アリトシ幹部会議
伊豆真理は大理石の廊下の曲がり角で、足を滑らせてバランスを崩しながらも慣れた動作で体勢を立て直し急旋回する伊藤国久の姿を目の端に捉え、後を追った。
「伊豆少将か。久しぶりだな」
「転びそうになっているところを見かけたものですから」
伊藤は照れ隠しに苦笑した。
「靴を変えた方がいいのかな、もう一年近くここで働いているのに、未だに滑らずにこの廊下を歩けたことがない」
「早く歩きすぎなんじゃありませんか」
「そうかな」
そう言いながら、また足を滑らせている。真理は咄嗟に手を伊藤の背中に回す。その動作が奇怪に映ったのか、伊藤は、そこまでしなくても大丈夫だ、と言って、笑った。
「君はどうして滑らないんだ」
「どうしてでしょう。わかりません」
二人は同じ目的地を目指して再び歩き出した。束の間の沈黙の後、伊藤が口を開く。
「最近、どうだ」
真理は、ここ、移動する海底要塞
「
「そうじゃなくて」
真理は伊藤の横顔を見つめた。伊藤は、山本織牙のことを訊いているようだった。
「織牙は元気です。パトロール班に配属されたので、私よりよく
真理は伊藤の近況も訪ねてみようと思った。
「伊藤さんは、川越さんとどうなんですか」
川越由樫は伊藤が同棲している年上の恋人で、伊藤がアリトシの軍事技術顧問になる前の職場である設計(メカニックデザイン)課の先輩社員だ。
「朝出かける前と、夜寝る前にしか顔を合わせることができない。結婚でもしてしまえば、由樫さんを
「伊藤さんがプロポーズしてくれたら川越さんは喜ぶと思いますよ。アリトシの重役の妻になるんですもの」
伊藤と川越の仲は、真理と織牙の仲の次にアリトシの社内では有名だった。今年で四〇歳を迎える独身女性の
「君の方こそ、山本とそういう話をしていないのか」
真理は口を噤んだ。伊藤はすぐに失言に気付いて撤回する。
「すまない、今のはそういう意味じゃない。戸籍を再度変えることが簡単にできないことは僕も知っている。だけど、代替案はあるだろう、と言いたかったんだ」
真理は、構いませんよ、と言った。
「織牙に子どもが欲しいって言ったんです」
身長差から伊藤を見下ろす状態になっている上、上司に無駄な気を遣わせてしまっていると感じた真理は、できる限り謙った調子で話を続けた。
「私は産めないから織牙に産んでほしいと言ったら、女の子は嫌だって言われました。それで、私が男の子の方が不安だと言って喧嘩になりました」
目的地に着いたことに気付かなかった伊藤がまた足を滑らせた。扉の前で警備をしている警備兵二人は、毎度のことなので伊藤の間抜けなステップを見て見ぬ振りをして、扉を開錠した。
企業国家アリトシの幹部会議に出席するのは、アリトシ社長の有田敏博、社長秘書の飯島田助、移動する海底要塞
全員揃うと、社長秘書の飯島が議長となり会議の進行をした。
「この度、我がアリトシ企業国家は2Lの盾となり北方新国と戦争をすることとなりました。本日の議題は主にこの件についてでございます」
飯島議長は仰々しい口調で言った。ついにこの時が来たか、という呟きがどこからともなく聞こえてきた。その感慨は、会議の出席者全員に共通するところだった。
「議長、質問があります。私共ベーリング海班は2Lの海賊からの略奪行為から北方新国とアリトシの船を警護することが任務となっていました。班員の中には任務中、海賊に怪我を負わされた者も数多くいます。その者達へ今度は2Lのために北方新国と戦えと言うのですか」
質問をしたのはベーリング海班を担当する沖航太大将だ。武蔵と階級が同じで年齢も近い。だが、今でも海上生活を続けているため、車椅子生活をしながら海底を人型兵器で監視している武蔵とは異なり、肌は日に焼け声にも張りがあった。
飯島議長は冷静に答えた。
「感情を抑えてください。北方新国との戦争でベーリング海班が出動を要請される機会は少ないと考えられます。現在のベーリング海班は海上での戦闘に特化した部隊編成となっているため、仮に内陸国の北方新国との戦闘に参加するとしても、出動するのは特殊戦闘機
「議長、私も質問があります」
真理が手を挙げて発言権を要求した。飯島議長は真理に発言を促す。
「
伊藤は真理の質問の意図を見抜いた。
「その可能性は十分にあり得ます」
真理は他人からも見てわかる程不安な表情を見せた。伊藤は真理に私情を悟られるな、と目で訴えた。
「しかし、
飯島の続く言葉に真理はまだ不安を隠せなかった。
「皆さん、アリトシの企業国家としての理念をお忘れでしょうか。企業でありながら軍を持ち、戦争ビジネスでアジア市場を席巻する。それが我々の信条です。戦争による破壊行為で生じた犠牲は英雄行為として語り継がれ、その果敢な勇姿が世界中で賛美の的となり、新たな顧客と戦費の捻出に繋がるのです」
飯島議長は言い終わると、他に質問がないか出席者の顔色を窺った後、話を進めた。
「では、この外交上の変化がもたらした利益についての話に移らさせていただきます」
机から光が発し、それが立体映像となって出席者全員の眼前に映し出された。映像は五年分のアリトシの資本金額の棒グラフだった。
「三〇年間更新されてきた北方新国との軍事同盟が破棄されるため、北方新国からの年間三兆円の資金援助は打ち切られます。北方新国と友好関係にある他国、また、そういった国に住む個人出資者の中には、今次の北方新国との戦争に不安を抱く者が出てくることが予測されます。七日後の有田社長による宣戦布告会見の後、出資を打ち切る出資者が出てくることは間違いありません。予測ではこの損失が五兆円に上ると考えられています。軍事課への出資金は我国の歳入の四〇パーセントですので、出資金が減りますと軍事費の維持はおろか、国民への社会保障や占領下の中国や朝鮮半島の復興の面に支障が現れます。
では、北方新国との戦争の費用は誰が出資してくれるのかといいますと、これには2L国内の巨額のユダヤ資金が充てられます。その額およそ七兆円。
その他に、既に親米のメキシコや南アフリカ共和国の大企業から四兆円の出資金が支払われることが確約されています。同国から金属や食糧の援助も受けられます。宣戦布告後は主にこれらの国の政府や企業からより多額の出資金が集められるだろうと予測されます。
このように、2Lと友好関係を結ぶことで従来以上の出資金を獲得することができるようになります。アリトシの企業国家としての知名度も上がり、東アジア規模でさらなる発展を目指すことができるでしょう」
飯島議長の説明に連動して立体映像のグラフ上に一ヶ月後、二ヶ月後に予測される出資金額が点滅する点線で表される。
「北方新国と戦争して勝てる見込みはあるのか」
内地防衛班を統括する東野雲景大将が質問の声を上げた。小太りで顔が張っているため、年齢がわからない。
「我国は人型兵器を所有しており大北京や未来社の軍隊を出動させることもできます。対して北方新国は、武器は戦車と戦闘機が中心で、兵隊も少数精鋭に留まっています。質と量で我国が上回っていますので、心配はいりません」
飯島議長の答えに東野大将より先に反応したのは瀬戸内香具也中将だった。
「2Lはイスラム勢力とも戦争状態にある。アリトシが2Lの味方をしたらイスラム勢力からの報復攻撃を受ける可能性があるが、その点に関しては如何か」
身長は真理や織牙に及ぶべくもないが、瀬戸内中将の威勢は他の男性の軍人に劣らなかった。瀬戸内中将の管轄は、アリトシや南日本の企業の貿易船の護衛が主な太平洋班だ。イスラム勢力が潜伏している地域へも当然近寄ることになる。イスラム勢力との折り合いは彼女にとって喫緊の問題だろう。
「イスラム勢力の動向は私の専属部隊
飯島議長の目の色が先程までと変わったことを出席者達は誰一人として見落とさなかった。有田社長の乳兄弟であり
出席者達は飯島議長の説明に説き伏せられたようだったが、真理はまだ納得いかなかった。ソウル上陸作戦の時、織牙が言った言葉が真理の中で渦巻いていた。
「北方新国と戦争をして、勝った後はどうするのでしょうか」
真理の質問に反応した有田社長が、会議が始まって初めて発言した。
「それはどういう意図の質問かね、伊豆少将」
伊藤は脳内で真理に盾突くなと必死に念じた。北京上陸作戦でスパイ容疑のかかった部下を独断で殺害した前科があり、ソウル占領統治で異例の穏健的な占領政策を実行した真理は有田社長から一目置かれていた。それは無論、悪い意味だ。
「イスラム勢力にテロを仕掛けられ、北方新国との戦争を継続できなくなった2Lに恩を売り、搾り取った戦費で戦争に勝ち北方新国から賠償を求める権利を得た後は、アジア太平洋地域に対してどのような未来設計をお考えなのかと疑問に思いましたので」
以前から真理は外交情勢に詳しかった。それはアリトシの軍事課設立当初から続く軍人の名家、伊豆家の跡取りとして育てられたことも影響しているのだろう。高校卒業後家出したが、こちらも軍人の名家である母方の伯父にあたる持田映太に拾われ、軍事課に就職したのだ。持田映太も、真理の父である伊豆圭介も有田社長の知るところだった。二人とも優秀な軍人で、殉職している。
「じゃじゃ馬と呼ぶべきか、生意気小僧と呼ぶべきか、それは君の判断に任せるが、伊豆少将、君は私の考えを見透かしているかのような物言いだね」
「私は私の権限の及ぶ範囲で知っていることだけで推測したまでです。社長のお気を悪くされたのであれば、お詫び申し上げます」
「構わんよ」
有田社長はいたずらでも仕掛ける少年のような目で真理を見つめた。その目を真っ直ぐ見返す真理の目の曇りのない意思の強さは、有田社長の隣に座る持田映太の旧友、春川武蔵にもよく見えた。
「北方新国に勝てば、私はアジア太平洋地域の盟主になる。かつてのアメリカ帝国がしたように、今度はアリトシが世界情勢を意のままに操る」
有田社長は2Lの前身アメリカ合衆国をアメリカ帝国と呼ぶ。
「世界中でアリトシに都合のいい紛争や戦争が起こせるようになる。アリトシが大北京と未来社を吸収した今、企業戦国時代は東アジア地域のみの局所的な現象ではなくなった。戦争ビジネスが世界を巻き込んで展開する未来が来るのだよ」
真理は織牙の「平和を守るために戦う」という言葉を思い出していた。
「それで本当に幸せになる人はいるのでしょうか」
「真理ちゃん」
真理は突然名前を呼ばれた。それは春川武蔵のものだった。
「その辺にしておけよ。お前さんのこと、俺はちゃんとわかってるから」
伊藤も武蔵に続いて有田社長に謝罪した。有田社長は椅子に深く腰掛け、手をひらひらさせながら返事した。
「こんな過激な発言をしてくれる部下はいなかったからね。私はいいと思うよ、議論が盛り上がるのは」
その後、会議は成り行きで終了、解散となった。伊藤は冷や汗を流しながら足早に出ていき、武蔵は車椅子を自在に操って他の出席者に交じって会議室を出た。真理が会議室を出る間際、瀬戸内中将が小声で真理に耳打ちした。
「南日本で悪い虫をくつけてきたようだな」
真理は瀬戸内中将の顔を覗き見たが、瀬戸内中将は何もなかった振りをしてさっさと歩き去って行った。
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