華の国の花(一)

<前書き>

今回のおはなしは四分割です。一日一話ずつ、四日連続で投稿します。

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 初夏の太陽がまだ高く居座る夕刻、旅人・オルオーレンは本屋の前のベンチに腰掛けて分厚い本を捲っていた。

 その本は辞書であった。薄い紙には複雑で角ばった独特の文字がびっしりと並んでいる。ベンチには文法の教科書も置かれていた。


 この世界では共通語と呼ばれる言語で大抵は意思疎通ができる。それがかつて神が人間に与えた唯一の言語であった名残だ、というのが通説だ。

 しかし束になった人間が神に背いたことで、怒り狂った神は国どうしを隔てた。以来、この国のように独自の言語を生み出した国も少なからず存在する、と言われている。


 関所の兵士は共通語が通じたから良かったものの、その後の旅先では言葉が通じず苦労した旅人が王都に着いて真っ先に向かったのが、本屋だった。


「旅人さん、この国の言葉は少しは覚えられたかい?」


 店仕舞いを始めた本屋のおばさんがオルオーレンに話しかけた。意地悪してか、ゆっくりだがあえて華国語で訊ねてくる。

 オルオーレンはパタンと辞書を閉じ、おばさんに向かってにっこりと微笑んだ。


「この国の言葉は発音が面白いですね。一つの字が意味を表すというのも興味深いです」


 流暢な華国語に、おばさんは目を丸くした。


「たまげたねぇ、そんなにすぐ話せるようになるものかい?」

「得意分野でして」

「へぇ……。ところで旅人さんはこの国に何しに来たんだい? 商人って感じでも、屈強な冒険者って感じでもなさそうだし。ああ、言語学者かい?」

「僕は花を探して世界を旅しているんです。この辺りに花の名所などありませんか?」


 恰幅のいいおばさんは目をぱちくりさせた。そして「ははあん?」と言って一転、目を三日月型に細めた。


「あんた、顔がいいからって随分な旅をしてるんだねぇ。金はあるのかい?」

「手持ちはそれなりにありますけど……?」


 きょとんとした顔で首を傾げると、おばさんがニヤリと口角を上げた。


「とぼけたって無駄だよ。ついておいで、とっておきを紹介してあげるよ」





 夕闇が迫り、繁華街の上空に張り巡らされた灯籠が一斉に灯った。藍色の空をバックに無数の光が連なる光景は圧巻だ。

 この街は朝まで眠らないのだろう。灯籠を見上げて感嘆のため息を漏らすオルオーレンは、本屋のおばさんにぐいぐいと引っ張られていた。


「案内してもらえるのはありがたいですけど、もう夜ですから明日でいいですよ?」

「なに言ってんのさ、昼間に行ってどうするんだい」


 オルオーレンは再び首を傾げたが、ふと夜にだけ花を咲かせる植物を思い出した。しかも数年に一度、一晩しか咲かないというとても珍しい花だ。その類だとしたら確かに夜に出向かなければならないが、そんな貴重な花がこんな繁華街にあるのだろうか?


「もしかして植物園でもあるのですか?」

「あっはっは! 植物園たあ、随分な言い方だねぇ。ほら、着いたよ!」


 足を止めたオルオーレンが目線を上げると、金色の筆文字で書かれた豪奢な看板が掲げられていた。


「金梅館……?」


 金塗りの柱に青緑色の外壁という煌びやかな佇まいは、どう見ても植物園ではない。入り口には厳つい男が二人、門番のように立っている。


「店長ー! 客だよ! とびっきりの上玉!」


 おばさんの威勢のいい声が店の中に響いた。

 外観に違わず豪奢な作りの広いエントランスには、艶やかな着物やドレスに身を包んだ美女たちが待ち構えていた。


「あら、おばさん。店長なら出てるわよ」

「そうかい。まあいいや、客だよ」


 そう言っておばさんはオルオーレンをぐいと前に押し出した。状況が飲み込めずポカンとしているオルオーレンに、美女たちの視線が集中する。


「……ええと、ここは?」

「なに言ってんだい、妓楼だよ、ぎ・ろ・う!」


 オルオーレンは数十分前まで睨んでいた辞書のページを頭の中で捲る。聞き慣れぬ言葉の意味は――。


「普通は一見さんお断りだけど、あたしの紹介なら問題ないよ。金があるなら選り取り見取り、好きな花を選びな」

「ええと、花って……」


 確かに辞書で見た「花」にはそういう意味もあったが。


「あのですね、僕が言ったのは本当の意味の花でして……」


 言いかけて、自分の周りに妓女ぎじょたちが集まり出したことに気がついた。頬を赤く染めた女たちのうっとりとした眼差しが、青年の端正な顔を蛇のように絡めとる。


「今宵は是非とも私にお相手させてくださいませ」

「ずるいわっ! 私のお客様よ!」

「まっ! 私の方が胸大きいわよ!」

「私は舞が得意ですの」

「弦楽器と歌なら私が」


 わらわらと群がる美女たちは、それこそ――


「あっはっは! 蝶に群がられるあんたの方が花みたいだねぇ!」


 おばさんは呑気に笑うが、オルオーレンには彼女たちが獲物に群がる肉食獣にしか見えなかった。貼り付けた笑みを引き攣らせながら後退ると、さっと店の外へ走り出した。


「まあっ! お待ちくださいまし!」


 呼び止める声を無視して店の外へ飛び出した。しかし振り返れば、驚いたことに妓女たちが追いかけてくるではないか。


(花は普通追いかけてきませんけど!?)


 花とは虫が訪れるのを待つもので――などという御託を並べたところで、彼女たちは聞く耳など持たないだろう。ぎらつく目はやはり狩りを行う獣のそれである。食虫植物よりよっぽど怖い。

 とはいえ着物やドレスを纏った妓女たちが旅人であるオルオーレンの足に追いつけるはずもない。しかしその一方で、土地勘のない旅人も不利である。オルオーレンは薄暗い裏路地を縫うように逃げ回り、積み上げられた木箱の陰に身を潜めた。

 女性の高い声が近づき、遠ざかっていった。


「そっちの花じゃないんだけどなぁ……」


 オルオーレンは独りごち、そのままぺたんと座り込んだ。しばらく見つからなければ、妓女たちは仕事に戻るだろう。

 早く宿を探して、美食の国として知られる華国の食事を堪能したい。柔らかいベッドで眠りたい。

 数ヶ月前に失くした中折れ帽をまだ新調していなかった。オルオーレンの緑かかった白髪はくはつは闇夜でも映える。己の容姿を今夜ばかりは恨んだ。


 見上げれば、満月が煌々と輝いている。


 ふと、誰かが近づいてくることに気がついた。砂地でもわかる、底の高い靴の音。

 オルオーレンは息を潜めて足音が通り過ぎるのを待ったが、その祈りに反して足音は目の前で止まった。縮こまっていたオルオーレンの上に影が落ちる。

 月光を背に浴びた少女と、目が合った。


「こ……んばんは?」


 オルオーレンはぎこちなく笑ってみたが、挨拶は返ってこない。逆光でわかりにくいが、その表情はぴくりとも笑っていなかった。纏っているのは先程の妓楼で見た妓女たちと同じ、裏路地には場違いな煌びやかなドレスだった。

 少女はオルオーレンをじっと見下ろし、淀みなく訊ねた。


「妓楼で騒ぎになっていた、白い髪で片眼鏡モノクルをつけていて茶色のコートを着て巨大な本を担いで白猫を連れている旅人とは、あなたですか?」


 否定の余地なし。


「さ、さあ……どうでしょうね?」


 しかし少女は騒ぎ立てるでも誘惑するでもなく、じっと何かを思案しているようだった。そしてオルオーレンを見下ろしたまま、淡々と言った。


「取り引きしませんか?」

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