが、喧嘩ばかりしていた十代の頃の渾名とは、自分も老けたな。織牙は受話器に快諾の返事を告げると勢いよくドアを開けた。
目の前の男の右足近くに一発弾を撃ち込んだ。発射音は消音器で全く聞こえない。開けたドアの向こうからやってくる男に肘鉄を見舞い、他の男達にも一発ずつ洗礼をくれてやった。織牙は、気を失って倒れこんだ男達を後目に長めのコートを羽織り、ドアの鍵を閉め、何事もなかったかのように小銃をコートの奥にしまい、廊下を歩きだした。
「五人か」
織牙の呟きを聞いた者は誰もいなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます