反逆の織牙

 天井に釣り下がっている人工太陽の光が陰ってきた。そろそろ日没の時間ということだろう。海底要塞乙姫アトランティスの内部は太陽の光が届かない海の中でも、そこで暮らす人達が時間の感覚を忘れないよう、昼と夜に合わせて人工太陽の光が調節され、季節に合わせて温度管理がされている。今は冬。凍える寒さではないが耳朶に冷気を感じ、織牙はコートの襟を立てた。

 人工太陽の位置が変わるわけではないから、日没が迫っていても影が伸びるということはない。広場の中心で強い照明が当てられている。映画なら逃走中の犯人は物陰に隠れるのが常套だが、堂々と広場に顔を出しているにも関わらずまだ誰も織牙の存在に気付いていないようだった。

 諜報課ヤタガラスの刺客を卒倒させ、逃亡した犯人を捕まえるためなら、諜報課ヤタガラスだけでなく乙姫アトランティスのパトロール班も動員して当然だろう。山本少尉といえばパトロール班の中には顔を知る者もいる。そうでなくても目立つ体躯なのだから、いつどこで誰に襲われてもおかしくない。

 武蔵が国家反逆罪と言った声が脳裏に焼き付いて何度も反復された。それがどんな重罪だかは織牙にも理解できる。死刑になることだってあるのだ。

 真理が死ぬかもしれない。そしたらどうやって生きていけばいい。やっと、落ち着いた生活ができるようになったと思ったのに、真理がいなくなってしまったらまた自分は独りぼっちになってしまう。嫌だ。真理に死んでほしくない。それもアリトシの犯罪者として殺されるだなんて。真理を助けに行かなければいけない。真理は私が守る。

 急速に近づいてくる足音を察知して織牙は視線を移した。気付かれた。織牙は広場の石畳を蹴って大通りに向かって走り出した。反対側からも普段着の男が現れて織牙を追う。建物と建物の間の細い道を通り抜けて左に曲がった。これで撒けるならいいのだがそうはいかず、走り抜けた前方にも追手が張り込んでいる。織牙は前傾姿勢になり待ち構えていた男の脇腹を抱え込みタックルした。力で負けても体格では負けない織牙は易々と男を持ち上げると後ろで飛びついてこようとした男に向けて放り投げた。三人目の男が銃を構えている。織牙も反応して小銃を取り出す。お互い、軽く息切れした状態で相対する。このままの状態を続けていれば、他にも追手が来て包囲されるのは間違いない。早々に立ち去ろうと織牙は先に一発男の耳の近くに銃弾を掠めて、隙をついて走った。

 この場合行くべき場所はどこだろう。それがわからなければ真理を助けることもできない。捕まった振りをして真理のいる拘置所まで案内してもらおうかと考えた。しかし、諜報課ヤタガラスの連中が大勢いる中、武器なしで拘束を解き、真理の牢屋の鍵を奪って真理を解放するなど不可能に近い。できる限り戦闘を避けなければならない。それは拘置所に近づけば近づく程重要性を増す。

 遠回りして、先々で暴れまわり人員をばらけさせよう、と決めた織牙は本社ビルのある方角と真逆に進路を取り、物陰に消えていった。


  *


 諜報課ヤタガラス特有の拘置所に入ることは、真理にとっては二度目の経験だった。あの時は自分が拘束されていることなど気にする余裕もなかった。樺太に建てられた拘置所は磯臭く、ここよりずっと不衛生だった気がする。来た時と同じ状態で何日も床に座り込んでいたあの時とは異なり、ベンチに姿勢正しく腰かけている真理は、織牙の到着が遅いことに気付き始め、やや心配した面持ちでいた。

 透明かと見紛う程に白く、周囲の物を映して揺らめく床を鳴らして誰かがこちらに向かって来ていた。その男が誰なのかは見なくてもわかった。

「伊豆少将、あの馬鹿犬をなんとかしろ」

 男の第一声は、真理の予想とは異なっていた。

「貴様の飼い犬だろ」

 何のことだか理解に困った真理が黙っていると、諜報課ヤタガラストップで有田社長の秘書飯島田助は、織牙が逃走したことを初めから説明した。


  *


 軽く組み伏せ、気絶した男のスピーカーから聞いたことのある声が聞こえてきた。状況説明を請うその声は織牙のパトロール班のボス、石坂のものだった。

「先輩、私です」

 織牙は無線機を拾い上げて声を吹き込んだ。石坂は瞬間的に状況を把握して織牙に叱責の言葉を浴びせた。

「山本、貴様そこで何をしているんだ。こんなことをしていいと思ってるのか、この馬鹿者」

 織牙は石坂の一辺倒の叱り文句を聞かずに続けた。

「私を倒すのは生身の男じゃ無理だってわかってるはずでしょ。さっさと諜報課ヤタガラスに機動部隊でも何でも出動させるように言ったらどうですか」

 織牙は無線機のアンテナをへし折り、その場に捨てた。気絶した男から離れて、適当に当たりをつけてまた走り出した。


  *


 立体液晶画面に現在の織牙捜索の包囲網を形成している諜報課ヤタガラスとパトロール班の配置が反映される。全員につけられた発信機によって誰がどこにいるかリアルタイムで見ることができる。動きが止まった人達は織牙と遭遇し、行動の自由を奪われたのだろう。既に乙姫アトランティス内五ヶ所にそうした点の塊が見られ、包囲網が簡単に突破されていることがわかる。

 飯島は真理に織牙捜索の助言を依頼した。織牙の考えていることは真理が最もよく知るだろうとのことだ。織牙が拘束されることを拒否し、逃走を続けている時点で真理の予想外の事態が起きているのだが、真理は織牙の安全の保障を約束させ、捜索に協力することにした。

「山本少尉は一体何を考えているんだ。この要塞の中をどれだけ逃げ回っても、最後には捕まることが目に見えているのに」

 苛立った飯島が呟くが、真理は無視した。

 拘置所に到着してすぐ、武蔵が面会しに来た。飯島が真理と織牙の拘束を命じたのは会議が終わってすぐ、真理が会議室を出た直後だったそうだ。武蔵はその場で飯島が無線を通じて部下に連絡している内容を聞き、手荒な真似はしないよう飯島に願い出た。そのお蔭で真理は諜報課ヤタガラスに身柄を拘束された時も穏便に対応されたのだった。それなのに織牙は下手に出ている諜報課ヤタガラスに牙を剥き、逃走を図ってしまった。何人もの人員を自分のために差し向けさせ、要塞中を巻き込んで騒ぎを起こしている。

 織牙はおそらく自分を助けるために行動している。拘置所の警備をしていた社員達が織牙捜索に駆り出され、拘置所内の警備が手薄になってきていることから推測できた。逃げている織牙が自ら拘置所に来ると考える人間はいないわけで、織牙はその慢心を利用して拘置所内に侵入するつもりなのだろう。しかし、鍵を奪って真理を解放して、その後どうするのかまで考えているとは思えない。

「少将、これはどういうことだ」

 真理は飯島の声で立体液晶画面に意識を戻した。拘置所の敷地内に複数の点が固まって動かないでいる。織牙が拘置所に侵入した可能性がある。

「課長、山本少尉から館内電話がありました。今東棟の窓から侵入した。大量に出血している人間がいるから救護班を要請する、とのことです」

 わざわざ報告したのか。真理は胸中で呟いた。このタイミングで出血していると連絡を寄越したということは、それまで誰にも重傷を負わせなかったということか。

「飯島さん、拘置所内の警備を解いてください」

真理の一言に飯島は顔を歪ませて返事をした。

「何を言っているんだ」

「織牙のことは私に任せてください。私のいるこの牢屋がどこだか織牙はすぐに気付きます。そしたら迷わず織牙はここへ来るでしょう。その道中、邪魔が入ったら、織牙は何をするかわかりません」

 真理は拘置所の警備を解くことと共に、真理の牢屋の傍に誰も近づかない、飯島達も場所を移すことを要請した。


  *


 館内電話の受話器を置き、気絶した男を跨いだ織牙は血のついたコートを脱ぎ、空になった小銃をその場に捨て、先を急いだ。静かな廊下に人気はない。程よく警備が薄くなっているだろう頃合いに、一人や二人が織牙を倒そうと現れても、負ける気はしなかった。誕生祝に真理の母親からもらった脇差に左手を掛けて、いつでも抜けるようにしている。

 もうすぐ真理に会える。そのことで頭がいっぱいだった。鍵の場所は襲いかかってきた男を絞めて引き出した。東棟と西棟を連絡通路で挟んだだけの地下二階地上三階のエの字型の建物で、迷うはずがない。

 織牙は非常階段で地下に下り、鍵の置かれた部屋に入った。大胆かつ慎重に進み、誰もいないことを確認する。

「動くな」

 命じる声が織牙の動きを封じる。

「手を挙げろ」

 同じ声が織牙にさらに命令を加える。織牙は男を横目で見て、脇差から手を離し、ゆっくり両手を頭より高く上げた。

「武器はその脇差だけか。上等なものを持っているじゃないか。アンタみたいな成り上がり者が持つには上品すぎるくらいにな。そのまま両手を上に挙げて、床に膝をつけ。ゆっくりだぞ。変な真似はするな」

 いちいち耳につく暴言を聞き流して、織牙は命令に従った。男は震える手で銃を構えて、静かに織牙に近寄ってきた。おそらく乙姫アトランティス内に住んでいる重役の息子か何かで、軍事課に縁故採用された盆暗だろう。もしかしたら、鍵の管理を任されているだけの施設課の人間かもしれない。持ち慣れていない銃口が揺れながら迫ってくる。この調子ではゼロ距離からでも命中しないか、そもそも引き金を引けないのではないか。緊張して真っ赤になった顔の男が訓練通りの動きで銃を片手で持ったまま、織牙の脇差に手を掛けようとした時、織牙は右手を後ろに回し、男の手を掴み自分が回転するのと同時に男の腕を捻りあげた。

 悲鳴を上げる男をよそに、織牙は男を紐できつく縛り床に座らせた。

「伊豆真理の牢屋の鍵はどれだ」

「教えるわけないだろ」

 男が悪態をつく。織牙は男の足を踏みつけもう一度繰り返す。

「頼むから乱暴しないでくれ。俺はこういうのは苦手なんだ」

「鍵がどれか言ってくれればこんなことはしない」

 織牙は男の眼前に立ち、涙目になっている男を見下ろした。

「二九五番だ。牢屋の場所は地下の一番奥。極秘での拘留ということになってるから、知っているのは拘置所の職員と諜報課ヤタガラスの一部だけだ」

 アンタが派手に動いたから火消しで乙姫アトランティス内がてんやわんやだ、と続く声を無視して織牙は鍵を棚から一つ取り出す。そして、館内電話の受話器を取った。男は織牙の様子を不思議そうに見ている。

「今、鍵の保管場所にいる。馬鹿が一人拘束されているが放っておいていい」

 受話器を置くと男が織牙に電話の内容について怒りの声を発した。織牙は男の肩をぽんと叩き、言った。

「電話はどこにも繋がらなかった。安心して呻いていろ」

 どうやら拘置所内で働いていた人間達は一人残らず出払ってしまったらしい。数分前、織牙は拘置所にいると告げたはずだから、戻ってきてもいいはずなのに、さらに少なくなるとはどういうことだろう。

 悪い報せなら考える価値もあるが、自分にとっていい状況を知らせる報せならそれ以上考える必要はなかった。気付かれない内に真理を救出して脱出しよう。織牙は男をそのままにして部屋を出て行った。


  *


 真っ白な廊下を歩いて行くと、仕事の時はぴっちり結ってあるはずの髪をぼさぼさに乱して、ベンチに深く腰掛け頭を垂れている真理の姿が目に入った。名前を呼ぶと、真理が顔を上げて、二人の目が合う。

「織牙、どうしてここに……」

「助けにきたんだ。今鍵を開けるから、一緒に逃げよう」

 真理が扉に近づく。格子越しに真理と対面して、織牙は鍵穴に鍵を差し込んで慌ただしく回す。鍵が開き、扉を開けると真理が織牙の腕を掴んだ。

 そのまま牢屋から出ると思ったが、真理は織牙を牢屋の中に引き入れ、鍵を引っ手繰ると扉の鍵を閉め、抜いた鍵は牢屋の向こうの手の届かないところに投げてしまった。

「何やってるんだ、馬鹿あっ」

「馬鹿はお前だっ」

 織牙の声量を圧倒する怒声が牢屋内に響き渡った。真理が本気で怒っているのが織牙にもわかった。

「こんなことをしたらどうなるのか、わからなかったのか。武蔵さんが電話してくれたのにそれも最後まで聞かないで無茶な真似をして。どれだけの人を巻き込んだと思ってるんだ」

 今までどの男にも恐怖を感じなかった織牙が、真理の前では無力な子どものように肩を震わせている。真理と目が合った時、心の底から嬉しそうな目をして駆け寄ってきた織牙を真理は見た。拘束されたことを心配してくれていたのだとわかるが、今回織牙がやったことを叱ってやらなければならない。

「わからないよ……私は馬鹿だからわからない……」

 言いながら、織牙の目からは涙が零れ落ちている。両手で目元を覆って涙を拭く姿は他の女と変わらない。

「怖かったんだ、真理がいなくなったらどうしようって思って」

 大声を上げて泣く織牙になす術をなくした真理は、言おうと思っていた言葉を飲み込んで、織牙をベンチに座らせた。真理は織牙が大事そうに脇差を外して隣に置く一連の動作を見ていた。真理の母親が持田家から伊豆家に嫁ぐ時に祖母から渡された、持田家の女が代々受け継いできた脇差だ。真理との仲を認めてもらった時に母親がくれたのだった。諜報課ヤタガラスから逃げてくる時に急いで持って出られたとは思えない。いつも携行していたのだろうか。

「ほとぼりが冷めるまでここにいればいい。戦争を阻止しようとしたけど、できなかった。私達にアリトシに逆らう意思がないことがわかれば、すぐに拘束も解かれるから安心して」

 織牙は真理の説明を黙って聞いた。また戦争が始まるのか。今度はどこと戦うのだろう。企業戦国時代が終わっても戦う相手がいるとしたら、北方新国か2Lのどちらかしかない。また他人から大切なものを奪って生き長らえるのだ。この国はそうやって成り立っている。自分で生み出すことよりも、人から奪うことを選んだ。そうでもしなければ生き残れない世の中なのだと割り切って、それを皆にも強いる。

「真理、私は今日、一人も殺していない」

「うん、わかってるよ」

 真理は織牙の肩に手を回して抱き寄せ、頭を撫でてやった。

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