オルオーレンの花巡りの旅
夏野梅
1 花を集める旅人 ─ ドルセア王国
灯火草(一)
※本作に登場する植物は架空のものです。
(ただし現世に実在する植物をモデルにしているものが多々あります)
=====
「…………」
私は籠を抱えたまま、目の前の奇妙な光景を見て固まった。
薄暗い森の中で、人がうつ伏せに倒れている。
行き倒れかと思って近づいてみたが、そうではなかった。地面に這いつくばって、なにかぶつぶつ呟いている。その人は茶色いコートを纏い中折れ帽を被っていて、頭頂部の窪みの上で小さな白猫が尾を揺らしていた。
変な人だ。
見なかったことにして立ち去ろう――そう思って後ずさった時、足元で小枝が折れる音が響いた。
「ん?」
その人が顔を上げて振り向いたので、私はつい小さく悲鳴を上げてしまった。
しかし、すぐに毒気を抜かれ目を瞬く。
こちらを見つめていたのは、頬に泥をつけた端正な顔立ちの青年だった。
*
「驚かせてしまってすみません、エリヤさんも同業者でしたか」
ティーカップをソーサーに戻して、青年は人の良さそうな笑みを浮かべた。
私も微笑み返してみせたが、頬が引きつっていたかもしれない。だって、一緒にされたくない気がしたから……。
その青年は名をオルオーレンといい、自らを旅人だと名乗った。連れていた小さな白猫は、今は彼の膝の上で丸くなっている。
「花を集めて旅をされているんですか?」
「そうなんです。草でも木でも、なんでも」
「世界中を?」
「ええ、いろんな国を回っています」
俄には信じられない話だった。
この世界にはドラゴンや
しかし彼は屈強とは言い難い、すらっとした小綺麗な青年だった。少し癖のある緑かかった
「もしかして、植物学者ですか?」
「いえいえ、学者というほどのものではありません。強いて言えば助手ですね」
彼のどこかのらりくらりとした曖昧な物言いに、私は首を傾げてばかりだ。
「エリヤさんは薬草家なんですね」
「ええ、薬草の採集を生業としています」
我が家の天井に吊るされた数多の薬草たちを、旅人は感慨深げに見上げた。窓際の棚に置かれた籠も、今さっき摘んできた薬草でいっぱいになっている。
植物を採集しているという点では同業者といえなくもないのかもしれない。……けれど、森の中で這いつくばってぶつぶつ呟く彼の姿は、薬草家の目にも不審者としか映らなかった。
「この森には薬草が多いんですか?」
「ええ。この国でも特に薬草が多く育つ、貴重な森なんです」
私が人里離れた山の麓の一軒家で暮らしているのは、そういう理由だ。
「ちょうどよかった。僕、旅先で知り合った人に必ずお願いすることがあるんです」
「えっと、なんでしょう?」
「花をひとつ、教えていただきたいのです」
彼は私ににっこりと微笑みかけた。
「『この地を象徴する花』、『この地から消えつつある花』、『あなたにとって特別な花』、このうちのいずれかで構いません。花をひとつ、教えていただきたいのです」
*
「いいんですか? 付き合ってもらって」
翌日の昼下がり、青空の下で旅人・オルオーレンは私に訊ねた。
「私も久しぶりに見たくなったんです。私こそ、お邪魔じゃありませんか?」
「とんでもない。案内していただけるなんて、願ってもないことです」
そう言われて気をよくした私は、張り切って大きなリュックサックを背負った。丈夫な外套に滑りにくい皮のブーツを身につけ、準備は万端だ。
私が紹介したのは『
「かつてはシュメ畑のそばに生えている、ごく身近な花だったんです。だけどシュメの栽培方法や畑の灌漑設備が改善されてから、その姿を消してしまいました」
緑豊かな山道を登りながら、私は話を続ける。
「澄んだ浅い水を好む水生植物ですが、水の流れが急だと育ちません。他にも昆虫や野鳥の影響も受けると言われていますが、詳しいことはわかっていません。どこにでもあったのに、みんなよく知らないんです」
「雑草と呼ばれる子たちにはよくある話ですね。もっとも、雑草なんて名前の草はありませんが」
彼はそう言って笑い、軽快に山道を登っていく。
案内役を買って出たものの、私は彼を追いかける形になっていた。曲がりなりにも薬草の採集を生業としているのだから体力には自信があった。しかし前を行く青年は石の多い斜面をひょいひょいと進んでいってしまう。
さすが旅人、というべきか。
しかし彼のいでたちは、国を囲む壁の外で恐ろしい魔獣を相手するようには見えない。私がイメージしていた旅人像からはかけ離れていた。
茶色い中折れ帽を被り、同じく茶色のかっちりした襟付きコートを腰のベルトで締めている。履き物こそしっかりしたブーツだが、王都を颯爽と歩いていても違和感はない。特筆すべきは、背中に特大サイズの本らしきものを担いでいることだろうか。身の回りの荷物は肩にかけた革製の巾着袋のみ。
そしてさらに不思議なことに、彼は白猫を肩に乗せている。いや、猫だろうか? 私の知る猫より二回りほど小さく、一度も鳴き声を聞いていない。なによりペット連れで危険な国外旅行をするなど聞いたことがなかった。
やっぱり変な人だと、改めて思う。
だけど。
「日没まで、まだ時間がありますか?」
くるりと振り返った青年のふんわりとした笑みに、私の心臓は小さく跳ねた。
「は、はい! 余裕を持って出発しましたから大丈夫です」
「では、もう少しゆっくり行きましょうか」
彼に同行したのは、灯火草が見たいという理由だけじゃない。
この奇妙な旅人の柔らかな物腰に、心地よい声音に、可憐な白い花のような笑みに、惹かれていることを自覚していた。
今登っているタダル山は水平面積こそ大きいが標高は高くなく、稜線がなだらかな広い山である。山頂近くにデンドロ
私たちがその池のほとりについたのは、日が沈む少し前だった。
そして、暗くなるのを待った。
「なるほど……。これが、『灯火草』と呼ばれる所以なんですね」
「ええ、とても綺麗でしょう? オルオーレンさんは運がいいですね、これが見られるのは今の時期だけなんですよ」
池の周りに生えていた慎ましやかな水草。それが今、先端につけた毛玉に似た花が豆電球のような暖かい光を発している。
柔くぼんやりしたオレンジ色の優しい灯り。一つひとつは小さな光だが、何千本もの花の光が集まって池の輪郭を縁取っている。
それが水面に反射して、光の輪は二重になっていた。
そして池の上に広がるのは、無数の宝石を散りばめたような満天の星。
「昔はどこのシュメ畑でも見られた光景なんです。私の住んでいるところは田舎ですから、五年ほど前までは見ることができました。今はもう、この池以外に見られる場所を知りません」
「何か、思い出があるんですか?」
そう問いかける彼の片眼鏡が、淡いオレンジ色を反射している。
「……祖母との思い出の花なんです。薬草家だった祖母は、両親を亡くした私を一人で育ててくれました。祖母は灯火草が好きで、花が光るこの時季を毎年楽しみにしていたんです」
私はしゃがんで、暖かい光にそっと触れた。
「灯火草の光は、死者が天国へ向かうときにその道中を照らすために持つ灯りだと言われています。祖母は亡くなる直前、『灯火草の光が見たい』と言いました。だけど花の時期ではなかったし、病床の祖母を置いて山へ行くことはできなくて……。でも、祖母に最後にこの花を見せてあげられなかったことがずっと心残りでした」
このことは誰にも話したことはなかった。だけど、口にして初めてわかる。
私は誰かに、この後悔を聞いてほしかったのだと。
おばあちゃんは無事に天国へ行けただろうか。
視界がぼやけて、オレンジ色の二重のラインが歪む。
その時、黙って話を聞いていた彼が「あっ」と声を上げた。
「今、灯火がひとつ消えました」
「えっ、そうですか……?」
私は慌てて目を擦ったが、真偽はわからない。
「誰かが持って行ったのかもしれませんね、天国へ向かうために」
私はしばらく黙って光の輪を見つめていた。そして鼻を啜って、そばに立つ優しい旅人を見上げた。
「ありがとうございます、オルオーレンさん。ここに来ることができてよかった」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます