ミドリ(2)

 また悪い夢でも見ているのではないだろうか。

 目の前に突き付けられた現実をなかなか受け入れることができなかった。

「被害者の氏名は、松本ミドリ。新宿区歌舞伎町一丁目の通称、ゴールデン街にある居酒屋のアルバイト店員であることがわかっています」

 ホワイトボードに並べられた被害者の写真。運転免許証を拡大した正面からの写真もあれば、血の海の中で倒れている発見時の写真もあった。

 見間違いようがなかった。髪の毛は金髪に変わっていたけれど、まちがいなくその被害者はわたしの知るミドリだった。

「通報してきた被害者の同僚によれば――――」

 新宿中央署の三階にある小さな会議室。その会議室に、刑事課強行犯捜査係長である織田智明警部補を筆頭に四人の強行犯捜査係のメンバーが集まっていた。

 状況の説明を行っているのは二川であり、残りの三人はわたしを含め本日の勤務者たちであった。

「あの……すいません」

 恐る恐るわたしは手を挙げた。

「なんだ。どうした、高橋」

 いつもとは違う様子のわたしに、織田が警戒したような顔で尋ねる。ちょっとした空気の変化。そういったところに織田は敏感に反応できる人なのだ。

「わたし、その被害者のこと知っています。大学の時の知合いです」

 元カレであるといった詳しい話は避けた。まあ、調べればわかってしまうことだが、いまはその部分には触れたくない気分だった。

「そうなのか。もし、この事件の捜査からはずれたければ、はずれても構わないぞ」

 何かを察したように織田が言った。その口調は厳しいものではなく、優しさを感じさせるものだった。

 わたしは自分の中からあふれ出てきそうな感情を押し殺した。いまは、そのタイミングじゃない、と。

「いえ、捜査を担当させてください」

 それだけいうと、わたしは小さく息を吐き出した。その吐き出した息は、決意の表れでもあった。

「よし、わかった。それじゃあ、高橋は被害者についてわかっていることを全部まとめておいてくれ。そこに新しい情報を足して被害者の情報を補完しよう。富永は新しい情報を仕入れて、高橋をバックアップしてくれ。二川と堀部さんは、犯人について目撃情報がないかもう一度洗いなおしてくれ」

 各位への指示を出すと、織田はネクタイをきゅっと閉めなおして会議室から出て行った。

 捜査本部となった会議室にわたしは籠っていた。ホワイトボードに貼り付けられたミドリの写真を眺めながら、ミドリの情報をパソコンで打ち込んでいく。出身地、最終学歴、家族構成などなど。わたしは自分の知るかぎりの情報をデータとして書き込む。

 ミドリが殺された。それだけが自分の中で消化しきれない事実だった。

 もう会わなくなって一〇年近いというのに、突然現れたミドリは死んでいた。

「ねえ、さっちゃん。犯人を捕まえてよ」

 甘えた声を出すミドリ。顔はいつもの優しい笑顔だが、腹には包丁が刺さっており、着ている服は血まみれになっていた。

「おい、大丈夫か。高橋」

 先ほどまでマシンガンのごとくキーボードを打っていたわたしが突然手を止めたことで、資料の整理をしていた富永が心配した顔で覗き込んでくる。

「あ……。はい、大丈夫です。ちょっと、被害者との記憶を辿っていただけです」

「そうか。それならいいんだが。無理はするな」

 どうしてなんだろう。どうして、みんなこんなに優しいんだろう。いまのわたしにはその優しさが辛かった。もっと冷たく、馬車馬のように働けと罵ってもらったほうが、気が楽だった。

 そして、その日は特に捜査の進展もないまま、終業時間を迎えた。

 外回りをしてきた二川たちも、新しい情報は掴むことができなかったらしく、夕方の捜査会議は五分も掛からずに終了した。

「おい、高橋。ちょっと飯でも食べて帰らないか」

「え、いいですけれど」

 珍しく富永が誘ってきた。

 いつも、終業時間と同時に刑事課の部屋を飛び出して帰ってしまう富永にしては、珍しいことだった。

 わたしたちは、署の飲み会などでたまに行くことのあるチェーン店の居酒屋に入ると、ビールで乾杯をした。

 つまみは全部、わたしが決めた。富永に何を食べたいか聞いてみたが「まかせる」のひと言を返してきただけだった。富永はそういう男だ。いつも食に関する判断を人に任せる。昼食などもそうだ。「なにを食べに行きますか」と聞いても「まかせる」のひと言なのだ。食へのこだわりがないのだろうと、わたしは勝手に思っていた。

 外で捜査の話をするのは厳禁だった。でも、逆にそれがいまは救いだった。余計なことを思い出さないで済む。わたしはビールジョッキを傾けながら、ほっとしていた。

 しかし、その日五杯目となるジョッキを空けたころには、すべてがどうでもよくなってきていた。

「あのね、富永さん聞いてください。ちゃーんと聞いてください」

「聞いてるよ。うるせえな、さっさと話せ」

 ふたりとも、したたか酔っていた。自分でも酔っぱらっているということはわかっており、呂律もあやしくなってきていた。

「ミドリくんは、大学時代の元カレなんですよ。元カレ。わかります、元カレ」

「ああ。だから何だよ。元カレっていっても、一〇年近く前の話だろ。一〇年ひと昔っていうんだよ、知っているか」

「自慢じゃないですけれど、あたしはね大学の時はモテたんですよ。ミドリくんでしょ、タケルくんでしょ、ハヤトくんでしょ……」

 指を折るようにして、歴代の元カレたちの名前を挙げていく。

「それがね、それが、この仕事をはじめた途端に男運が消えちゃったんですよ。周りにはたくさん男がいるっていうのに。だれもあたしに声をかけて来ない。どうなってんの、これ。おい、聞いているか、富永」

「ああ、聞いてる」

 返事をしたものの明らかに富永は話を聞き流していた。そして、テーブルの下でスマートフォンをいじっているのが見えた。

「こらぁ、聞いてないじゃないか、富永。おまえ、たった一つ歳が上なだけで、先輩づらしてんじゃねーぞ」

「歳がひとつでも上の人のことを先輩っていうんだよ。先輩づらじゃなくて、俺はお前の先輩なんだよ。警察学校を卒業したのも、刑事になったのも、新宿中央署刑事課に配属されたのも、全部俺の方が先なの。だから、俺はお前の先輩なんだ」

 ド正論を打ち返す富永に、わたしは何の反論もできなかった。

 その悔しさを紛らわすため、わたしはコップに入っていた日本酒を一気に飲み干した。

「すいません、おかわりください」

 そんなこんなでふたりは終電が無くなるギリギリまで、酒を飲み交わした。

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