通天閣がすぐそこに見えるところまで来たルンは、通りを折れ、路地に入った。昔ながらのアパートや宿が建ち並ぶ一角。

 通天閣を中心とした新世界の町は賑やかだ。昔はホームレスしかいない町だったそうだが、今では串カツやお好み焼き、スイーツなどの飲食店で賑わう町に様変わりしている。狭い町だけに、訪れる人の密集度は濃く、ミナミ以上の賑わいを見せることもある。

 だが、ルンが紛れ込んだ路地は、そういった賑わいの町と目と鼻の先にあるのに、まるで別世界のようだった。昔の日本がどういうものか詳しくは知らないが、まるで何十年も前にタイムスリップしたかのような錯覚に陥った。ベトナムの田舎にも似ている。

 そんなセピアカラーの中、そこだけ光って見えた。古ぼけた、今にも崩れてきそうな木造アパートの前。通せんぼをするように両手を大きく広げた女性が何やら叫んでいる。

 細い路地。ルンはスピードを落とした。そうしないと、彼女を吹っ飛ばしてしまう。だが、勢いは完全には止められず、彼女とぶつかるようになってしまった。

 彼女はルンを抱きかかえるようにし、アパートの階段へ誘う。ルンは背後を振り返った。大丈夫、警官はさすがにもう追ってきていない。ルンは彼女についていくことにした。なぜか安心感があった。親近感もあった。妹に似ていた。もちろん容姿は似ても似つかないが、雰囲気が似ていた。

 彼女は鉄階段を上がると、一番奥の部屋までルンを連れていき、ドアを開けると、「入って」とルンの背中を押した。

 六畳の和室と半畳ほどのキッチン。部屋には布団が敷かれている。彼女はそれを素早く畳むと、ルンにその上に座れと言う。ルンが躊躇していると、「大丈夫。仕事道具だから、座って」と言った。ルンが座ると、

「わたし、サナ。あんたは?」

「ルン……」

「ルン? 女の子みたいな名前ね」

「……ベトナムでもこの名前は珍しいよ」

「やっぱりベトナム人?」

「そう。技能実習生」

「ぎのう……じっしゅう?」

「……うん」

 ルンは説明しようとしたが、サナが断った。わたしはバカだから、難しいことはわからないからと言って。留学生みたいなもんでしょ、とも言った。

 サナは、プラスチックのコップに水道水を入れ、出してくれた。ルンが一気にそれを飲み干すと、サナは笑いながらおかわりを入れてくれた。

「逃げてきたんでしょ?」

 サナがルンの隣に座り、訊いてくる。ルンが曖昧に首を傾げると、

「警察?」

 と重ねて訊いてきた。

「警察……それと、ヤクザ」

 ルンが答えると、サナは少し顔を曇らせたが、「しばらくここに隠れてる?」と言ってくれた。

 ルンは再び曖昧に首を傾げると、ダウンジャケットのポケットからスマートフォンを取り出し、チャンにかけてみた。だが、電源が切られていた。警察に拘束されているということだろう。

 ついさっきまで、自由を手にした気になっていたのに、不意に不安が頭をもたげる。高揚した気分はどこかに消え去っていた。

 チャンが逮捕されたのは間違いない。警察での取り調べの後、入管に収容され、退去強制令書が発付されるという流れになるだろう。パスポートとビザを失くしたと訴えても、不法滞在者には違いない。

  ルンもチャンも、この日本に技能実習生として入国したという記録は残っているはずだが、実習生は、二年目を迎える際、試験を経て、在留資格変更の申請をしなければならない。当然、二人ともしていない。ということは不法滞在者だ。強制送還だ。

 チャンが警察にヤマト会のことを言うとは思えない。なぜなら、報復が怖いからだ。それに、常々二人で話していた。もし警察に捕まっても、ヤマト会のことと、お互いのことは絶対に謳わないでおこうと。

 チャンは黙秘を貫いているだろう。あるいは、日本語がわからないフリをしているか。

 と、スマホが震えた。ヤマト会の文字。

 漠然と感じていた不安が恐怖に変わる。チャンが捕まったことがヤマト会に知れたのか。あるいは、すでに警察がヤマト会に……。

 そうだ、チャンが警察にヤマト会のことを謳わなくても、ミナミの街で違法薬物を売り捌いていたのだ。ヤマト会とのつながりを疑われることになる。

 いや、こんなに早く警察が動くとは思えない。そうだ、定期連絡だ。ルンたちから定期連絡がないことに不信感を覚え、かけてきたのだろう。

 手の中で震えるスマホを見つめる。出た方がいいだろう。絶対出た方がいい。

 一方で、逃げたい、関わりを断ちたいという想いがあった。

 しかし……苦い記憶が蘇る。今まで何度も殴られ、蹴られ、死ぬような目に遭わされた。些細な失敗が原因だが、時には組員の虫の居所が悪いという理由で、とばっちりを受けたことも一度や二度ではない。

 出た方がいい。だが……逃げたい。もう奴らとつながっていたくない。

 生まれ変わるんだ!

 ルンはそのまま電源を落とした。

「いいの?」

 サナが訊いてくる。ルンは頷いた。ルンは震える手でスマホをダウンのポケットに戻した。

「少しだけ……隠れて……隠れさせて……」

「いいよ、匿ってあげる」

「かくまって……ください」

 ルンは頭を下げていた。

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