4 湖と森の国で ― フェアリース共和国

湖に浮かぶ島(一)

「いい国だなぁ」


 明るい森を歩きながら、旅人は思わず呟いた。

 彼が今滞在している国・フェアリース共和国は、広大な森と数百にも及ぶ湖を有する自然豊かな国である。この地方は冬が長いこともあり、人々も動物たちも皆、爽やかで眩しい夏を謳歌している。


「旅するなら、こういうところがいいよね」


 適度に湿気を含んだ涼しい風が吹き抜ける。緑かかった白髪を揺らしながら、旅人・オルオーレンは鼻歌まじりに独りごちた。

 ちなみに、彼が言う「いい国」とは、自然が豊かで気候が安定しており、動植物にとって心地いい場所を指す。同じ場所でも、雪に閉ざされた冬であれば同じ台詞を口にはしないだろう。国が平和か、政治がまともかどうかはあまり関係ない。


 ただ、自然が豊かで過ごしやすい国は平和で安定している場合が多い、というのが彼の持論である。


「珍しい花、あるかなぁ」



◇◇◇



 森を抜けたオルオーレンは大きな湖に辿り着いた。

 野原を切り取ったような東西に長い楕円形の中心に、小さな島が浮かんでいる。


「おや、あんた、もしかして旅人さんかい?」


 湖を見つめていたオルオーレンに、男が話しかけた。


「ええ、そうです」

「やっぱりなあ。噂になってたんだよ、猫を連れた白い髪の旅人が国を回ってるって」


 この世界の国々は堅牢な壁で国土を囲み、どの国にも属さぬ土地――通称『神の庭』に蔓延る魔獣モンスターたちから身を守っている。だから丸腰の一般人が国外旅行をすることはほとんどなく、壁の外へ出るのは行商人か命知らずの冒険者、あるいは国外追放された罪人くらいだ。

 だから旅人という存在は好奇の目で見られる――否、好奇かどうかは国による。これもオルオーレンの持論だが、旅人の存在が市民の恰好の噂として広まる国は平和だ。旅人なんて気にしている場合じゃない国を、オルオーレンはいくつも見てきた。


 オルオーレンに声をかけたのは木こりと思しき中年の男性だった。他にも数名、同じような格好をした屈強な男たちがいる。その奥にいる数名は漁師と狩人だろうか。森を抜けなければ辿り着けない湖だというのに、十人以上の男たちが集まっていた。


「あの島に興味があるのか? 残念だが近づけないよ」

「なぜです?」

「この湖にはヌシがいるからさ」


 首を傾げるオルオーレンに、木こりの男は髭を撫でながら穏やかに話し始めた。


 この湖には、ヌシと呼ばれる生き物が住んでいる。

 それが動物なのか魔獣なのか、はたまた全く別の生物なのかはわからない。この国は三百年ほどの歴史があるが、ヌシがいつからこのサージ湖に住んでいるのか誰にもわからない。

 ヌシは、人間がボートに乗って湖の小島に渡ろうとすると突然現れる。ある時は蛇のような頭が水面から現れ、ボート諸共食らおうとした。またある時はドラゴンの尻尾のような姿で水面を激しく叩き、直撃を受けたボートは真っ二つになった。

 やがて人々はヌシを崇め奉るようになった。ヌシが暴れた年は湖や川の魚が減り、森に実るベリーやきのこも不作になる――などと根拠もなく、まことしやかに言い伝えられている。


「本当はなぁ、あの小島にある祠にお供え物をしろって言い伝えられているんだ。だから俺たちは年に一度だけ、あの小島を目指すことにしている。まあ毎年ヌシを怒らせてボートは転覆、たどり着いたなんて話は聞いたことがないんだけどな」


 そう言って木こりは、がははと豪快に笑った。


「そういうわけだから、あの島には行けないよ」

「それは仕方がないですね…………ん?」


 小島を見つめるオルオーレンの双眸がスッと細くなる。視力2.0を超える若草色の目が何かを捉えた。


「……ヌシを怒らせなければいいんですね?」


 そう言ってオルオーレンは背中に担いでいた大きな本を草の上に下ろした。


「うん? 兄ちゃん、まさかあの小島に行くつもりか!? 俺の話聞いてたか!?」

「そのまさかです。お話は聞いていました」

「おいおい、目がマジだな!? なんで急にそうなるんだよ!?」

「あそこに、花が咲いています」


 オルオーレンは人差し指をビシッと音がしそうな勢いで小島に向ける。


「花ぁ?」

「僕は花を集める旅をしています。あの小島に咲く花は見たことがありません。珍しい花に違いない!」

「変な旅してんな? てか花なんか見えるかよ!? あんた片眼鏡モノクルしてるくせに目がいいな!?」

「あのボート、お借りしていいですか?」

「だから話を聞けー!!」


 湖に近づこうとするオルオーレンを屈強な男たちが力ずくで止める。

 仕方なく歩みを止めたものの、納得いかないと頬を膨らませるオルオーレンに、やれやれと木こりが溜め息をついた。


「まったく……。まあ見てろよ、今日がその『年に一度だけ小島を目指す日』なんだ。ヌシが暴れる姿を見たら、兄ちゃんも諦めがつくだろうよ」



◇◇◇



 男たちはまず、南側の湖畔から小さな木製のボートを水面に浮かべ、三人が乗り込んだ。オールを漕ぐ男たちが湖畔と小島の中間地点に差し掛かった――その時だった。


「グオオオオオ!!!」


 突如、飛沫をあげて水面から現れたのは、真珠のような白い鱗に覆われた生き物だった。つるんとした頭には耳らしきものは見当たらず、巨大なルビーをはめ込んだような赤い瞳と、やや尖った口の上に鼻の穴が二つあるだけだ。体の大半は湖に沈んだままと思われ、長い首をにゅっと持ち上げると空気が震えるような咆哮を轟かせた。


「うわあああ!!!」


 衝撃波にも近い声とギョロリと睨む赤い目に、船に乗っていた男たちは慄いた。そしてその生き物の大きな口がカパッと開くや否や、人の手によるものとは思えないオール捌きで湖畔に戻ってきた。


「ああ、怖かった……」


 ボートから降りたムキムキの男たちは、草の上に四つん這いになって項垂れた。

 オルオーレンの隣で一部始終を見守っていた木こりの男は、腕を組みどこか得意げな顔で口を開く。


「な? 白蛇みたいだっただろ? でかすぎるけどな」


 オルオーレンは顎に手を当てて思案する。


「この辺りに蛇は出るんですか?」

「いや? この国は冬が長いからか、蛇はほとんど見ないよ。でもあんな感じだろ?」

「…………」

「本当に恐ろしいのはこれからだぜ」



 次に男たちは湖畔をぐるりと歩いて北側に移動すると、再びボートに乗って小島を目指した。先程の恐怖が残っているのか、南側からアプローチした時よりゆっくりと慎重に進んでいる。

 そしてやはり、湖畔と小島の中間地点に差し掛かったところで、水面が揺れ出した。


 水面から迫り上がったのは、先程と同じ白い鱗に覆われた尻尾のようなものだった。剣のような円錐形を潰したような形で、先端が尖っている。

 それがしなるように持ち上がると、太陽を隠して一瞬ボートの周辺に闇が落ちた。そして水飛沫が日差しに煌めくと同時に、それが勢いよく水面に振り落とされた。


「うわああああ!!!」


 尻尾は何度も水面を叩き、ボートは直撃を免れたものの転覆しそうなほど揺れている。男たちが死に物狂いで湖畔に戻ってきた時には、ボートが沈まなかったのが不思議なくらい水を被っていた。


「ああ、怖かった……やっぱり無理だ」


 濡れたせいか恐怖からか、肩を抱いてぶるぶる震えながらヒゲモジャの大男が呟いた。他の男たちも皆、落胆の色を濃くしている。

 オルオーレンの隣でやはり一部始終を見守っていた木こりの男は、腰に手を当てて口を開いた。


「な? ドラゴンみたいだっただろ?」


 オルオーレンは顎に手を当てて思案する。


「尾びれがないんですね?」

「ん? ドラゴンって尾びれがあるのか? 流石は旅人だなぁ! 俺らは本物のドラゴンなんて見たことないからな」

「…………」

「さて、兄ちゃんも諦めがついたか?」

「あれ、もう終わりですか?」


 オルオーレンが首を傾げると、木こりはギョッと目を見開いた。


「当たり前だろ。この湖は東西に長い楕円形、一番近い北側と南側から向かってこのザマだ。それにあんな恐ろしい思いをまたしろって言うのか? ヌシが暴れるほど不作になるっていわれてんのによ?」


 オルオーレンはうーんと小さく唸ると、木こりを見つめ返してにっこりと微笑んだ。


「僕も挑戦してみていいですか?」

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