5.

師弟関係(1)

 芝本しばもとさんが、今年一杯で退職をする。

 その話を人づてに耳にしたのは、春先のことだった。誕生日を迎える十一月で定年を迎えるそうだ。その話を聞いた時から、わたしの胸にはポッカリと穴が空いてしまったかのような気分になっていた。

 芝本喜一きいち。彼はわたしがはじめて刑事課に配属された時にコンビを組んだベテラン刑事だった。芝本さんはわたしの教育係であり、そして相棒でもあった。どんなに小さな事件であっても全力で捜査を行い、解決へ導く。それが刑事の仕事なのだとわたしに教えてくれたのは、芝本さんだった。

 勤務時間終了と同時にパソコンをシャットダウンさせて席を立ち上がったわたしは、洗面所に寄って化粧を直してから新宿中央署を出た。

 今夜、浅草で芝本さんの送別会が行われる。会場は芝本さんが行きつけにしている天ぷら屋だった。そこの店の奥座敷を借り切って、送別会を行うのだ。この送別会の幹事を務めるのは、警視庁捜査一課長である緑川みどりかわ警視正であり、緑川一課長もまた芝本さんから刑事としてのイロハを叩き込まれたひとりだった。今回の送別会は、わたしや緑川一課長のように芝本さんから刑事の基本を教わった人たち――通称、芝本教場の生徒たちが中心となって行われるものだった。

 会場につくと、見覚えのある顔の人たちが揃っていた。幹事である緑川一課長をはじめ、各所轄署の名物刑事たちの姿もある。わたしは、以前いた所轄署でお世話になった先輩刑事や仕事で一緒になったことのある刑事たちと談笑を交わしながら、主役である芝本さんが会場に姿を現すのを待っていた。

 約束の時間の五分前に到着。芝本さんはいつだって時間には余裕を持って行動する人だった。変わらない笑顔。浅黒く日焼けした肌は、現場げんば百篇ひゃっぺんの理論を地で行く、刑事の証拠でもあった。深く刻まれた皺と左頬に薄く残る傷痕。傷痕は芝本さんが新人だった頃に、犯人確保の際に大乱闘を繰り広げて、ナイフで切られた時のものだという話を聞いたことがあった。

「芝本さんも歳を取ったな」

 誰かが笑いながら軽口を叩いた。

 その言葉を聞いて、わたしはハッとさせられた。短く刈り上げられた髪は総白髪で真っ白になっており、目の辺りにも皺が増えたように思えた。

「ひさしぶりだね、高橋さん」

 出迎えをしたひとりひとりに丁寧に挨拶をしてまわった芝本さんは、わたしにも声を掛けてくれる。

「ご無沙汰しています」

 ただの挨拶だった。それだけだったはずなのに、わたしの胸には熱いものがこみあげてきていた。

 に、刑事の仕事ができるわけねえだろ。

 はじめて所轄署の刑事課に配属された際、わたしに向かってそう言った上司がいた。口が悪く、わたしにとって歴代で一番嫌いな上司でもあった。

 芝本さんは、そんな上司との間に入ってくれて、関係を執り成してくれたりもした。

『まわりがどう見ているかなんて、気にすることはないさ。結果を出せばいいんだ。俺たち刑事は事件を解決するのが仕事だ』

 そういって芝本さんはわたしを仕事に集中させた。

 わたしは芝本さんから刑事としてのイロハを学び、刑事とはどうあるべきかといった刑事の哲学も教えられた。わたしにとって、芝本さんは良き先輩であり、師匠であり、刑事としての理想像であった。捜査に行き詰った時は、芝本さんだったらどうするだろうかと考えて行動したことも少なくはない。どうすれば、芝本さんのような刑事になれるだろうか。そんなことを日々考えていた。

 人事異動で別の所轄署へ異動が決まった際に、一番最初に異動の報告をしたのは芝本さんだった。

『頑張りなさい。あなたなら、できる』

 芝本さんはそういって、背中を押してくれたのだ。

 わたしはそんな芝本さんのことを師匠として慕い続けていた。

「元気そうで、なによりだ」

 酒の席が進む中でお酌をしにいった際、芝本さんは破顔一笑で迎えてくれた。

「最近は、よく高橋さんの噂を風の便りで聞くよ」

「本当ですか?」

「ああ。新宿中央署に腕のいい女刑事がいるってね」

 嬉しかった。芝本さんは冗談で言ったのかもしれないが、それでも嬉しかった。

「なにか捜査で行き詰ったこととかがあったら、この言葉を思い出してください。現場百篇。それが刑事の哲学だよ、高橋さん」

 芝本さんはそういうと、グラスに半分ほど残っていたビールを一気に飲み干した。 

 最後に芝本さんへ花束を渡してほしい。幹事を務めていた緑川捜査一課長にそうお願いされたのは、トイレに立った時だった。

 花束はすでに買ってきてあり、お店に頼んで隠してあるということだった。

 安易な気持ちで引き受けたものの、実際に渡すタイミングになってみると、とんでもない大役を申し付けられたものだと、わたしは実感していた。

「芝本さん、お疲れ様でした」

 そういって、芝本さんに花束を渡す。絶対に泣くものかと思っていたが、花束を受け取ってくれた芝本さんの目に涙が溜まっているのを見た瞬間に、わたしの涙腺は崩壊していた。

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