オルオーレンの花巡りの旅

夏野梅

1 花を集める旅人 ─ ドルセア王国

灯火草(一)

※本作に登場する植物は架空のものです。

(ただし現世に実在する植物をモデルにしているものが多々あります)


=====



「…………」


 私は籠を抱えたまま、目の前の奇妙な光景を見て固まった。


 薄暗い森の中で、人がうつ伏せに倒れている。

 行き倒れかと思って近づいたが、そうではなかった。

 地面に這いつくばって、なにかぶつぶつ呟いている。

 そして中折れ帽の窪みの上で、小さな白猫が尾を揺らしていた。


 変な人だ。


 見なかったことにして、そっと立ち去ろう。

 そう考えて後ずさった時、足元で小枝が折れる音が響いた。


「ん?」


 その人が顔を上げて振り向いたので、つい小さく悲鳴を上げてしまった。

 しかし、すぐに毒気を抜かれ目を瞬く。

 頬に泥をつけた、端正な顔立ちの青年が、こちらを見つめていた。





「驚かせてしまってすみません、エリヤさんも同業者でしたか」


 ティーカップを木製の小さなテーブルに戻して、青年は人の良さそうな笑みを浮かべる。

 私も微笑み返してみたが、頬が引きつっていたかもしれない。


 だって、一緒にされたくない気がしたから……。


 その青年はオルオーレンと名乗り、自らを旅人だと言った。小さな白猫は彼の膝の上で丸くなっている。


「花を集めて旅をされているんですか?」

「そうなんです。草でも木でも、なんでも」

「世界中を?」

「ええ、いろんな国を回っています」


 俄には信じられない話だった。

 この世界にはドラゴンや魔獣モンスターといった凶暴な生き物が各地に生息しているため、人々は国や街を堅牢な防壁で囲むことで平穏を保っている。このドルセア王国も例外ではなく、丸腰の一般人が国外旅行をすることはほとんどない。壁の外へ出るのは行商人か命知らずの冒険者、あるいは国外追放された罪人くらいだ。

 しかし彼は屈強とは言い難い、すらっとした小綺麗な青年だった。少し癖のある緑かかった白髪に、若草色の優しげな瞳。片眼鏡モノクルのせいか学者に見えなくもない。学者なら世界を旅するのも頷ける。


「もしかして、植物学者ですか?」

「いえいえ、学者というほどのものではありません。どちらかと言えば助手ですね」


 彼のどこかのらりくらりとした曖昧な物言いに、私は首を傾げてばかりだ。


「エリヤさんは薬草家なんですね」

「ええ、薬草の採集を生業としています」


 天井に吊るされた数多の薬草たちを、旅人は感慨深げに見上げる。窓際の棚に置かれた籠は、私が今さっき摘んできた薬草でいっぱいだ。

 だから同業者といえなくもないのかもしれないけれど、森の中で這いつくばってぶつぶつ呟く彼の姿は、薬草家の目にも不審者としか映らなかった。


「あの森には薬草が多いんですか?」

「ええ。この国でも特に薬草が多く育つ、貴重な森です」


 私が人里離れた山の麓の一軒家で暮らしているのは、そういう理由だ。


「ちょうどよかった。僕、旅先で知り合った人に必ずお願いすることがあるんです」

「えっと、なんでしょう?」

「花をひとつ、教えていただきたいのです」


 オルオーレンは私ににっこりと微笑みかけた。


「『この地を象徴する花』、『この地から消えつつある花』、『あなたにとって特別な花』、このうちのいずれかで構いません。花をひとつ、教えていただきたいのです」





「いいんですか? 付き合ってもらって」


 翌日、よく晴れた昼下がり、青空の下でオルオーレンは私に尋ねた。


「私も久しぶりに見たくなったんです。私こそ、お邪魔じゃありませんか?」

「とんでもない。案内していただけるなんて、願ってもないことです」


 そう言われて気をよくした私は、張り切って大きなリュックサックを背負った。丈夫な外套に滑りにくい皮のブーツを身につけ、準備は万端だ。


 私が紹介したのは、『灯火ともしびそう』と呼ばれる植物だ。


「かつてはシュメ畑のそばに生えている、ごく身近な花だったんです。だけどシュメの栽培方法や畑の灌漑設備が改善されてから、その姿を消してしまいました」


 緑豊かな山道を登りながら、私は話を続ける。


「澄んだ浅い水を好む水生植物ですが、水の流れが急だと育ちません。他にも昆虫や野鳥の影響も受けると言われていますが、詳しいことはわかっていません。どこにでもあったのに、みんなよく知らないんです」

「雑草と呼ばれる子たちにはよくある話ですね。もっとも、雑草なんて名前の草はありませんが」


 彼はそう言って笑い、軽快に山道を登っていく。


 案内役を買って出たものの、私は彼を追いかける形になっていた。曲がりなりにも薬草の採集を生業としているのだから、体力には自信がある。しかし、前を行く青年は石の多い斜面をひょいひょいと進んでいってしまう。

 さすが旅人、というべきか。


 しかし彼のいでたちは、防壁の外で恐ろしい魔獣を相手するようにも、登山をするようにも見えない。私がイメージしていた旅人像からはかけ離れていた。

 茶色い中折れ帽を被り、同じく茶色のかっちりした襟付きコートをベルトで締めている。履き物こそしっかりしたブーツだが、王都を颯爽と歩いていても違和感はない。特筆すべきは、背中に特大サイズの本らしきものを担いでいることだろうか。身の回りの荷物は肩にかけた革製の巾着袋のみ。

 そしてさらに不思議なことに、白猫を肩に乗せている。いや、猫だろうか。私の知る猫より二回りほど小さく、一度も鳴き声を聞いていない。ペット連れで危険な国外旅行をするなど聞いたことがない。


 やっぱり変な人だと、改めて思う。

 だけど。


「日没まで、まだ時間がありますか?」


 くるりと振り返った青年がふんわりと笑みを向ける。


「は、はい! 余裕を持って出発しましたから、大丈夫です」

「では、もう少しゆっくり行きましょうか」


 彼に同行したのは、灯火草が見たいという理由だけじゃない。

 この奇妙な旅人の柔らかな物腰に、不思議な声色に、咲き誇る可憐な白い花のような笑みに、惹かれていることを自覚していた。



 今登っているタダル山は大きいが標高は高くなく、稜線がなだらかな広い山である。そしてその山頂近くにデンドロ平と呼ばれる草原が広がり、中心に大きな池がある。

 私たちがその池のほとりについたのは、日が沈む少し前だった。

 そして、暗くなるのを待った。


「なるほど……。これが、『灯火草』と呼ばれる所以なんですね……」

「ええ、とても綺麗でしょう? オルオーレンさんは運がいいですね、これが見られるのは今の時期だけなんですよ」


 池の周りに生えていた、慎ましやかな水草。

 それが今、先端につけた毛玉のような花が、豆電球のような暖かい光を発している。

 柔くぼんやりした、オレンジ色の優しい灯り。

 一つひとつは小さな光だが、何千本もの花の光が集まって池の輪郭を縁取っていた。

 それを水面が反射して、光の輪は二重になっている。


 見上げれば、無数の宝石を散りばめたような満天の星。


「昔はどこのシュメ畑でも見られた光景なんです。私の住んでいるところは田舎ですから、五年ほど前までは見ることができました。今はもう、この池以外に見られる場所を知りません」


「何か、思い出があるんですか?」


 そう問いかける彼の片眼鏡が、淡いオレンジ色を反射している。


「……祖母との思い出の花なんです。薬草家だった祖母は、両親を亡くした私を一人で育ててくれました。祖母は灯火草が好きで、花が光るこの季節を毎年楽しみにしていたんです」


 私はしゃがんで、暖かい光にそっと触れた。


「灯火草の光は、死者が天国へ向かうとき、その道中を照らすために持つ灯火と言われています。祖母は亡くなる直前、この花の光が見たいと、そう言いました。だけど花の時期ではなかったし、病床の祖母を置いて山へ行くことはできなくて……。でも、祖母に最後にこの花を見せてあげられなかったことが、ずっと心残りでした」


 このことは誰にも話したことはなかった。だけど、口にして初めてわかる。

 私は誰かに、この後悔を聞いてほしかったのだと。


 おばあちゃんは、無事に天国へ行けただろうか。

 視界がぼやけて、オレンジ色の二重のラインが揺れる。


 黙って話を聞いていた彼が、あっ、と声を上げた。


「今、灯火がひとつ消えました」

「えっ、そうですか……?」


 私は慌てて目を擦ったが、真偽はわからない。


「誰かが持って行ったのかもしれませんね、天国へ向かうために」


 私はしばらく黙って光の輪を見つめていた。そして鼻を啜って、そばに立つ優しい旅人を見上げた。


「ありがとうございます、オルオーレンさん。ここに来ることができてよかった」

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