第三章 2Lの介入
スタリ・シビリ
昼間でもどんより暗いスタリ・シビリの街をハルキは娘と孫を連れて歩いていた。戦争が終わってからもうすぐ一年が経とうとしているが、スタリ・シビリが元の華やかさを取り戻す気配はなかった。今でも体の一部をなくした負傷兵やならず者の外国人が目に付き、喧嘩が起こることも稀ではなかった。娘のアルハンブラが子育てのために同居し始めてからハルキがバーへ行くことは少なくなったが、たまに足を運んでもいるのは目つきの悪い若者やそういった輩にくっついている何も知らない女達ばかりだ。
「パパ、ちょっと休憩しよう」
ぐずるシルヴァを抱いたアルハンブラが先を歩くハルキを呼び止める。ハルキは快諾し、近くの軽食店に入った。
一六時を回ったばかりの店内は閑散として、人気も少ない。店員が休憩を取っているらしく、エプロン姿は二人しか見当たらない。アルハンブラがホットジンジャーエールとホットミルクを頼み、ハルキは黒ビールを頼んだ。まだ日が出ているのに酒を飲むのか、とアルハンブラに注意される。
数分後、注文した飲み物が運ばれてきた。アルハンブラは冷ましてからシルヴァにホットミルクを差し出す。シルヴァは覚束ない手でカップを持ち、膜が張ったミルクをちびちび舐める。その様子をじっと見つめるアルハンブラをハルキは見ていた。
近くの席に軍服姿の男と連れ立ってスターシャが入ってきた。華美なイブニングドレスを着ていたのですぐにわかった。おそらく、一緒にいる男に選んでもらったのだろう。ハルキはその男に好感を持っていなかった。
「ハルキとアルハンブラじゃない。こんばんは」
まるで貴婦人のような声音でスターシャが声をかける。
「スターシャさん、こんばんは。ほら、シルヴァもこんばんはって言って」
まだ言葉を喋れないシルヴァは膜がこびりついた頬を赤く染めてスターシャに笑いかける。
「イブニングドレスを着るにはまだ早いんじゃないか」
ハルキは挨拶を省略してスターシャに言う。
「これから出掛けるから着替えられないのよ。どう、似合うでしょ、ねえ」
スターシャは調子に乗ってその場でポーズを取る。服飾デザインの勉強をしたことがあるアルハンブラは何事か言って褒めているが、ハルキは返事をしない。
「ちょっとハルキ、アンタもなんか言ったらどうなのよ。そんなんだから女に逃げられるのよ」
スターシャがカウンター席の男の隣に座りながら言う。男を見る目がない女に言われたくない、とハルキは思ったが、口には出さなかった。
「パパはスターシャさんのこと綺麗だと思わないの」
アルハンブラが真面目な顔で訊く。スターシャなんて名前でロシア系を気取っているが、髪は金色に染めているし、肌が少しでも白く見えるように濃い色の服をいつも着ている。スタリ・シビリに住み着くような
「スターシャが綺麗かどうかじゃない」
ハルキはそれだけ言うとジョッキに口を付けた。
スターシャの隣に座っている男、アレクセイと名乗り、
「今度、僕はここを離れることになったんだ、スターシャ」
「そうなの、じゃあ私もついていくわ」
アレクセイとスターシャの声が聞こえてくる。ハルキは聞き耳を立てた。
「ニオピーターバーグに行くことになったんだ」
ハルキはその発音に違いを感じたが、スターシャは気付かなかったようだ。
「ネオペターバーグって、どこだったかしら」
ネオペターバーグは前回の戦争で激戦地になった場所だ。アルハンブラはそこへ行き、知り合った軍隊員との間にシルヴァを授かるが、その軍隊員は戦死してしまった。スターシャが前から戦争に興味がないことをハルキは知っていたが、ネオペターバーグがどこだかさえわからないとは思わなかった。
「ギャリアヌーヴェルの隣だよ」
アレクセイが答える。耳が敏感になっているからか、微妙な発音の違いにハルキは釘づけになっていた。
「ああ、大きい果樹園があるところね」
「そうだよ《イエス》」
ハルキはアレクセイのその一言で、自分の疑念が的中していると確信した。思い切って立ち上がり、カウンター席に向かい、アレクセイに詰め寄った。
「おい、お前、今何て言った」
アレクセイは何のことだかわからないといった風で、戸惑った目をハルキに向ける。
「ネオペターバーグはニオピーターバーグとは発音しない。ネオペターバーグだ。ガリアヌーヴェルはギャリアヌーヴェルじゃない。お前の発音は
スターシャが何か言っているが、ハルキは聞く耳を持たなかった。アレクセイが困惑気味に答える。
「僕は外国に留学していたことがあるので、うつってしまったのかもしれませんね。言われてみればそうでした」
ハルキはその答えに満足しなかった。
「じゃあイエスって何だ。
「パパ、やめて」
アルハンブラが席を立たずに呼びかける。アレクセイが鼻で笑ったような気がしたハルキは、体力で勝てるわけがないことを忘れてアレクセイに掴みかかった。
アレクセイが急に立ち上がったので腕に接していたカップが床に落ちて割れた。何事かと様子を見に来た業務責任者が大声を出すが、ハルキには聞こえない。アレクセイが逃げようと軽く上半身を捻じ曲げるがハルキは肩を掴んだまま離さなかった。それから殴るでもなく、蹴るでもなく、互いに揉みくちゃになりながら二、三歩移動すると、突然後ろから羽交い絞めにされてハルキはアレクセイを離した。アレクセイは反動で少しよろけたが体勢を立て直して、スターシャと一緒に出て行った。背中に打撃を入れられたハルキはその場に頽れた。
「やめてって言ったでしょ」
背後から聞こえた声はアルハンブラのものだった。
「どうして止めた」
「私だって、あの少将さんが
ハルキは、なおさらどうして止めたのだと言おうとしたが、背中の痛みに耐えるので精一杯で声が出なかった。
「ネオペターバーグで見てきた軍隊員とは雰囲気が違っていた。基地の視察に来ていた少将さんはもっと温かみがあって、頼り甲斐がありそうだったの」
ハルキを立たせて服についた埃を払ったアルハンブラは一部始終を泣くこともせずじっと見ていたシルヴァの手を引いて店を出た。
ハルキは背中に痛みを感じながらよろよろと二人の後をついていった。行先は家だろう。
「ネオペターバーグに行けば、嫌でも色んな力が身に付くよ」
アルハンブラが言う。
「敵を一撃で倒す方法とか、危ないと思ったらすぐに逃げる嗅覚とか」
ネオペターバーグにいた頃の話をアルハンブラがしたのはこれが初めてだった。
「どうして今更そんな話をするんだ」
「吹っ切れたからよ。妊娠四ヶ月でシルヴァが死んで、重い体でスタリ・シビリに帰ってきた時は、もうあんな思いしたくないって思ってた。だけど、パパの家に転がり込んで、赤ちゃんが生まれて生活が落ち着いてきて思ったけど、ここもそんなに安全じゃない。それどころか、負傷兵や外国人がいて、戦場の次に危ない場所なんじゃないかって思ったの。だから、私はこの子を守っていくために、強いままでいなければいけないんだって、決心したのよ」
シルヴァの父親は同じシルヴァという名前だった。アルハンブラは生まれた子どもが男子だと知ってすぐ、父親と同じ名前を名付けたのだった。ハルキはアルハンブラが戻ってきた時、憔悴し切った姿を見て心配したが、時が経つにつれてアルハンブラは心身共に回復していった。自分が何もしなくてもアルハンブラは強く生きようとしている。
「あのアレクセイとかいう少将さんにはもう近づかないで。道で見かけても無視してよね」
アルハンブラの口調は命令のそれだった。アレクセイはスタリ・シビリを出ると言っていた。言われなくても、もう会うことはないだろうと思った。アルハンブラが返事を待っていると思ったハルキは、言い訳せず素直に
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