通天閣のネオンがギリギリ届くおでん屋【番外編】
登美丘 丈
一
ルンは逃げた。必死に逃げた。通りの向こうで警官が何やら叫んでいる。
ルンは路地を縫うように走った。早い段階で、警官が追ってきていないことに気づいていた。それでもルンは、恐怖に背中を押されるように走り続けた。捕まれば祖国・ベトナムへ強制送還される。それは困る。
チャンはおそらくダメだろう。警官に身柄を確保されていた。今頃、警察署か。
大阪ミナミ。ルンとチャンは、毎日場所を変え、大麻や覚醒剤、MDMAを売り捌いていた。アメリカ村が主な稼ぎ場だったのだが、警察が頻繁にパトロールするようになったため、最近は避けていた。そして今日、まだまだホームレスの姿が多くみられる新今宮のガード下で商売をしていたのだが、尿意を催したルンがトイレに行っている間に、一人で商売をしていたチャンが警官に職務質問されたようだ。
チャンは油断したのだろう。同時に、商売に色気を出したのかもしれない。いつもはどちらかが客と交渉し、片方が見張りにつくのだが、外国人の団体が来たため、欲が出てしまい、一人で相手をしてしまったのだ。気づいた時には警官がすぐ近くまで来ていたというところだろう。
公衆トレイを出たルンの目に、警官に羽交い絞めにされるチャンの姿が飛び込んできた。
チャンがルンに気づく。チャンはベトナム語で叫んでいた。「助けてくれ、ルン!」。
だが……ルンはチャンを助けず、逃げた。
警官から逃げた。そして、ヤマト会から逃げた。
ヤマト会……ルンたちを騙して売人に仕立てたヤクザ。
ルンは常々考えていた。チャンとも話していた。いつまでもこんなことをしていてはダメだと。だが、やめられなかった。やめると、ヤマト会に殺されるかもしれない。それより何より、家族への仕送りができなくなる。
他の仕事を探す手もあるかもしれない。でも、ヤマト会に、パスポートもビザも取り上げられている状態では、まっとうな仕事には就けないだろう。
警察に駆け込むことも考えた。だが、警察はあてにならないことは、日本でのこの三年間で学習していた。警察は助けてくれない。外国人には冷たい。入管も同様だ。外国人を蔑んでいる。犯罪者だと思っている。汚い生き物だと決めつけている。
ルンは逃げた。
ヤマト会から逃げた。警察から逃げた。すべてから逃げた。
立ち止まり、振り返る。大丈夫、誰も追ってきていない。
なんだ、簡単に逃げられるじゃないか。なぜ、もっと早くこうしなかったんだ。一瞬、チャンの顔が脳裏に浮かんだが、自由を手に入れた気になったルンは高揚した気分の中、すぐにチャンのことは脳裏から消えていた。
通天閣が見えてきた。
サナは民泊の前で客引きをしていた。
民泊……とは名ばかりのただの売春宿だ。二階建ての木造アパート。各階に五部屋ずつ。民泊の届けを出しているものの、実態は売春婦が住み、それぞれの自室に客を連れ込み、体を売っていた。
もちろんヤクザの息がかかっている。そして、警察もそれを黙認していた。いや、黙認せざるを得ないのだ。自分の部屋に男を連れ込み、自由恋愛をし、小遣いを貰う。それのどこが違法なのだと言われれば反論できない。そればかりか、警察官も客として訪れることがあった。
腐っている。サナは常々そう思っていたし、そして頭の中でその言葉を呪詛のように繰り返しながら股を開いていた。
気怠い。常に気怠い。もう三年、こんな生活を送っている。今年二十五になった。組員からは、「あと数年が旬やな。年増になったら、飛田の妖怪通り行きや」と言われている。
飛田新地。昔ながらの遊郭街。若い女郎がほとんどだが、妖怪通りといって、年増女郎が中心の一角がある。そのことを言っているのだ。
なぜ、こんなことになってしまったのか。考えても仕方ないことだが、ついつい考えてしまう。両親がつくった借金のカタに取られているのだが、いつまで経っても返済は終わりそうにない。家も店も取り上げられた両親と弟は元気で暮らしているのだろうか。
と、そこへ血相を変えて走ってくる男がいた。かなりの距離を走ってきたのだろう、口を開けて白い息を激しく吐き出している。
サナは一瞬、弟が走ってきたのかと思った。だが、すぐに錯覚だと気づく。似ているのは、小柄で色白というところだけだ。日本人ではない。喋らなかったら、日本人に間違えるかもしれない。おそらくベトナム人……外国人を相手にすることもあるサナは、その雰囲気で国籍の違いに気づくことができるようになっていた。
サナは咄嗟に、「こっちよ」と叫び、まるで襷をつないだ駅伝ランナーに仲間がするように、彼を抱きかかえるようにして受け止め、アパートの鉄階段へ誘導した。
男は肩で、いや、全身で息をしながら、同時に戸惑いながらもサナについてきた。
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