灯火草(二)
「エリヤさん、エリヤさーん」
ぬくい寝袋に包まっていた私は、芋虫のようにモゾモゾと身を捩った。頬を爽やかな風がくすぐる。あたりが明るいことに気がついて、重い瞼を開けた。
「ひゃあ!?」
つい奇妙な悲鳴をあげてしまったが、驚くのも無理はないと思う。すぐ目の前に、オルオーレンの笑顔が迫っていたのだから。いくら端正な顔立ちでも、この至近距離は心臓に悪い。
「すみません、そろそろ起こしたほうがいいかと思いまして」
ふと見上げれば、太陽は随分と高い位置にある。昨夜、つい彼にたくさん話を聞いてもらった所為だ。
「すみません、寝坊してしまって」
「いいえ、とんでもない。朝ごはんにしましょう」
パチパチと焚き火の爆ぜる音に、鼻をくすぐる香ばしい匂いが漂ってくる。
「ごめんなさい! 朝ごはんの用意までさせてしまって……」
「いえいえ、昨日の夜はエリヤさんのシュメの……『おむすび』でしたっけ、ご馳走になりましたから。ま、こんなものしかありませんけれど」
焚き火のそばには、串に刺さった大きなソーセージが美味しそうな焼き色をつけててらてらと光っている。そのそばには、これまたこんがりと焼けたジジ芋とパン。
「わあ、美味しそう……!」
そこで、はたと気づく。
これだけの食材が彼の巾着袋に入っていたのだろうか。
あの、大きいとは言えない巾着袋に……?
昨晩彼がくるまっていた毛布も、あの袋から出てきたはずだった。
どうなってるんだろう……。
一瞬手を止めてしまったが、美味しそうにソーセージを頬張る青年を見ていると頬が緩む。そして私は深く考えないことに決め、パンに手を伸ばしたのだった。
「灯火草はもう摘まれたのですか?」
私は荷物を詰め込んだリュックサックを背負って、池を見つめるオルオーレンに尋ねた。
「ええ、あなたが眠っている間に」
にっこりと返され、恥ずかしさで顔が熱くなる。
そして灯火草を採集するところを見られなかったことを悔やんだ。
「それじゃ、山を下りましょうか」
「はい」
歩き出した彼を追おうとして、ふと足を止めて振り返る。
「バイバイ、おばあちゃん」
毛玉のような花を揺らす水草に囲まれた池の水面が、小さな波を描いた。
*
山を下る道中、彼は楽しそうに周囲を見渡しつつも足を止めることはなく、立ち止まるのは私が薬草を摘む時だけだった。
彼にとって物珍しい植物はなかったのだろうか。
彼は花々を一体どんなふうに採集して、保管しているのだろう。
どう考えても怪しいのは彼が背負っている特大の本らしきものなのだが、終ぞその本が開かれることはなかった。
そして肩に乗った猫も、触らせてくれるどころか、鳴き声ひとつ聞けなかった。
「えっ、もう出発されるんですか?」
無事に下山し私の家の前に戻ってきたところで、次の村に向かうと旅人は言った。
「ええ、この国はまだ回り始めたばかりですからね。見たこともない花がきっと僕を待っていますから」
「でも、もう夕暮れも近いですよ。あの、もしよかったら私の家にもう一泊していきませんかっ?」
勇気を出して言ったものの、顔が熱くなって目を泳がせてしまう。自分でも信じられないほど大胆なことを言っている自覚はある。
ただ、もう少し、ほんの少しでいいから一緒にいたい。
どれだけ引き留めたって、この旅人は行ってしまうだろうから。
そしてもう二度と会うことはないのだろうから。
「そうですね……ご迷惑じゃありませんか?」
「とんでもないです! 全然迷惑なんかじゃ――」
「エリー?」
突然聞き慣れた声に呼ばれて、私は振り向いた。
「ダン!」
そこにいたのは私の幼馴染の青年だった。背はあまり高くないけれどがっしりとした体格で、肌はこんがりと日に焼けている。
ダンのぱっちりとした二重の目が、今日はなんだか険しい。
「……その男、誰?」
「あのね、オルオーレンさんって言ってね、花を集めて世界を回っている旅人さんなの」
ダンの眉間の皺がますます深くなっていく。どうしたのだろう。旅人は珍しいから、警戒しているのだろうか。
「オルオーレンさん、こちらはダンです。私の幼馴染で、この近くの村で農家をしているんです」
紹介されたオルオーレンは笑顔のまま、「どうもー」と軽く挨拶をした。だけどその目は糸のように細められ、向けられた笑みはなんだか薄っぺらい。
「なあエリー、旅人って本当か? 怪しすぎるだろ」
「何言ってるの、失礼よ! 昨日だって、一緒に山の上の灯火草を見に行ってくれて――」
「は? 灯火草? てことは、夜か?」
「そうよ。池のほとりで一泊して、さっき下りてきたところなの。その前もうちで一泊して――」
「は!? エリーの家にか!? 二人っきりでか!?」
「それは、まあ、そんなこと、ダンには関係ないでしょっ」
そこはいちばん指摘されたくなかった。慌てて誤魔化すものの、つい頬が熱くなる。そもそも何事もなかったのだから、誤魔化す必要もないのだけれど。
そんな私の思いとは裏腹に、ダンの不審の目の奥になにやら炎がちらついた、その時。
「エリヤさん、僕やっぱりもう行きますね」
「えっ? でもっ」
「お世話になりました」
オルオーレンは帽子を取り胸に当てると、深々と頭を下げた。まるで貴族のような美しい所作に、思わず見惚れてしまう。
頭を上げ帽子を被り直した時、肩の上で彼と同じ目の色の白猫が、小さくにゃーと鳴いた。
「お幸せに」
そう言い残して、さっと踵を返して去っていく。私はその背中を呆然と見つめていたが、はっと我に返り慌ててそのあとを追いかける。
「オルオーレンさん! どうか、お元気で……!!」
遠くなる背中に、力一杯叫ぶ。
ダンは目をぱちくりさせる。確かに私はあまり大声を出すことはないけれど、そんなに珍しかっただろうか。
にっこりと微笑んで手を振る旅人の白い髪が、傾き始めた西陽でほんのりとオレンジ色に染まっていた。
*
「ま、ああいうシチュエーションには慣れてるからね。まったく、面倒な体質だけど」
田舎道をテクテクと歩きながら、オルオーレンは独り言を言った。黄緑色のシュメ畑が、波を打つ海のように地平線まで広がっている。
「さあて、次はどんな花が待っているかな」
オルオーレンの花巡りの旅 夏野梅 @natsuume8
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