ミドリ(5)

 なんだか妙な気分だった。

 普段であれば座ることのない席に、自分がいる。

 いつもとは違う風景の取調室に新鮮さを覚えながらも、自分が置かれている状況を頭の中で整理していた。

 元カレの松本ミドリが、何者かに殺害された。殺害された場所は、勤務先であるゴールデン街の居酒屋だった。殺害に使用された凶器は、出刃包丁。しかも、その包丁には『高橋佐智子』とわたしの名前が彫られていた。包丁を購入したのは一〇年くらい前だと記憶している。合羽橋にある金物屋で購入した際に、名前を彫ってもらえるということで、ミドリがわたしの名前を彫ってもらったのだ。

 わたしは、小さくため息を吐いた。

 ミドリが殺されたのは、木曜日の深夜一時過ぎだった。ミドリが働いていた居酒屋は午前〇時までの営業であり、店を閉めた後で殺害されたようだ。金品など無くなっているものは何もなかった。このことから金品目的の強盗殺人ではなく、怨恨の可能性が高いということで捜査は進められていた。

 凶器として使われた包丁は、丁寧に洗ってあり、指紋の検出はすることができなかった。ただ、刃の部分にうっすらと血液反応があり、その血液がミドリのものと一致した。

「こんなことを聞きたくもないが、仕事だ。許してくれ」

「わかっています。なんでも、聞いてください。わたしの無実が晴らせるなら、それでかまいません」

 織田はわたしの前に腰をおろすと、記録係として座っている富永に取り調べをはじめる合図をした。

「木曜日の午前一時だが、どこにいた?」

「その日は日勤でしたので、自宅で寝ていたと思います」

「アリバイを証明できる人間はいるか?」

「いえ。ひとり暮らしですので、誰も証明は出来ません」

「では、少し時間を前に戻そう。水曜日の午後八時から午後十一時までの時間はどうだ?」

「えーと、その時間は……」

 わたしは記憶を辿りはじめた。

 普段、自分がやっている取り調べでは、質問に答えられない相手をこれでもかと疑って掛かるが、自分がいざ記憶を辿る立場になると、その記憶が全然出てこないことに驚きを隠せなかった。

「あ、バーにいました」

「バー?」

「はい。自宅の近くにある小さなバーです。店名はたしか……」

 思い出した店名を織田に告げる。

「そこには、誰と?」

「ひとりです」

「店員はアリバイを証明することはできるか?」

「たぶん。そのバーに行ったのは二回目のことですけれど、きっと店員は覚えていてくれているかと思います」

「わかった。では、そのバーを何時ごろに出た?」

「わかりません」

「え?」

「覚えていないんです。家に帰ってきたことは覚えているんですが……」

「なんだそれは。そんなに飲んだのか」

 さすがの織田もあっけにとられた顔をする。

「それもわからないです」

「高橋、お前ってやつは……」

 そこまで言ったところで織田は我慢できなくなり、笑い出した。

「どれだけ飲み歩いているんだ。若い娘が夜な夜な飲み歩いて」

「織田さん、それセクハラになりますよ」

「ああ、そうだった。悪い悪い」

 少し離れた席で記録を取っていた富永も我慢できなくなったのか笑い声をあげる。

 なんだか取調室内が、和んでしまった瞬間であった。

 その時、ドアがノックされた。

 富永が席を立ち、ドアのところへ向かう。

「お前ら、いい加減にしろ。これは正式な取り調べなんだぞ」

 ドアから顔を覗かせたのは、刑事課長の笹原警部だった。おそらく、笹原は隣の部屋で取り調べの様子を見ていたが我慢できなくなったのだろう。笹原の口調は怒ったものだったが、顔は仕方のない奴らといっているようにも見えた。

「失礼しました」

 織田が笹原に向かって頭を下げた。


 取り調べが終わったのは、それから一時間後のことだった。

 二川と堀部がバーへ向かい、佐智子のアリバイを確認してきたのだ。

 間違いなく、わたしはその晩はバーにいた。バーを出たのはちょうど日が変わる頃で、歩いて自宅マンション方面へと向かうわたしの姿を近所の防犯カメラがとらえていた。酔ったわたしが新宿まで戻るのには、タクシーで四〇分は必要だった。すでに終電の時間は過ぎており、電車は動いていない。もし、被害者の死亡推定時刻に現場に戻ったとして、誰にも姿を見られずに殺害を行うのは不可能に等しいという結論が出た。

「お疲れ様。これで捜査復帰してもらうぞ」

「わかりました。ありがとうございます」

「お礼は私にではなく、二川と堀部さんに言ってやれ。ふたりが高橋のアリバイを証明してきたようなものだ」

 織田はそういうと、取調室から出ていった。

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