5 陸の覇者と気高き花 ― 華(カ)国
龍亀討伐作戦(一)
目的の国まで、あと半日も歩けば着くだろうか。そんなふうに考えながら、旅人・オルオーレンは歩みを進めていた。
地平線が見えるほど広大な草原に、早春の風が吹き抜ける。遠くに望む峰々の頂はまだ白い。
緑かかった白い髪と茶色いコートをなびかせながら、オルオーレンが風に目を細めていた時だった。
「地鳴り……?」
微かな揺れを確かに感じ取った。
そしてそれは、一度では終わらなかった。ズン、ズン、とほぼ等間隔で繰り返され、目的地に近づくほど揺れは大きくなっていく。
「近くに火山はなかったはずだけどなぁ……。それにしたって感覚が一定なのはおかしいか」
独りごちつつ、歩みは止めない。止めたところでどうしようもない。
そして目的の国の白い城壁が地平線の先に見えた頃――違うものもまた、彼の視界に入った。
「……でっか」
率直な感想が、つい口から漏れた。
草原の中に突如現れた急勾配の丘、否、山――と思われたそれは、動いていた。
山が向かって左側に持ち上がる。そして、勢いよく元の高さに落ちる。
地響きと共に、オルオーレンの体がぽんと跳び上がった。
「うわっ」
一緒に跳ねた茶色い中折れ帽を慌てて頭に押さえつけ、バランスを崩さぬよう着地する。
蠢く山の正体には心当たりがあった。師と仰ぐ人物の蔵書の中で、記述を見たことがあったのだ。しかし本物を見るのは初めてだった。
「あれが
この地方の広大な平原にのみ生息する、世界最大かつ最硬と謳われる
いつだったか、湖に住みついたギガントタートル種の魔獣に遭遇したが、大きさはその比ではない。
「本当にこんなに大きな生き物がいるのか……世界は広いなあ」
呑気に呟きながら龍亀の足元をよく見ると、シカらしき生き物が何頭も横たわっている。その原因は安易に想像がついた。
数時間前から感じていたあの地鳴りの犯人は、間違いなくこの亀だ。至近距離で足踏みされれば、それはもはや衝撃波のようなものなのだろう。それが龍亀流の狩りなのだ。
そのまま見ていれば案の定、龍亀は緩慢な動きで足元の動物を咥え、上を向いてぱくりと丸呑みしてしまった。陸の王者らしい、余裕のある食事風景だった。
あれは流石に近づかないほうがいい、そう思ったオルオーレンは龍亀から距離を取ったまま目的の国へ向かおうとした――のだが。
思い出してしまった。
『龍亀の甲羅の上には、珍しい植物が生えるらしいんだよね』
師が何気なく発した、その言葉を。
なんで思い出してしまったのだろう、とオルオーレンは長い溜め息をついて項垂れた。そしてコートのポケットから双眼鏡を取り出し、動く山の頂に向けて覗き込む。
「…………仕事するかぁ」
オルオーレンはもう一度、長い溜め息をついた。
問題は、どうやって甲羅の上の花を採集するかということだ。
オルオーレンは人間だが、厳密に言えば人間でない。見逃してもらえるのでは――そんな淡い期待を抱いて、敢えて堂々と龍亀の左側から近づいてみる。
甲羅が目と鼻の先まであと十五メートル程に迫ったその時、龍亀の首がにゅっと動き、琥珀色の目がオルオーレンを捉えた。そして、左前足がゆっくりと持ち上がる。
やばい。
さあっと血の気が引いたオルオーレンは、出来る限りの速さで龍亀から距離を取った。そして亀の足が落ちる瞬間に腕を交差して身構える。
猛烈な風圧と共に、地面が波打った。
「うわっ!」
ビリビリと空気が揺れる。オルオーレンは後方に吹っ飛び、近くにあった木の枝に咄嗟に掴まった。突風に煽られ、旗のように体がなびく。帽子は呆気なく飛んでいってしまった。
暴風が収まって、オルオーレンはようやく枝から手を離し地面に降り立った。頬に触れると、指に血がついた。
「足踏みだけでこれかあ……」
オルオーレンは木の下で胡座を描き、腕を組んで唸った。このまま接触すら出来ないが、近づかずに動きを止めることなど可能だろうか。それに、近づいたところでオリハルコンのナイフでも太刀打ち出来ないだろう。なんせ世界最硬である。
ふと、龍亀の足元に散らばる大量の獲物たちに気がついた。既に息絶えているのか気絶しているのかはわからないが、あの衝撃と風圧の為にかなり広範囲に散らばっている。いちばん離れた個体なら近づいても龍亀に睨まれないかもしれない。
そこでオルオーレンは、ある作戦を閃いた。
「試すだけ、試してみるか」
それは賭け以外の何物でもなく、しかも結果が出るまで時間がかかる。しかし他に手段を思いつかなかった彼は、気長に待つことに決めたのだった。
そして、一時間半後。オルオーレンの予想よりずっと早く結果が出た。
ズン、という地響きと共に、龍亀は両手足を投げ出し、動かなくなった。
「やっぱり柔らかいところを狙わないとね」
そう呟いてオルオーレンは亀の甲羅を見上げた。そして空になったガラス瓶を胸ポケットに大事そうに仕舞う。
「さて、急がないと。薬、全部使っちゃったけど、この巨体だとどれくらい効くかわからないからね」
オルオーレンの作戦、それは獲物の体に薬を仕込むというものだった。
ガラス瓶に入っていたのは薬草から抽出した特製の超強力な睡眠薬で、人間なら一滴で昏睡状態に陥る代物である。とはいえ、龍亀が薬を仕込んだ個体を食べる保証も、睡眠薬が効く確証もなかった。一時間半で結果が出たのは幸運としか言いようがない。
人間にとって未知の世界である龍亀の甲羅の上は、文字通り宝の山だった。
「うっわぁ、なんだこの花! アレンジウムに似ているけど葉の形が全然違う! それに甲羅に鉱石が生えてるってどういうこと……? アダマンタイトとも違うみたいだけど、路銀の足しになるかなぁ。いやぁ、本当にこの亀、全部が規格外だ」
二十代にしか見えない端正な顔の青年が、宝の山の上で子供のような奇声を上げた。独り言にしては大きすぎるその声は、幸い誰も聞いていなかった――のだが。
それは声が届く距離ではなかったというだけで。
遠くからオルオーレンを見つめる目があったことに、彼はこの時知る由もなかった。
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