いのうえ食堂(2)
最後に自分を『さっちゃん』と呼んだのは、誰だろうか。
まかないで出してもらった特製親子丼をほおばりながら、わたしは考えていた。
いのうえ食堂の特製親子丼は半熟卵のトロトロ親子丼であり、中に入っている鶏むね肉も柔らかく、口の中に入れるとかつお出汁の味が広がっていく。ごはんにもしっかりと出汁が染み込んでおり、ひと口食べるごとに口の中に幸せが広がっていくようだった。
しかし、今のわたしはそんな素晴らしい特製親子丼の味がよくわかっていない状態だった。さっちゃん。その呼び名が、思い出したくもない記憶を掘り当ててしまったのだ。
最後に『さっちゃん』と呼んでいた人物、それは元カレのミドリだった。ミドリは大学の時の彼氏であり、年齢はひとつ年下。わたしがさっちゃんはトラウマだからといつものセリフをいうと、ミドリは「そうなんだ」といっただけで、さっちゃんと呼ぶのをやめようとはしなかった。
「おれもさ、ミドリって名前がトラウマなんだよ。子供のころから、女みたいな名前だとか、好きな色は何色なの、なんて言われてからかわれたからさ。さっちゃんはいいよ。かわいい名前だし。おれは『さっちゃん』好きだよ」
ミドリは、そんなことを平気な顔をしていうような男だった。
そういえば、なんでミドリと別れたんだっけ。
気がつくと、休憩時間はミドリのことばかりを考えていた。
休憩を終えたら、頭を完全に仕事モードへと切り替える。仕事モードに切り替えれば、頭の中から余計なことは消えていく。これはわたしの特技のひとつでもあった。
夕食時のいのうえ食堂は、大勢の客で賑わいを見せる。やって来るほとんどの客が肉体労働系の仕事をしている人たちであり、作業着に身を包んだ彼らは、仕事終わりのひと時をこの食堂で過ごしてから家路に着くのだ。
「ラーメン大盛りに餃子一枚、チャーハンとレバニラ炒めおねがいします」
客から受けた注文をわたしは、大声で厨房の中にいる井上さんに伝える。
井上さんはちょっと耳が遠くなってきているようで、大きな声で伝えないと聞こえなかった。
「はいよっ!」
威勢のいい返事。この返事が聞こえれば、きちんと注文は通っているという証拠でもあった。
不意に、レジの脇に置かれている固定電話が鳴った。
わたしは素早い動作でレジ脇まで進み、受話器をあげる。
「はい、けい……あ、違った。いのうえ食堂です」
「いま刑事課って言おうとしただろ」
電話の相手は笑いをこらえたような声でいう。
聞き覚えのある声。電話の相手は、ひとつ上の先輩であり相棒でもある富永だった。
「二〇分ほど前に、奴がヤサを出た。きっと、そっちで仕事前の腹ごしらえをするはずだ」
ヤサというのは、家のことを指す隠語だった。ヤサ→サヤ→鞘。刀をおさめる鞘から、自分のおさまるところ、すなわち『家』を指す隠語である。
「ごめんなさい、うちは出前をやっていないんですよ。ええ、ウーバーもやっていないです。はい、ご来店お待ちしております」
すでに電話は切れていたが、わたしは怪しまれないように電話のやり取りをしている振りを続けた。
「間違い電話でした」
「はいよっ!」
この間違い電話については、事前に井上さんと話し合って決めた暗号だった。
もしわたしが出前でそのメニューを伝えたら、わたしは自分の仕事に戻るということを指していた。
高橋佐智子。警視庁新宿中央署刑事課に所属する強行犯捜査係の刑事。階級は巡査部長。刑事になって五年目となる。それが本当のわたしだった。
なぜ刑事であるわたしがいのうえ食堂で働いているかといえば、それは現在追っている事件の容疑者がこのいのうえ食堂へとやってくるという情報があったためだった。そこで、わたしはいのうえ食堂の店員となり、容疑者が姿を現すのを待っているのだ。
飲食店で働くのも悪くないな。潜入九日目にして、わたしはそんな気持ちになっていた。
元刑事のやる飲食店。看板メニューは、もちろんカツ丼だ。元刑事が出す、取調室のカツ丼。そんな風な冠をつけて売り出せば、大ヒット間違いなしだろう。
食事の終わったお盆を下げて、テーブルを拭きながら、そんな妄想に浸っていた。
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