十
ルンが来てから十日が経った。まるで弟のようでルンが愛おしかった。
弟は、そして両親はどうしているのか。今、どこでどんな生活をしているのかわからない。毎月、少しずつ差はあるものの、サナ自身が父親の口座に仕送りを送金している。翌月振り込む際に残高を確認すると、必ずゼロになっている。その、残高ゼロこそが、サナにとっては生きがいだった。なぜなら、家族を生かす力になれていると実感できるから。だからこそ、サナは、こんな汚れた仕事をして、どんどん体と心が汚れていっても、耐えられた。
ただ、いつまでこの生活を続ければいいのかわからないことがつらかった。田口に訊いても殴られるだけだ。相談する相手もいない。警察に相談に行こうと考えたこともある。だが、警察は信用できなかった。客の中に何人か警察官がいるからだ。人間不信。それに、警察へ駆け込んだことがわかった時点で、家族は殺されそうな気がする。
以前、田口はサナに生命保険を掛けていると言った。おそらく家族にも掛けていることだろう。サナが体で稼いだ金を掛け金にして……。
いっそ死んだ方がマシだと考えたことも一度や二度ではない。しかし、死ねば保険金がヤマト会に入ることになり、ヤマト会が潤うことになる。それは悔しかった。かといって、いつ終わるかもしれないこの生活を続けることもしんどかった。
客を取っている間、ルンはどんな気持ちで押入れにいるのだろう。サナの「仕事」を覗き見しているだろうか。いや、ルンはそんなことはしないだろう。目を閉じ、耳を塞ぎ、じっと耐えているような気がした。そんなことを考えると、胸が苦しくなる。後先考えず、ルンをこの部屋に引き入れたのは自分だ。今考えても、衝動的だったし、積極的でもあった。運命などとは思わないが、ルンがこの路地裏に逃げ込んできたことも、自分がその時間帯に客引きをしていたことも、ヤマト会が共通の敵だということも、すべて偶然だとしても、それだけ偶然が重なればそれは縁だと思う。
ただ、ルンへの気持ちは恋愛感情とは少し違う気がしていた。弟のような存在……いや、それは自分にそう言い訳しているだけなのだろうか。自分には恋愛などする資格がないことがわかっているから……。
ルンに手を握ってもらえるだけで気分が落ち着いた。安心できた。
やはりルンが好きなのか。
ルンはどう思っているのだろう。もちろん、ヤマト会のこともあるのだろうが、ルンは一歩も外へ出ず、この部屋にいてくれている。こんな仕事をしているサナを軽蔑する様子もなく、感謝さえしてくれている。
ルンがここを出ていくことを考えるだけで気が変になりそうになる。
自分でも不思議だったが、理屈じゃないのだと思った。
とはいえ、ルンはいつかここを出ていく。そしてそれは、そう遠くない出来事のようにサナは感じていた。
スマホの電源を入れる。途端に大量の通知。ヤマト会の文字。それに交じってチャンからの着信通知。
チャン……三日前のものだ。ここへ来て十日。チャンと別れて一週間後に着信があったということだ。だが、一度きりだ。もしかしたら、警察に言われてルンにかけてきたのかもしれない。警察はルンを逮捕しようとしているのだ。そして、チャンは警察に協力した。
咄嗟に電源を切る。スマホの電源を入れていると、居場所を突き止められると聞いたことがある。
チャンが警察へ協力するのは当然だ。なぜなら、ルンはチャンを見捨てて逃げたのだから。
そして、ヤマト会がルンに執拗に電話をかけてくるのも当然だ。ヤマト会は、監理組合に金を握らせ、ルンやチャンを手に入れたのだから。払った分を回収するまで、いや、もうとっくに回収しているだろうが、ヤクザのメンツにかけても、ルンたちを捕捉しようとするはずだ。
何度も考えた。なぜ、わざわざ面倒な手続きを経てまで、技能実習生を確保したいのかと。違法薬物の売買に従事させる人材が必要なら、そのへんの不法滞在者に声をかければいいのにと。チャンともそういう話をした。
頭の回転が速いチャンは言った。不法滞在者たちは、いつ飛ぶかわからない。それこそ、組の大切な資金源である薬物をごっそり持っていきかねない。それに引きかえ、技能実習生の大半は、故郷へ仕送りをするために、必死で稼ごうとするので、逃げないからだと。パスポートやビザを人質にされていることもあるだろう。
なるほど、と思った。ルン自身もそうなのだと思い至った。確かにそうだ。この国へ来た瞬間、騙されたと思ったが、それでも逃げなかった。いや、逃げられなかった。逃げるという選択肢はなかった。
両親は方々に借金をし、ルンを日本に送り込んでくれた。この国の農業技術を持ち帰るという目的こそ即座に消え去ったものの、仕送りをしないことには家族が途方に暮れてしまう。だから、ルンもチャンも、ヤマト会の汚れ仕事に手を染めてきたのだ。
しかし、そのヤマト会からも逃げ出してしまった。逃げ出した当初は、簡単に成し遂げられたと思い、自由を感じ、新しい未来が拓けた気がした。
だが、すぐに恐怖心や不安感が押し寄せてきた。後悔もしていた。チャンのこともある。
この先どうなるのか……。
サナには感謝している。どこの馬の骨かもわからない他国籍の男を部屋に入れてくれ、食事の世話までしてくれる。
なぜ、見も知らぬ人間にそこまでしてくれるのかと何度も考えたが、答が出るわけなどなかった。ただ、ルンがサナに親近感を覚え、サナを信じ、ここでサナの世話になっているという事実こそが、答なのではないかと考えていた。
サナも同じような理由でルンの面倒を見てくれているのかもしれない。
最初は、歳下だと思ったし、妹のように感じたこともある。だが、同い年だと知って、サナを意識するようになった。押入れの上下で手をつないで眠るだけの関係で、それ以上何の進展もない。
サナに対する恋愛感情がないかと問われれば、答は否だ。サナに惹かれている自分を自覚していた。
ただ、怖かった。不安と言った方が適当だろうか。このままサナとそういう関係になったとして、その先の未来が予想できなかった。
現実というこれ以上ないリアルがルンにはある。もちろんサナにも。
ルンの場合、仕送りをしなければ家族が路頭に迷うことになる。そして仕送りをするには金を稼がなければならない。それがリアルだ。だから、いつまでもここでこうして息を潜めているわけにはいかない。だが、どうやって稼ぐ?
「!」
ずっと着たままのイエローのダウンジャケット。この国へ来る時にベトナムで買ったものだ。以来、冬場はずっとこれで通している。そのポケットに、覚醒剤が入っている。
これを売るか……。売ればそこそこの金になるが、だが、その先どうする? それに、これをどこで売る? ミナミは無理だ。この新世界も危ないだろう。新世界は、ヤマト会と反目する狭間組とかいう組織の縄張りだと聞いていたが、この売春民泊はヤマト会の息がかかっている。ヤマト会がこの新世界に縄張りを広げようとしているのかもしれない。
そのあたりの事情はわからないが、この新世界で商売をするのは危険だ。やはり、どこか遠くに拠点を移すべきだろう。
ルンは、サナとの訣別を想像し、胸が苦しくなった。
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